web書き下ろし短編
宝石と、ケーキ。
どちらにしても俺の上司、無類の美貌を誇る宝石商リチャード・ラナシンハ・ドヴルピアン氏の好物である。もちろん彼は宝石を食べるわけではないしケーキをお客さまに商うわけでもないので、それぞれ愛で方は違っているが、どちらも同じく、彼の心の大事なところをしめている、ある意味『彼の一部』という感じの要素だ。それからもちろん、ロイヤルミルクティーも。
銀座七丁目の雑居ビル二階。リチャードの営む宝石店『エトランジェ』には、それなりの理由があって、宝石店にあるまじき立派な厨房がついている。ほぼお茶くみのアルバイトである俺の主な持ち場だ。
鍋の火を止めて、厨房から、ちらりと応接間の様子をうかがう。
次のお客様がお越しになるまでにはあと一時間ある。骨太のセールストークを繰り広げた店主は、ひとりソファで休憩中で、甘味大王モードになっている。本日のお茶請けは甘夏のたっぷりのったフルーツタルトである。きらきら輝くジュレが柑橘類の房をキラキラ輝かせ、その傍らで美貌の男が、さりげなく目をきらきらさせている。無表情を装っているが、時々唇が喜びの弧を描く。
ソファにスタンバイしているが、彼はまだ手をつけていない。彼の大好きなお茶がまだはいっていないからだ。目が合ってしまった。
「正義、お茶を」
「ただいま、ただいま」
鍋の中のロイヤルミルクティーをノリタケのカップにうつして、お盆でしずしずと運んでゆき、どうぞと差し出すと、リチャードはサンキューと発音した。この端麗さと、ぶっきらぼうな『お茶』の一言がどうにもかみ合わなくて、俺は少し笑ってしまった。めざとく見咎めた店主が眉根を寄せる。
「何です?」
いや、大したことじゃないのだけれど。
「前にも言ったっけな? その言い方さ、昭和のお父さんぽいなって」
「………………」
俺がこらえきれずに破顔したのとは対照的に、リチャードは微かに表情を硬直させた。どうしたのだろう。麗しの宝石商はテーブルから俺の方へと体の向きを変え、軽く一礼して見せた。
「中田さん」
「え? は、はい」
「私のためにお茶をいれていただけることは、望外の喜びでございます。ありがたく存じます」
「いや、いやいや! そんなこと言ってほしいわけじゃ……ああっそうか、言い方が悪かった」
ごめんと謝ってから、俺は何から言おうと考えた。勘違いさせてしまったのだ。昭和のお父さんみたいな言い方をするのはよくないと。違う。全然違う。俺はどうしていつもこう、肝心なところが伝わらない言葉を使ってしまうのだろう。
「言い方が悪いとか、そういうことは全然思ってないんだ。むしろ逆で……何て言うか……」
俺が口ごもっている間、リチャードは待っていてくれた。貴重なおやつタイムを浪費させていることが申し訳ない。手短に。簡潔に。そう思えば思うほど何も言えなくなるので、結局いつもの戦法になった。出たとこ勝負だ。
「うちはさ、ひろみが……母親が、あんまりこだわらない性格だったし、時間がない家だったんだよ。お茶を飲んで喋るとか、そういうのはなくて……暇があるならお互い他にやることが幾らでもあるだろって感じでさ。ティータイムっていうのか? 初なんだ。だから、こういう風に誰かに『お茶』って言われるのも楽しいし、こういう準備をしたりするのも」
何だか贅沢をしてる気がする、と。
そう言って俺が笑うと、リチャードは一口、ロイヤルミルクティー音もなく飲んだ後、俺の顔をじっと見た。
「リチャード?」
「確かにこれは、贅沢です。自分の指定した甘味を、土地勘のある方に買ってきていただき、レシピ通りにお茶をいれてくださる誰かに、ロイヤルミルクティーをいれていただき、好きなタイミングで供していただく」
「え? ああ、うん、まあ」
「『私にとっては』と付け加えるべきですが」
そう言うとリチャードは、ソファの上で組んでいた脚を解き、俺のことをじっと見た。この顔に正面から見つめられると、今でもまだ時々、相手が本当に人間なのかどうかわからなくなってしまうような瞬間がある。宝石が、地球の熱で溶かされ、押し固められた結晶ならば、こいつは世界の『きれい』を凝縮した何かだと思う。
「雰囲気に流されやすいタイプとまでは言いませんが、あなたの仔犬のようなメンタリティは、人間の善良さと暗愚さのあわいを行き来している類のものです。もう少し理性的な思考を試みては? 私に贅沢をさせることに、あなたがある種の贅沢さを感じるのであれば、話は別かもしれませんが」
「……あっ、それはありそうな気がする」
俺の言葉に対するリチャードの返答は、いわゆるノン・バーバル・コミュニケーションだった。かなり、かなりかなり嫌そうな眼差しである。しまった。今の言葉は肯定してはいけない言葉だったらしい。でも、ちょっと考えてみてほしい。目の前で絶世の美男子が、嬉しそうな顔で自分のいれたお茶を飲み、おつかいしてきたケーキを嬉しそうに食べている。そんなものを見たら嬉しい気分にならないか? ならないだろうか? 全然? 知り合いに似たようなバイトをしている人間がいたら相談してみたいのだが、あいにく思い当たらない。本人に納得してもらえる理屈でもなさそうだ。うーむ。
申し訳ございませんでしたと俺が頭を下げると、わかればよろしいと美貌の店主はすました声で言った。こういう声を出す時のリチャードが本気で怒っていないことはもう知っている。俺が本当にどうしようもないことをした時には、リチャードは黙って、俺の目をじっと見てくるのだ。何をしたのかわかっているか? と問いかけるように。この間の、ダイヤモンドをリカットにやってきたお客さまの時にはそうだった。結果的に悪いことにはならなかったからよかったものの、あの時には胆が冷えた。
今までで最高に俺がやらかしてしまったのはあの時だと思うが、それにしても空のように美しいリチャードの瞳の中に、俺は『怒り』の感情を見たことがない。あいつの中にあったのは別のものだ。『残念だ』とか、『あなたはもっとできる人だと思っていたのに』とか。突き詰めると『あなたはもっとできるのだから頑張りなさい』に通じる叱咤激励なのだ。
全ての道はローマに通ずではないが、何を言うにしろやるにしろ、俺はこのリチャードという男が、俺に無意味に遠方のパティスリーを指定して無茶なおつかいをさせたり、忙しいタイミングでお茶をいれさせるようなやつとは思わない。そんなことをして優越感に浸るような、つまらないことに楽しみを見出す男ではない。そのくらいはわかる。けっこう真面目に尊敬しているのだ。
たとえ彼が、身の上話を全然してくれない、遠い国からやってきた、多言語を操る年齢不詳の人物でも。
無鉄砲な信頼だろうか。でも俺の中ではそれで筋が通ってしまっているのだから、俺はそれでいいと思っている。
尊敬する相手がくつろぐ時間に一役かえるのなら、それはかなり『贅沢』なことだと俺は思う。
とはいえこの感覚を、巧くリチャードに伝える言葉が、俺の中には見あたらない。『尊敬している相手の役に立てると嬉しいからいいんだよ』? 『お前のことすごくいいやつだと思ってるから何でも頑張るよ』? どっちも駄目だろう。俺でもわかる。『黙れ』と言われるだろう。
見つめられるまま黙り込んでしまった俺を、リチャードは次第に、奇妙なものでも眺めるように睥睨し、今日は具合が優れないのですかと、とんちんかんなことを聞いてきた。何かにつけて気を回してくれるところもありがたく思っているのだが、これもまた、うまく言えない。俺の『ありがとう』は、リチャード曰く舌禍ののもとらしい。『舌禍』という単語は日本語検定の何級に出題されるのだろう。弁舌さわやかな宝石商の姿に学んでいれば、いつか言えるようになるだろうか。
「……そのうち言うよ。今はちょっと、何も言えない」
「左様でございますか。お待ち申し上げておりますよ」
「ありがとう……あのさ、やっぱり俺も、敬語で話した方がいいかなあ。何事にもけじめってものが」
「以前のような『こちらにお茶を置かせていただき申し上げます』などという最新の日本語をたびたび発明するようであれば、今のままの方があなたらしくて結構かと」
「あっ、今のは、皮肉だな?」
「グッフォーユー。頭の巡りが少しよくなりましたね。それにしても、あなたは今までのアルバイトではどうしていたのです」
「言葉遣いってことか?」
リチャードは無言で頷いた。これまでの職場は、どちらかというと礼儀より体力勝負だったので、大体『うーす』『ちーす』『ざーす』で何とかなった。と俺が包み隠さず言うと、リチャードは花のかんばせに頭痛の色を浮かばせて、深々と嘆息した後、首を左右に振った。
「……言葉の用法や語彙に変化のない言語とは、つまるところ話者のない言語です。死に絶えた言葉とも言うことができるでしょう。言語学のだいご味の一環は、語義が歴史を追うごとに変化してゆく様相そのものでもあるのでしょう……が…………」
リチャードは再び、首を横に振った。気持ちはわかる。逆の立場で考えてみればいい。俺が必死で英語を勉強した日本人だとして、複雑な構文もどんとこい、新聞も読めるぜとはりきってイギリスに働きに出てきたものの、現地の人が『うーす』『ちーす』『ざーす』相当の言葉でやりとりしていたら。肩透かしだ。かなりがっくりくると思う。
とはいえリチャードの職場はテレビ局の守衛ではなく銀座の宝石店であるのだし、この美しい日本語だって明らかにこいつの商売道具の一つとして役に立っているのだから、落ち込むことはないと思うのだが。
俺が大体そういうことを言うと、美貌の宝石商はややあってから、笑い始めた。何だろう。俺の想像は、また的外れだったのだろうか。
「失礼。私は別段、自分の言語学習の成果を生かしたくて宝石商になったわけではありませんし、過去のまぼろしに基づいて現在の実像を批判する類のことに精を出したいとも思いません」
「それって『最近の若者の言葉遣いは』とか、そういうことか?」
「あるいは」
リチャードは肩をすくめ、そして無言ですっと指をのべた。ソファはガラスのテーブルをはさんで、向かい合うように設置されている。
「アルバイトさん、あなたも休憩にしなさい。タルトは二切れ買ってきていただいたはずですよ」
「あれは終業後のお楽しみじゃないのか?」
「その時にはその時で食べたいものが別にあります。元気の出る味でしょう。さっさとあなたの分のお茶をいれてケーキを持ってきて、そこに座りなさい」
俺は目をぱちぱちさせた。リチャードは再び眉間に皺をつくる。
「何か?」
「……やっぱり贅沢させてもらってるよ、俺も」
「左様でございますか」
「うん。ありがとな、特等席だよ。お前の顔見ながら食べるケーキって、何でこんなにって思うくらい、いつもうまいんだ」
そう言って俺は厨房に駆け戻り、ケーキとお茶を携えて揚々と戻ってきたのだが、その時にはリチャードのご機嫌は氷点下にひえこんでいた。心なし目がじっとりしている。何が。俺の不在の間に何があった。ケーキは無事だ。ロイヤルミルクティーも無事である。ということは、何かがあったのは俺の不在の間ではなく。去り際の――
「あのさ……さっきのも駄目だった?」
「残念ながら」
「ど、どのあたりから駄目だった……?」
「やかましい。全般にわたって遺憾の意を表明します」
「すみません! ごめん。ごめんなさい。大変申し訳ございませんでした」
「『私の顔を見ながら食べるケーキがうまい』という不可思議な現象について申し開きがあるのであれば、今の内に腹蔵なく言っておくことですね」
やはり求人を出すべきかとリチャードは独りごちる。免職の危機だ。やばい。何でもいいからひねり出せ。何故。リチャードの前で食べるケーキは。何でこんなにって思うくらい、おいしいのか。
あ。
「……『満開の桜の下で食べると、いつもと同じ海苔弁当でも百倍うまい』で、どうかな!」
会心の出来だ。我ながら言い得て妙だと思う。
伝わっただろうか。
リチャードの顔色をうかがう。美貌の宝石商は、俺の顔を見たまま固まっていた。何だろう。俺が首を傾げると、ぐるんと音がしそうなほど勢いよく首をまわして目を背ける。
「リチャード? どうした?」
「……私は別段、そういった理由を、言語化してほしかったわけではない」
「あ……『申し開き』って、『説明』って意味じゃないんだな……?」
「もういい。あなたを説得しようと思った私が愚かだった。食べなさい」
「えっ? 今のでOK? 申し開き、OKだった? バイトは継続で」
「それ以上奇妙な言葉をひねりだす前にその粗忽な口の中にケーキを詰め込め。速やかに」
「はい」
俺がしおしおとソファの向かいに腰掛け、向かい側をあまり見ないようにしながらケーキを食べ終えた頃、リチャードは何気なく、来週もよろしくお願いしますねと言った。ありがたい。さしあたり俺の雇用は守られた。奇妙な縁で手に入れた職だが、俺にとってこの店は、とてもありがたい場所なのだ。
いつやってきても満開の桜が咲いているような。
(2017/4/7 本編はweb掲載用書き下ろしです)