「カモミールティーです。どうぞ」
そう言って、彼は私にお茶を差し出した。白いマグカップ。白いソーサー。タイル壁の上に木のお盆と、寸胴な円錐形のガラスのティーポット。周囲に広がる、緑の庭の風景。オレンジの果実。金色の日差し。
緑のエプロンをつけた甘い顔立ちのお兄さんは、癖のある黒い髪をオールバックのひっつめにしている。髪の結われた襟元で、黒い毛が少しはねていた。
何がどうしてこうなったのか、正直よく覚えていない。
ただ今日の私は、会社から帰宅するのが嫌だった。とても嫌だった。
帰宅したらそれで『今日』を終わりにしなければならない。
帰宅したら今日という日が定まってしまう。寝ざめが最悪で少し遅刻して、うまくやれない先輩にネチネチと小言を言われて、遠くから星を眺めるような気持ちで追いかけていた芸能人が結婚したというニュースが入ってきて、夕方に後輩から「連絡したと思ってたんですけど」と言われて締め切りのタイトな新規案件を大量に片付けることになって、夕方退社する時にローファーのヒールを折った日で、それ以外のことは何もなかったと認めなければならなくなってしまう。
少しでも元気が残っていたなら、電車に乗って買い物に行ったと思う。でも右足のヒールは外れかけてぱたぱたしていたし、何より気力が足りなくて、いつもと同じバスに乗ることしかできなかった。
もう一つ先の停留所で、一人暮らしの家の最寄、というところまできて、私はバスを降りた。
悪あがきがしたかった。
でもどうすればいいのかはわからない。
バスが去ってゆく。同じ場所で降りた私以外の人たちにはみんな行く場所が決まっているようで、振り返りもせず足早に立ち去ってゆく。みんな疲れているのだろう。立ち止まっているのは私だけだ。
どうしよう。
考えながら、とりあえずバス停のベンチに座ったのは覚えている。座って考えようと思った。好きな曲を一曲聴いて、次のバスを待とうか。でも大好きなEDMを今は全然聴きたくない。それともスマホのゲームをしようか。だめだ、目が疲れすぎていて気分になれない。久しぶりの友達に電話しようか。いや平日のこんな時間にかけたって迷惑だろうな、やめよう。とかそんなことを考えていた。
考えていたはずだったのだが。
気づいた時には、私はさんさんと日の降り注ぐ庭園の入り口に立っていた。
ダイヤ型の土色タイルが敷き詰められた地面。控え目なつる薔薇の巻き付いた、白い円柱のアーチ。たわわに実ったオレンジの鉢植え。ちいさな噴水。踊る女の子のブロンズ像のあたまの部分から、きらきら輝く水が噴き出している。
幻覚だ。
明らかに幻覚だと思った。
こんなの私の住んでいる都心の風景じゃない。深夜の旅行番組とか、一冊千円以上の旅雑誌のグラビアに出てくる風景だ。おかしい。夢か何かだ。夢でないならもっと危ない。とにかく逃げないと。と、闇雲に慌てて回れ右をしたところで、私の視界はがらりと切り替わった。路地。張り紙。地域のマークの刻印されたマンホールの蓋。路地の奥に見える道路の風景の中に佇む、最寄ひとつ前のバス停のベンチ。
なんだ、本当に近所にこんなものがあったのか。
それにしてもあのベンチからここまで、どうやって歩いてきたのか覚えていない。
ふたたび回れ右して、幻覚のようなお庭に向き直ろうとした私は。
目の前に人が立っていることに気づいた。
「ようこそ、いらっしゃいませ。何を召し上がりますか」
背の高い男の人だった。ゆるっとした黒髪に、きらきら光る茶色の瞳。とても近くにいる。また幻覚かなと思った。
あああ、おああ、あはあ、等の奇声を発して私が慌てると、線対称にお兄さんも一緒に慌ててくれた。ああすみません、お客さまかと、失礼しました。と言われて私は我に返った。
ここはお店屋さんらしい。
ヨーロッパ趣味の大富豪がバブルの時代に建てちゃったのかなというくらい、隅から隅まで南欧風にまとめられたお庭の入り口には、木製の札がかかっていた。
『お茶あります どなたさまもどうぞ』。
お茶。あります。どなたさまもどうぞ。
シンプルだ。
この外観で緑茶を飲ませるということはないと思う。となるとコーヒーか、紅茶か。カフェインのきついものはあんまり気分じゃないなと思いつつ、庭の中を見てみたかったので、私はお兄さんに再び声をかけた。
「入ってもいいですか。せっかくですから、お茶もください」
「もちろんです、どうぞ。ご覧になるだけでも構いませんよ」
「いえ」
私はぱこぱこ音をたてる右足をかばいながら、静かに庭の中へ入った。幻覚みたいな庭であったって、構うものか。一発逆転ホームランを決めるには今しかない。
「何か、いいお茶ください。中で飲ませていただけるんですか」
「はい。ポットでお出ししております」
「ええと、お値段は」
「五百円からになります」
お値打ち価格だ。チェーンの喫茶店だって、ポットに入ったお茶を頼んだら、今どきは同じくらいかもっと取るのに。
私はお兄さんに案内されるまま、庭を奥へと進んだ。信じがたいことに、児童公園くらいはあろうかという広さの庭の床は、ほぼ全てがダイヤ型のタイルが敷き詰められていた。時々ワンピース小花柄のように、小さな花模様のタイルが隙間を埋める。
そして噴水も、ひとつだけではなかった。奥へ奥へと進む間にならんだ、テラス席のようなテーブルと椅子の並び。ひとつひとつの席に対応するように、小さな噴水が鎮座している。四葉のクローバー型の水盆の上に、ブロンズ像が佇んでいるタイプのものだ。像の形は、羽の生えたサンダルをはいた人だったり、杖をもった女の人だったりと、それぞれ違う。時々水盆と噴水の隙間から雑草が飛び出しているのが面白い。
鉢植えになったオレンジ。薔薇。名前のよくわからない木。庭に立つ柱と柱の間に張り渡された、細いロープのようなものにからみつく、鮮やかなグリーンの蔦。
夢か、幻覚か、他の何かか。
何であったとしても、こんな景色を見せてくれたものに、私は心から感謝した。
ゆっくり歩く私に、歩調を合わせてくれたお兄さんは、庭園の奥の席へと案内してくれた。隣にほかの席は、ない。庭の景色がよく見える特等席だ。そしてすぐ背後に、タイルばりの階段があって、その上にはお屋敷がある。
お屋敷。
それは、庭があるならおうちだってあるだろうが、これほど立派なものが現れると驚く。
「こちらへどうぞ」
「……ここって、このお屋敷の方が経営なさってるんですか」
「そうですね。でも私は、屋敷の人間ではありません。私はただの、雇われお茶入れ人です」
「雇われお茶いれ人」
「はい」
「な、なんか、すごい肩書ですね」
「あっ。ええと、他に、何て言ったらいいんでしょう? 私はこちらのガーデンカフェで、お茶をいれたり、お客さまをご案内したりしています」
「…………ウェイターさん、とか」
「それです」
お兄さんは首をかしげるように、ちょっと体を右側に傾けて、全力で嬉しそうにはにかみ笑いした。道を歩いているだけでスカウトされそうな、颯爽とした明るい魅力であふれんばかりのお兄さんが、ふにゃふにゃした笑みを浮かべると、なんかもうそれだけで犯罪的である。フェロモン系の男は可愛い顔をしてはいけないという法律をつくるべきだと、一年くらい前に会った友達が酔っぱらってうそぶいていたのを思い出す。法制化デモの暁には私も参加してもいいかもしれない。
お兄さんは階段の上の方に置いてあったバスケットから、メニュー表を差し出してくれた。デザインばりばりの文字が小さいメニューかと思っていたら、コピー用紙にサインペンで書いたようなメニューで笑いそうになってしまった。丸っこい文字だ。これも『雇われお茶入れ人』のお兄さんが書いたのだろうか。
メニューには横文字が並んでいた。ミント。ローズヒップ。ジンジャー。ベリー。エルダーフラワー。
ここはハーブティーのお店らしい。残念ながら、私にはよくわからない世界だ。
「何かおすすめがあったら、それをいただけませんか」
「かしこまりました。あの、何か悩んでいることや、困っていることはありませんか」
「えっ」
「あっ」
しまったというふうにお兄さんは慌てたが、とってつけたように咳払いをして、私に向き直って、笑った。もしかして新人さんなのだろうか。他に店員さんらしき人はいないし、これだけ豪華なガーデンカフェなのに私は噂も知らなかった。新しく開店したばかりなのかもしれない。
「あの、いきなり立ち入ったことをお尋ねして申し訳ありませんでした。ハーブティーは、西洋の薬膳茶のようなものでして、さまざまな体の不調を癒す効果があると言われています。事実、ハーブには薬剤のもとになっているものも多々あります」
「じゃあ、ハーブって薬なんですか」
「うーん、程度によります。薬と呼ぶには微弱な効果ですので、いきなりびっくりするくらいたくさん飲んだりしなければ、医療用医薬品のような効果が出ることはまずないと思います。でも、ハーブにはそれぞれ異なる効能があって、たとえば不眠や、冷え性、あとは疲れ目やクサクサする気持ちなんかに効くといわれている物もありますので」
効くところには、効くんですと。
お兄さんはちょっと誇らしげに笑った。さすが、お茶入れ人である。お茶には誇りがあるらしい。
この人はきっとお茶が好きで、この仕事に応募してきたんだろうなと思うと、私は少し、話をしたくなった。『一発逆転ホームラン』を考えていた自分が、いよいよ小さなゲームにとらわれていたようで、少し嫌になっていた。
「えーと……実は最近、あまり、眠れてなくて」
「ああ」
「だからゆっくり眠れるものがいいんですけど」
「はい」
「ありますか」
「あります!」
あるらしい。お兄さんはどこか大型のネコ科動物のような顔で笑って、ホットですかアイスですかと聞いてくれた。何が出てくるのかをまず教えてほしかったけれど、私も流されていたので、ホットでとオーダーしてしまった。値段も確かめていない。でもまあ、いいか。
このお庭の美しさに比べたら。
小さく深呼吸してみる。濃い緑のにおいがした。酸素が濃い、さわやかで、植物と土のにおいがほんのりと漂う、命のにおい。
ポットのお茶が一杯、仮に二千円だとしても、まあそういう日もあるかと、今なら納得できそうな気がする。
お茶はあっという間にきてしまった。お屋敷の中でお茶をいれているらしい。ということはこの、アンティークハウスみたいな風情のお屋敷にも、ガス台があって湯沸かし器があるのだなと思って、私はひとり静かに笑ってしまいそうになった。かまどがありますと言われても何となく納得してしまいそうな風情の、優雅なお屋敷のトータルパッケージなのだ。
「お待たせいたしました。こちらカモミールティーでございます」
「……いいにおい」
「そうですか。それはよかったです」
においの感想にしては不思議なことを喜びつつ、お兄さんは私の目の前にソーサーとカップを置いて、ガラスのポットから黄金色のお茶を注いでくれた。耐熱ポットの内側がくもっている。昔から何となく、私の好きな眺めだ。
熱いのでお気をつけてと言って、お兄さんはカップを少し、私の方に寄せてくれた。
取っ手まで温かくなっている白いカップを、私は静かに持ち上げた。
ふー、ふー、とさましながら、カップに口をつける。
まずは一口。
――不思議な味がした。
草のにおいを、そのまま口から摂取したような。
でもほんのりと甘い。
そして体の中にじんわりと染みる、あたたかさ。
ああ。
「……ほっとする」
お兄さんは静かに私の斜め後ろに立っていてくれた。さすが『お茶入れ人』という感じだ。こういう時ひとりにしておいてくれるのも、とてもありがたい。
もう一口。
もう一口。
がぶがぶ飲めるような温度ではないので、私は少しずつハーブティーを体の中にとりこんだ。飲むほど味に慣れてきて、そのまた奥にある味がわかってくる。謎解きをしながらお茶を飲んでいるような気分で、それが楽しい。そしてカップから鼻に抜けてくるにおいで、ますます気持ちが穏やかになる。
私はもう一度、ためいきをついた。
一発逆転ホームランも、折れたヒールも、どうでもいい。『今日』がどんな日になるかなんて、些細なことだ。だって一年は三百六十五日もあるわけで、その中に何日か『最悪』な日があるのは、生まれた時から織り込み済みみたいなものだろうに。
くさくさしても仕方がない。
でも、実際ひどい日を過ごした時に、お坊さまみたいに達観できるわけもなく。
そんな風に思えるようになるまでには、何かが必要だ。
あたたかい一杯のお茶を、丁寧に誰かにいれてもらうような、何かが。
そよ風が気持ちいい庭の中で、私は少し首を後ろに回して、お兄さんを仰ぎ見た。
「……あの」
「はい」
「ありがとうございます」
「え? ああ、喜んでいただけましたか。よかったです」
お兄さんはテーブルを回り込み、私の前から微笑みかけてくれた。この人は自分のスマイルにどんな力があるのかわかっている気がする。いくらきらきら輝くお庭の中とはいえ、男の人と二人きりになったら、カフェのメインターゲットであるであろうおひとりさまの女性は逃げてしまうかもしれないけれど、この人なら大丈夫だと思う。自分が近寄りすぎると、相手が怖がるかもしれないと、ちゃんと理解して行動してくれているのだ。
「もう一杯いかがですか」
「お願いします」
「よろしければ、今度は少し甘くしてみるのはいかがでしょう」
「はあ」
砂糖をいれてくれるのだろうか。と思っていたら、お兄さんは再びバスケットの中をさぐり、金色のふたのついたガラス瓶を取り出した。
はちみつだ。
「お好みに合いますか。アレルギーなんかは」
「大丈夫です。私、はちみつ好きです。小さい頃、一番好きなお菓子は、はちみつ飴でした」
ちょっと恥ずかしい話が、口からころんと転がり出てしまった。おまえおばあちゃんみたいな好みしてんなーと言われた記憶まで蘇る。お兄さんはふたたび、にっこり笑っていた。
「そうなんですか。僕は今も昔もカリカリが一番好きですね」
「カリカリ? そういう名前のスナックですか」
「あっ、ええと、そうですね。そういう感じです。では、お注ぎします」
何かごまかすように笑いながら、お兄さんは再び、二杯目のお茶を注いでくれた。紅茶を注ぐときには、酸素とまぜあわせた方が風味がゆたかになるそうで、ものすごい高さから注ぐサービスもあると聞くが、ハーブティーの時にはそういうことはないらしい。ほどほどの高さから、静かに金色の液体が注がれる。カモミールというのはどんな植物なんだろう、と私は考えた。こういう金色の花が咲くのだろうか。
お兄さんははちみつの瓶に首の長いスプーンを差し込むと、くるくるとまわして蜂蜜をとって、たっぷりカップに落とすと、別のスプーンでお茶をまぜあわせてくれた。
「どうぞ」
「はい」
ふたたび、私はお茶を飲む。そういう機械になったように、体の中にあたたかさを取り入れる。
もう体の中にため息のストックが残っていない。これ以上ため息をつきたくなるようなことがあったら、息ではなく、もっと奥にある何かがこみあげてきてしまいそうだ。私はこらえようとしたが、どうにもお茶がおいしくて、おいしすぎて、右の靴のかかとがぱこぱこと音を立てるのも何だかおかしくて、結局口を開いてしまった。
「……薬って……いろいろありますけど……こういう、いい薬もあるんですね。ほっとしました」
「薬は、いいものですよね?」
「そう……そうですよね。そう思います」
「はい」
私の奇妙な言葉を、お兄さんは追求しないでくれた。つくづくプロのお茶入れ人だ。
そもそも昨日の私が――おとといも、その前もよく眠れなかったのは、パリピの暮らしに疲れてしまったからだ。といっても私は陽か陰かときかれたら陰を選んでしまいそうなタイプの人間なので、別にシャンパンを飲んでウェーイと騒ぐような景気のいいパリピではない。ただ仕事が終わった後、夜な夜なクラブに繰り出して、EDMに合わせてちょっと縦揺れして帰ってくるだけの、パリピ見習いのようなものだった。実家で暮らしていていたころにはありえない楽しみだし、ちょっと都会の人っぽい気分になれるところが田舎者には嬉しくて、最近では行きつけのクラブもあるくらいだった。
そういう中で友達になった人たちがいた。
初めて口をきいたのは、たしか二か月くらい前のことだった。
男の子が二人、女の子が二人。みんなカラーヘアで、幼馴染みたいに仲がよくて、クラブにある目立たないカウンターの脇で、いつも四人でつるんでいた。大学を卒業したばかりか、それとも大学生か。ともかく私と同じくらいの年頃に見えた。
夜にしか会わない友達とはいえ、会社づとめをするようになってからは、仕事関係以外で新しい友達なんかなかなかできなくて、私は彼らに会えるのが嬉しくて、クラブでくだらない話をいろいろとした。彼らはその話を楽しそうに聞いてくれて、私は夜の街の仲間にいれてもらえたみたいで嬉しかった。
そして私は薬をすすめられた。
ピンク色の錠剤だった。
これすごくいいよ、楽しい気分になれるし、法律で規制されてるものとは違うからと。いや法律で規制されていようがいなかろうが、楽しい気分になれる薬なんて危ないものに決まっているのだから、濫用するのは絶対に危ないはずだ。私は彼らの体を気遣うつもりで、そういうものには明らかになっていないリスクもたくさんあるからやめたほうがいいよと力説した。でも楽しい気分になれるんだよと彼らは私にすすめた。そこで何かおかしいなと気づくべきだったのかもしれない。でも私の頭の中にあったのは、せっかくできた友達を危ない沼のほとりから引き戻してあげたいということばかりだった。
結局私は、彼らを説得できなかった。もちろん薬も買わなかった。
そして彼らは、私の前には二度と姿を現してくれなくなった。
さすがにこうなると、私も腑に落ちる。
ああ、彼らにとって、私は全然友達じゃなかったんだな――と。
私が勝手に、仲間にいれてもらえたような気分になっていただけだったんだと。
どっと疲れてしまった。そのあとに怖くなった。音楽にのってゆらゆら体を動かすのは今でも大好きだけれど、しばらくクラブには行かないと思う。田舎者が都会で体験するには十分すぎる洗礼だった。
それでも夜遊びをしていた体内時計はなかなか元には戻らず。
おまけに寝つきが悪くなり。
その挙句、今日のような厄日を迎えてしまったというわけで。
プロのお茶入れ人のお兄さんは、まるで私が思い起こしているここのところのショッキングで憂鬱なできごとを見てとったように、しかしそれでも見ないふりをしているように、穏やかな顔をして、うんうんと頷いていた。何だろう。
少し首をかしげると、お兄さんは言葉にならない言葉を聞いたように、ああと破顔した。
「さっき、『いいにおい』って言葉に、『よかった』とお返ししてしまったでしょう。弁解をしたかったんです」
「あれは、ハーブティーには癖があるから、ってことじゃないんですか」
「それもありますけど」
と、お兄さんは言って、再びバスケットに手を伸ばした。今度は何が出てくるのだろう。お茶請けのクッキーとか? いやそうなるときっと別料金だ。と、もだもだ考えているうちに、テーブルにはいい香りのする品物が置かれていた。
ドライフラワーの、ブーケ。
小さなマーガレットのような、白い花びらの花だ。
「これがカモミールです。さっきも言いましたけど、ハーブはある種の薬みたいなものなんです。『いいにおいだ』って感じるハーブは、その人の体が必要としているハーブだって話があるくらい。だから、僕が選んだお茶を快く感じてもらえて、嬉しかったです。それで『よかった』」
お兄さんはまたしても、にーっこりと笑ってくれた。
私は涙をこぼしそうになり、そのかわりに、最近ちょっとつらいことがあったとだけうちあけた。友達だと思っていた人が、実は商品を買わせたいだけの人たちで、断ったら離れて行ってしまったのだと。実際言葉にしてみると、びっくりするほど「あるある」すぎて自分で笑いそうになった。
しかしお兄さんは笑わず、そうなんですかあと深い声で頷いてくれた。
「それは、つらかったですね」
「……はい。でもちょっと、間が抜けてますよね」
「そんなことはないと思いますよ。誰だって友達ができたら嬉しいじゃないですか。そういう気持ちを利用されるなんて、ちょっと、僕だったら、うーん」
やってられないなあ、と。
そう思っちゃいますねとお兄さんは言った。あまりにもなげやりな言葉で、私は今度こそこらえきれずに笑った。やってられないですよねえ、と私が追っかけ笑うと、本当にそうですよとお兄さんも笑顔で応じてくれる。
この人は私の友達でも何でもなく。
ついさっき、このガーデンカフェで出会ったばかりの人だけど。
そういう人が私に優しくしてくれて、一緒に笑ってくれたりする。
もうそれで、私は明日頑張れると思った。
いいことはたくさんあるのだ。きっと今日もいろいろあったと思う。そういえばいつも朝寄り道してから出社するコンビニでジュースが一本当たった。でもそういう小さないいことを見つけるには、お弁当箱の具と具の間にさらにもう一品おかずを挟み込むような隙間が必要で、そういう隙間をつくってくれる人が、きっと、かけがえのない人なのだろう。別にそれは友達だけじゃない。
私は笑って、何でもないふうに、お兄さんに話しかけてみた。
「お兄さんも、やってられないなあって思うこと、ありますか」
「ありますね。一番最近だと、『このカフェ、とりあえず一人で回して』って言われた時かな」
「えっ、ええっ! それはちょっと」
「あっ、やっぱり、お客さま基準でも『ちょっと』って感じですか」
「当たり前ですよ。無茶ぶりもいいとこでしょ」
「じゃあ、ちょっと、ボスに言っておいたほうがいいかな」
「ぜひ!」
こんなきらきら輝く夢のような庭が、ブラック労働の温床だなんて考えたくもない。絶対にはやりますからもっと人を雇ったほうがいいですと、果たしてお兄さんに力説して意味があるのかどうかわからないながらも私は訴え、ポットの中のカモミールティーをゆっくりと楽しんでから、麗しのガーデンカフェを後にしたのだった。
そしてバスに乗って、家に帰って、泥のように眠った。
三日後。
何となく予想はしていた。予想はしていたが、実際にそういう展開になると驚くことがある。たくさんある。これもそうだと思う。
ガーデンカフェはなかった。
あの時のバス停から、いくら歩いても、それらしい洋風のお屋敷は見当たらない。恥をしのんで近所の人に尋ねてみたが、そんなものこのあたりにあるはずもないでしょうとにべもない。それはそうだ。だって私が住んでいるアパートから、頑張れば徒歩で訪問できそうなところに、そんな巨大なお屋敷があったのなら、いくらなんでも少しくらい噂は流れてきそうなものだ。
それに。
あの時私が会社を出たのは午後の六時ごろだった。日はもう落ちようかという頃合いである。物理的に考えて、あれは日本の風景ではなかった。少なくともあの時間に日本で目玉を開いて現実をみている人の眺める景色ではなかった。
たぶん、バス停でうたた寝をしていたのだと思う。
ガーデンカフェに行って、お兄さんにカモミールティーをいれてもらう夢を見て、引き返してくるところまで夢を見て、そのままの流れでバスにのって帰宅した。いや実は、帰宅するところまで全部夢で、現実で似たようなことをして帰宅していたのを、頭が都合よく解釈してくれたのかもしれない。怖い。でも百パーセントありえない話でもないと思う。友達にはしょっちゅう駅のホームで酔いつぶれて寝てしまうクセのある相手がいるので、人間の無限の可能性についてはけっこう懐深く受け入れることができるほうだと思う。
でも。
もしかしたら、そうではないかもしれない。
そうではないかもしれないという、一縷の可能性にかけて、私はバス停の見える路地裏をうろついた。カモミールのお茶。オレンジの鉢植え。青とオレンジの素焼きのタイル。どれも影も形もない。わかっている。もしそうだったとしてもおかしくないくらい、あの時の体験は私の中で勝手に輝き始めてしまっていたから。
探しても探しても、もう見つからないなと割り切れるところまで探して、私はふふっと笑った。呆れてしまったのが半分、もう半分は、探していた相手に出会えたような気がしたからだ。
路地裏の電柱の脇に、しゃがみこみ、私が鞄をあけた。箱を取り出し、アルミ色の袋を破く。
取り出したのは、キャットフードである。
不意に姿を現した、黒い毛並みに南国の太陽のような瞳を持つ猫に、私はそっと袋の中身を献上した。
「……カリカリです。おおさめください」
にゃーお、という声をあげて、猫は鳴いた。そして何も食べずに、立ち去った。知っている。猫は人見知りをするし、エサをあげてもすぐに食べないこともある。そうして誰もいなくなった時、戻ってきて食べたりすることがあるのだ。ひょっとしたら猫ではない姿になって。
ひょっとしすぎか。
でもたぶん、たぶんだが、あの猫はこのカリカリが好きだと思う。
そうだったらいいのになと、勝手に思っている。