こだわりラーメン中田屋列伝 ―疾風怒濤プリン編―

May 14,2020

 俺は中田正義。どこにでもいる平凡なラーメン屋『なかたや』の店主だ。とある田舎町の某所に店を構えている。なかたやのラーメンはだしが決め手で、何と言ってもおすすめはしょうゆ。最近はとんこつも人気だ。右隣にはイングリッシュ・パブ『ジェフ&ハリー』、左隣にはスリランカ料理店『ランプの魔神』があるので、会社の昼休みの時間帯には混雑するが、顔ぶれの八割は常連さんだ。
 常連さんたちは、いつも俺のラーメンをおいしいと言って食べてくれる。
 それはとても嬉しい。
 でも、できることなら、ひさしぶりに新しいお客さんに出会いたい。
 ぬるまゆの中でたゆたう俺を、厳しく窘めてくれるような人でもいい。
 わがままかもしれないが、そんな風に思っていた時。
 まさにその時だった。
 なかたやの赤い暖簾を、俺の見知らぬ人影がくぐってきたのは。

「いらっしゃい!」
「お邪魔いたします」

 しゅっとしたシルエットの男性だった。青い瞳はまるで北国にながれつく流氷のかけらのように、きらきらと輝いて俺をうつしている。ふんわりとウェーブする金色の髪。ぴかぴかの茶色い革靴。ラーメン店にやってくるにはちょっとどうかなというくらい美しく白く輝くワイシャツに、灰色のスラックス。
 新しいお客さんと顔を合わせる時にはいつも、俺は少しどきどきする。
 胸を高鳴らせながら、俺は新しいお客さんに微笑みかけた。

「何をさしあげましょう」
「…………を」

 うまく聞き取れなかったので、俺はカウンターから身を乗り出した。お客さんは俺から大股二歩ほどの距離にすっくと立って、まっすぐに俺を見ている。
 そして、言った。

「プリンをください」
「…………プリンを」
「はい」

 聴き間違えたのかなと思った。
 だが彼は、はっきりとした声で、もう一度繰り返した。

「プリンを、ください」
「……プリン」
「はい」
「少々お待ちください」

 プリン。
 ラーメン屋で、プリン。
 お店を間違えたのかなと思った。隣のイングリッシュパブの昼メニューの、ブラックベリーとブランデーソースのプディングとか。念のため俺は、ここはラーメン屋ですけれど、と一応確かめた。だが彼は微動だにしない。プリンを。確固たる意志を持って、この麗人は俺にプリンを求めている。なかたやの店主にプリンを。
 なるほど。
 それは覚悟だ。
 その覚悟を、俺は受け止めよう。
 俺にできることは、プリンをつくることだけだ。

「少々お待ちください」
「はい」

 白皙の美貌の持ち主は、ぎんぎつねがくるりと尻尾を丸めて横たわるように、優雅にカウンターのスツールに腰を下ろした。待ちの姿勢である。いたずらにスマートフォンを覗き込んだり、手持無沙汰に動いたりしない。この男、できるな、と俺は直感した。
 ありがたいことに、なかたやにはまだ他のお客さんがいない。忙しくなる昼の時間帯までにはまだ間がある。そして思い起こせば、俺は昔むかし、母親においしいプリンを作ってもらっては食べさせてもらっていた記憶がある。ありがとうひろみ。元気にしているだろうか。材料はたまごと砂糖。あとは湯飲みのような器さえあればいい。
 カラメルをつくって。
 プリン液を作って。
 湯呑に注ぎ込んで。
 麺を茹でている機材から拝借した湯で、低温で蒸らして。
 果たして俺のプリンはできあがった。
 きゅぽんと音をたてて、黄色い菓子は小皿に着地した。

「お待たせしました。プリンです」
「どうも」

 カウンターから、彼はそっとプリンとスプーンを受け取り。
 食べた。
 心地よい角度に折り曲げた右手でスプーンをつかみ。
 添えるような左手でプリンの皿を持ち。
 カッ、カッ、と食器が音を立てそうなものなのに、微音一つ立てず。
 彼は純粋に、俺のプリンに向き合ってくれた。
 ものを食べる時というのは、こうじゃなきゃいけない――俺はそう直感した。
 この男ほど純粋で誠実に、プリンを食べる手合いに、俺はお目にかかったことがない。それはそうだ。俺はラーメン屋の店主であるわけだし。プリンを食べる人を見ることなんてめったにない。でも俺にはわかった。
 彼こそが、俺の店の救世主だ。
 俺はごくりとつばを飲み込み、そっと尋ねた。

「…………どうでしょう」
「大変よろしゅうございました」

 彼はにっこりと微笑み、すっくと立ちあがると、財布を取り出すと古いレジスター台の上にお勘定を置いた。プリンに値段はない。うちのラーメンは一杯四百円である。

「ごちそうさまでした」

 去っていった彼のあとには、千円札が一枚、残されていた。

 その日から彼は毎日やってきた。きまって人のいない時間帯に。そして涼やかな声でこういう。

「プリンを」

 そう言って彼はカウンター席に座る。いつも決まって、右から二番目の席に。
 カウンターの中から、俺はこたえる。

「かしこまりました!」

 そして俺は、彼のためにプリンをつくる。
 あれから俺は勉強した。ラーメンの道にうちこむ一方、おいしいプリンとは、プリンで人を喜ばせるには、おいしくて健康にもやさしいプリンとは、形而上学的に考えるプリンとは、あらゆる角度からプリンを分析した。料理人たるもの勉学をおろそかにしてはいけない。中田くん最近ちょっと方向性がおかしくない? と隣のパブのご店主の弟さんのほうに怪訝な顔をされたが、とんでもない話だ。
 ラーメンのことばかり考えていては、ラーメン屋はつとまらない。
 ブレイクスルーが必要であると思っていた時、この人がやってきたのは、ありていに言えばそう、運命だろう。
 この道は俺を正しい方向へと導いてくれる。
 あるべき方向へと導いてくれる。
 このプリンと客人は、さながら俺にとっての北極星なのだ。
 彼がおいてゆく金額は日によってまちまちだった。千円を切ることはなかったので、原価を考えればありがたいばかりの話だが、そのたび俺が思っていたできばえと絶妙にリンクするのだからさすがである。明らかに彼はプリンのプロだった。一体どれほどの現場をくぐりぬけてくれば、あれほどの舌が培われるのか、俺には想像もつかない。
 だからこそ、俺だって腕の磨き甲斐があるというものだ。
 今日のプリンは、いつもとは一味違う。彼にもその気配が伝わったのか、麗しの客人はいつもよりもほんの少しだけ、眉を持ち上げて俺を眺めていた。わかってくれるか。わかってくれるのか。プリンの味だけではなく、この気配を。
 俺は渾身の思いをこめて、カウンターにそれを置いた。

「どうぞ。どんぶりプリンです」

 置かれたのは、ラーメンのどんぶりだ。『なかたや』という赤い文字が躍るシンプルな白いどんぶり。
 その中にみっしりと、黄色いプリンがつまっている。
 考えようによっては拷問のような物量だろう。たまご液と砂糖をどれほど投入したのかは俺だけが知っていればいい。だがこの男が、生半な覚悟でプリンを愛しているわけではないことを、俺はもう十分に知っている。
 彼は涼やかな表情に、あるかないかの愉悦を浮かべて、どんぶりを受け取った。いつもよりほんの少し、トッピングの多いラーメンを受け取るような、至極自然な素振りで。

「頂戴いたします」
「どうぞ」

 俺はスプーンのかわりにれんげをつけようとしたが、男は手で制した。もちろんこの程度のことは想定済みだ。さっといつもの銀色のスプーンを手渡すと、男はにこりと微笑んだ。この人の笑顔はとても美しい。夜明けに咲く白い花のようだ。
 彼はよどみのない手つきで、どんぶりプリンにさっとスプーンをさしこんだ。
 スプーンの上に、山盛りのプリンがあらわれる。湯呑サイズのプリン、一つ分くらいはありそうだ。
 そして彼は魔法のように、ひょいっとそれを一口で飲み込んだ。
 固唾をのんで、俺はその光景を見守る。
 ひとさじ。もうひとさじ。さらにもうひとさじ。
 いつもと同じ、よどみのない手つきで、いつもより十倍以上はボリュームのあるプリンを、彼は一定のペースで食べ続けた。どんぶりの下にたまっているカラメルも、もちろん残さない。
 最後の一滴までラーメンのスープを飲み干すように、彼は両手でどんぶりを支えると、勝利の美酒を飲み干す勇士のように、ぐっと一息に飲み込んだ。
 どんぶりをカウンターに降ろすと、彼はそっと口元をぬぐった後、俺の顔をそっと見た。いつの間にか俺は、エプロンの裾を両手で握りしめていた。

「いかがでしたか」
「やっと、道を究めましたね」
「……それじゃあ!」

 彼は至極満足気にうなずき、小さな唇を天使の彫刻のようにほころばせた。
 彼は懐から財布を取り出し、福沢諭吉を俺に差し出そうとしたが、俺は手で留めた。今までだってもらいすぎだったのだ。そしてお金よりも大きなものを、俺は既に彼から十分に受け取っている。
 彼もそれに気づいたのだろう。懐に紙幣を戻し、ふっと笑った。

「これこそが、私の求めていた至高の逸品です」
「よかったです。あの、あなたは一体……?」
「私の名前はリチャード」

 リチャード。何故だろう。初めて聞くのにどこか懐かしい響きだ。
 おいしくプリンを召し上がってくださったリチャード氏は、青い目を微かに眇め、ふっと笑った。

「これほどまでの腕前を隠していたとは。感服いたしました」
「こちらこそ、俺の腕を見限らないでいてくださったこと、何てお礼を申し上げたらいいのか」
「このプリンが、あなたの料理の道へと続く大いなる一歩になることをお祈りしております」

 カウンターごしに、彼は俺に手を差し伸べた。俺は慌てて前掛けで手をぬぐい、彼の手を握り返す。感動的な場面だった。俺はこれからもラーメンの道を究めてゆくのだろう。そしてその傍ら、この人に――リチャードにプリンを作るのだろう。そんなふうに予感した。
 その時。

「いた! リッキー、何をしてるのさ」

 嵐のように飛び込んできたのは、隣のパブのジェフリーさんだった。慌てふためく彼は、泰然とスツールに腰かけていたリチャードを羽交い絞めにした。こんな時でもリチャードの表情は変わらない。大物だ。

「中田くん本当にごめんね。これは応援を頼んで本国からきてもらった僕たちのいとこなんだ。もうリッキー、ちゃんと店の場所は教えたのに、いつまでたっても来ないからおかしいと思ったんだよ。中田くんが優しいからって甘えちゃ駄目だからね! それじゃあ中田くん、またハリーと一緒にしょうゆラーメン食べにくるから。アデュー!」

 大きな荷物をひきずるように、ジェフリーさんはいとこの体を引きずって出ていった。それではご機嫌よろしゅうとばかりに、入り口にかけた暖簾のむこうに消えてゆく時、リチャードは微かに微笑んだ。俺も微笑み返す。いやそんな恰好つけている場合じゃないだろうお店の手伝いに呼ばれたのにそれをさぼって隣の店にプリンをオーダーするってどういうことなんだよとかそういうことはどうでもいい。考えない。俺にとって大事なのは、腕を磨くことなのだから。しかしあいつのプリン好きにも困ったものだ――うん?
 あいつって?
 俺は目をこすった。
 あいつってリチャードのことだろうか?
 そういえばあいつが初めてプリンを食べた時の顔は――
 びっくりした子どものようで――
 そこで――――
 そこで――
 ――俺の目が覚めた。
 俺は中田正義。笠羽大学に通う大学生だ。
 何だ。なかたやって。ほんの一瞬のことではあったが、俺はラーメン屋としての人生を送っていた。しかしプリンって。ラーメン屋でプリンって。
 夢の中でもぶれない男だなあと思いながら、俺は枕元のスマホを確認した。午後十時。ベッドに横になって教科書をさらっていたら、眠り込んでしまったらしい。今ならまだ連絡をしても怒られはしないだろう。
 電話は、コール三回でつながった。
 リチャード。
 どうしましたかという涼やかな声が、何だか今は心苦しい。

「……リチャード、あのさあ」
『はい』
「俺が……ラーメンどんぶり一杯、プリンを作っていくって言ったら、お前……ちょっとは喜んでくれる?」

 返事は剣呑は「はあ?」だった。俺はそこで夢の残滓をふりはらった。ううん、何でもないよ。気にしないでくれ。本当に大丈夫だから。うん。うん。それじゃあ。まったく俺は何をしているのだろう。この男はロイヤルミルクティー過激派であると同時にプリンの過激派でもあるのだ。大幅なサイズ変更は味や触感にも影響を与えるだろう。冷静に考えればそんなことを喜ぶはずがないのに。
 わかっているのに。
 夢の中の俺は、どんぶりプリンに喜ぶリチャードの顔が見たかったんだろうなあと、今になって俺はしみじみしてしまった。

「悪い悪い。ちゃんといつものサイズで、いつもの味のを作っていくからさ」

 一体どうしていきなりそんな話になるのかと、しばらく食い下がられたが、俺は言を左右にして逃げた。寝ぼけて電話をかけてくるなと言われるのが目に見えていたからだ。
 あまり長く時間をとらせるのも忍びない。じゃあ本当に、それだけだからと俺が回線を切ろうとすると、最後にリチャードは、わざとらしいほどの声で告げた。
 ああそうそう、と。

『もうすぐあなたの誕生日ですね。何がほしいか、考えておくように』

 ああ。
 そういえば五月だ。
 昔は誕生日のことなんてあまり考えなかったけれど、最近はありがたいことに祝ってくれる人が増えてきたせいか、俺も意識して考えるようになった。
 ああそうそうなんて言葉で適当にごまかしてはいるが、前からきちんと覚えていてくれたのだろう。そのくらいのことはわかる間柄だ。そういう関係を築いてこられたことが、俺はとても嬉しい。
 だから誕生日にあれがほしいとかここに行きたいとか、そういう願いよりも何よりも、俺が叶えたいと願うのは。
 ちょっとした思い出がほしいと。
 そういう願いなのかもしれない。

「……いつか一緒に、ラーメン食べに行けたらいいな」
『ええ、そうですね』

 えっ。
 ばかものの聞き間違いだろうかと思う前に、電話は切れてしまった。リチャードが。あのリチャードが。ひょっとしたら俺とラーメンを食べに行くのをOKしてくれたのだろうか。宝石と銀座の申し子のような、あのリチャードが。

「……はは!」

 俺はベッドにスマホを放り投げて、仰向けになって手足をばたばたさせた。中田喜びの舞である。何てこった。ひょうたんから駒である。ありがとうなかたやの主人だった俺。
 リチャードとラーメン。
 これに勝る誕生日プレゼントを、今の所俺は知らない。

(2020/5/14 web書き下ろし)

お誕生日おめでとう、中田正義くん。
健やかに、のびやかに、どんどん大きくなってゆくあなたを、誰かと同じように、私にもそっと見守らせてください。