「正義!」
「リチャード! やったな!」
「やりました」
「やったな!」
「ええ、やりましたとも」
俺たちは満面の笑みを浮かべ、ハイタッチをした。高校生の運動部のごとくさわやかな手の平の音が、パーンと部屋の中に響き渡る。そして粉が飛び散る。
ホットケーキの試行回数は、実に十四回を超えていた。
その十四回のうちわけを説明する気はない。名誉の問題である。いろいろあった。とりあえずいろいろあったことだけわかってもらえればいい。粉が散り、牛乳が飛び、砂糖が舞い、火災報知器が発動した。
そして十五回目。
見事に俺の上司、リチャード・ラナシンハ・ドヴルピアン氏は、ホットケーキを焼き上げることに成功したのである。直径十五センチほどの、満月のようなまあるいケーキ。あまり膨らまなかったが、もちもちしておいしそうだ。
実の所リチャードが、苦手な料理に挑むのはこれが初めてではなかった。
だが最初から、俺の助力を仰いでくれたのは、今回が初めてだった。
『あなたの力が必要なのです』と、秀麗ながら厳しい面差しで言われた時には、一体何事かと身構え、数秒で腹もくくったが、蓋を開けてみれば調理実習だった。
ホットケーキを焼きたいのだと。
その言葉に俺はほっと胸をなでおろした。
もちろん並大抵の覚悟ではないことはわかっていた。リチャードにとって料理は鬼門である。これだけ多種多様な技能に秀でた男が何故卵もまっとうに割れないのか、そういうところに神さまの『天は二物を』的な采配があったりするのか、ともかくあまり関わるべきではない分野なのである。
だが本当に、何もできないと、それはそれでつらいものがあるだろう。
ホットケーキくらい自分で焼けたら、きっと嬉しいはずだ。
翌日の夜、仕事が終わった後、俺たちは社宅でホットケーキ修行を行った。それが実を結んだのである。永遠に忘れることのできないであろうハイタッチの記憶を、俺は胸に刻んだ。ついでにイチゴとバナナも刻んだ。そしてホットケーキに盛り付け、メイプルシロップと生クリームを添える。このあたりは中田正義が担当してもバチは当たらないだろう。
「ホットケーキの完成だな! うまそう! さあ食べろ、食べろ」
「いいえ」
「えっ」
「これを食べるのは私ではありません」
ダイニングに置かれた皿の前で、俺はぽかんとした。そしてリチャードはぽかんとする俺の前で、エプロンの下の懐にそっと手を差し入れ、何かをゆっくりと抜き出した。ああノワール映画だと拳銃が出て来るシーンだなと、頭のどこかで思っていた。
リチャードは俺の前でそれを構え、ぱんと弾いた。
クラッカーだった。
「お誕生日、おめでとうございます」
「………………ああー!」
俺はダイニングの壁掛け時計に目をやった。十二時をまわっている。
確かに。五月十四日。俺の誕生日だ。
リチャードは呆れた顔をしていた。
「『ああー』ではない。何故あなたは毎年この日を忘れるのか」
「毎年って、そんなに忘れてないと思うけどな」
「去年もあなたはそんな顔をしていた」
「朝になったらメッセージなり電話なりが入ってくるから、ちゃんと思い出したって」
「まあよろしい」
リチャードはつんとした顔をした後、柔らかく笑ってみせた。
「正義、バースデーケーキです。初めて手作りに成功しました」
「……………………そういうことだったのか?」
「ええまあ」
「ああー!」
「できることなら一人で焼きたかったのですが」
「いやいやいや」
「情けない、とお思いかもしれませんが」
「思ってないって」
「ちなみにオペラハウスの椅子の年間契約については、つつがなく更新が終わりましたのでご心配なく」
「さらっと言うなあ……」
オペラハウスの椅子というのは、いつぞやの俺の誕生日プレゼントである。でもまあ今はそれはいい。
それよりなによりホットケーキだ。
ほかほかのケーキの上で、生クリームが崩れ始めている。ナイフとフォークを差し出された俺は、にこにこしながらダイニングテーブルに陣取った。本来ならば夜食も食べるべきではない時間だが、今はそんなことはどうでもいい。
「ありがとう、リチャード。俺本当に嬉しいよ」
「どういたしまして」
「俺、これからも頑張るから、よろしくな」
「こちらこそ」
リチャードはどうぞと優雅に手で促した。それじゃあ遠慮なくと俺も頷く。
「いただきまーす!」
ぱくりと頬張ったホットケーキは、天使のほっぺたのように柔らかく、慈愛に満ちた味だった。