【注意 この小説には「宝石商リチャード氏の謎鑑定」10巻以降のネタバレが含まれます。可能であれば該当巻、あるいは11巻までご通読の上、お目通しください】
「あっつ。あっつい。あつすぎ。日本の夏は過ごしやすいなんて言ったやつは大嘘つきよ」
「誰もそんなこと言ってないよ」
よく冷房の効いたホテルの一室で、男はたてがみのように、ポニーテールにした長いアッシュグレイの髪の男をゆさぶった。それを見ている男が、苦笑して飲み物を持ってくる。冷えたペットボトルのお茶を、ホテルの据え付けのグラスに移しかえたものだった。
手に持たされたグラスで、強制的に乾杯させられ、長い髪の男は芝居がかったため息をついた。
「別に疲れたって意味じゃないからね。あなたより私のほうが、体を酷使する商売だったわけだし」
「そこは信用してる。清水の舞台まで往復して息も切らさなかった人は初めて見たよ。驚いた」
「私はあなたが若い日本人観光客に、あんなに愛想よくしてたことの方が驚き」
「あれは『観光客』っていうか、『修学旅行生』って言うか……」
「なにそれ?」
「ある種の京都名物みたいなものかな」
説明が難しいんだけど、とクイーンズイングリッシュで笑った男に、ああそう、と長髪の男はブルックリン訛りで応えた。
日本、イギリスからもアメリカからも遠く離れた東アジアの古都は、ネオンの明かりに包まれていた。京都駅とつながった大きなホテルの最上階から見下ろす夜景は、ニューヨークやロンドンの夜景よりも、幾らかつつましく、おだやかで、静かだった。
「今日は楽しかった?」
据え付けのひとりがけソファに腰かけた垂れ目の男は、グリーンティーのグラスを揺らす長髪の男に尋ねかけた。
長髪の男は夜景を眺めながら、向かい側にある二人がけのソファに腰かけた。
「タノシカッタ」
「なんで片言なの?」
長髪の男は髪をいじり、しばらく黙り込んでから、ぽつりとこぼした。
「あなたはいつも、いっぱいお買い物するね」
「あれ、ショッピングが嫌いになった? 今日はお寺を巡って、座禅を組んで、お茶を飲んで友禅を見て京焼を見て京都の宝石職人の工房を見学して……」
「どれも嫌いじゃない。最近はものを置く場所もできたし」
「ほら、僕の言ったとおりだ。まず家を買ったのは正解だよ」
「………………物置を買ったみたいに言うんだね」
「何かしら置く場所は必要だよ。収納のないホテルはないだろ」
長髪の男は奥歯を噛みしめた。
どうしたの? と垂れ目の男が問いかける目をすると、長髪の男はソファの上で膝をかかえ、体を丸めた。立ち上がった垂れ目の男は、まずアッシュグレイの髪の毛足に、次に額に口づけた。
「どうして泣くの? 僕、何か気に食わないところがあった?」
「……どうしていつもお別れのことを考えてるの?」
垂れ目の男が黙り込むと、長髪の男は涙をざっとぬぐい、はしばみ色の瞳に力をこめた。
「そういうのはやめて。我慢できない」
「……これでも頑張ってるんだけどなあ」
「あなたのその、化け物みたいなブラックカードの限度額を減らして」
「減らしたよ。この前も『減らして』って言われたばっかりだけど」
「もっと減らして」
「そこまですると日常生活に不自由が……」
「あなたの『日常生活』の定義は、私の…………ああ駄目、こんなことを言いたいんじゃない。ごめんなさい今のはなし。お願いを替える。私のために使うお金を、今の十分の一以下にして」
「…………だって喜ぶ顔が見たいから」
「だいぶ『困惑した顔』になりつつあるよ」
「『困惑しつつ喜んでいる顔』だよ」
「どっちでもいいの。あなたが何を考えてるのかなんてね、お見通しなのよ。『自分がいなくなった後、非課税で換金できるものを少しでも多く残しておこう』でしょ」
「……………………いや、それは財テクの基本だし」
「そんなこと考えなくていいから」
垂れ目の男が黙り込むと、長髪の男は立ち上がり、相方を座らせてしまうと、自分はその膝の上にちょこんと座った。
「……私はあなたと旅をするの、とても楽しいけど、『お別れの後に眺めるアルバム』を作るために旅をしてるわけじゃないのよ。わかってる?」
「わかってる」
「わかってなさそう」
「わかってるよ。ただ……うーん」
「『ただ』、何」
「予算を十分の一にした僕に、どれだけの価値があるのかなと思って」
「お願いだからそんなに寂しいこと言わないで」
「……ごめん」
「何なのよ。しっかりして。だからこんなトータルパッケージみたいな男なのに、私みたいなやつに引っかかっちゃうのよ」
「結果的にはオーライってこと?」
「ああいえばこう言うし」
「それはお互いさま」
「ほんっと可愛い人」
「君も同じくらい可愛いよ」
「それは知ってます、どうもね」
「よかった」
「…………」
「よかったよ」
「……」
軽いキスを交わした後、長髪の男は相方の隣に腰を下ろした。
眼下には控え目な夜景が広がっていた。
「……アントニウスとクレオパトラは、二人でいるのがあんまり楽しくて、夜中に二人で王宮を抜け出して、アレクサンドリアの街の扉を一軒一軒叩いて回ったんだって。今でいうピンポンダッシュだよ。迷惑な話だよねえ」
「一番迷惑したのは、それに付き合わされた従者よ。絶対に二人だけじゃ抜け出せなかったでしょ」
「でも君といると、そういうことをしたくなる気持ちが少しはわかる」
「…………ちょっとやめてよ。絶対やらないからね。『迷惑外国人』って写真を撮られてSNSにまとめられるのがオチ」
「やらないよ。ものの例えだってば」
「確認したいんだけど、アントニウスとクレオパトラの恋愛ってハッピーエンド?」
「それはもうすごいハッピーエンド」
「……………………」
「ひどい顔してるよ」
「嘘をつく時のあなたの顔が、格好よすぎて嫌い」
「ごめん」
もう一度、今度は深いキスを交わした後、ふたつに別れた二人は、同じソファに座ってそれぞれに天を仰いだ。
「ほんと、時々やってられなくなるのよ。もうちょっとシンプルな恋愛をしてみたいと思わないの?」
「難題だ。まともな恋愛を四十近くになるまでしてこなかったビジネスマンの気持ちになってみなよ。貢ぐ以外にどうしたらいいのかなんて全然わからない」
「どうもこうも素っ裸で抱き合ってるじゃない」
「それはそうだけど! それとお金以外どうしたらいいのかわからないんだよ」
「旅行するとか」
「……してるけど」
「一緒にザゼンを組むとか」
「……組んだけど」
「『飛行機が怖い』って言われたら、離陸着陸の時にはいつも手を繋いであげるとか」
「……いつも繋いでるけど、本当に怖かったの?」
「他の何だと思ってたの?」
「僕を喜ばせてくれてるのかと思ってた」
長髪の男はゆっくりと、ソファの隣の相手の膝の上に手を置いた。垂れ目の男は微笑み、その上に自分の手を重ね、握った。
しばらく沈黙を味わった後、先に口を開いたのは長髪の男だった。
「まあ、なんだかんだでいい恋愛してるわよ。私たち」
「それは同感。でも、わかってると思うけど、僕はあんまり、君のことを幸せにしてあげられないよ」
「石油王の『昨日の夕飯は一ドルマックです』って言葉と同じくらい信用してあげる」
「本当だよ」
「言っておきますけどね、私はあなたを幸せにする気でいっぱいなの。同じくらいあなたも私を幸せにしてくれないと一方的な搾取として訴えますからね」
「キム」
「いいからそろそろお風呂に入ってらっしゃい」
「…………手を繋いだままでいいなら、入ってくるよ」
「おえー。ティーンエイジャーみたいなこと言い始めた」
「そんなあからさまに嫌そうな顔をしないでよ。僕だって傷つくんだよ」
「あら、あなたがそれを知ってたことに驚き」
笑った垂れ目の男が手を離し、上着を脱いで空いたソファに放った。
「傷つくことは全然怖くない。怖くないと思ってたし、実際そうだったんだけど、最近は怖いよ」
「……もっと早く怖がるようになってほしかった」
「人にはいろいろ都合があるんだよ」
「どんな都合」
「昔から僕は、傷ついたところを隠すのが得意だったんだ。でも最近、すごく目のいい知り合いができちゃってさ、その人には隠せないんだ。だから僕が傷つくと、『全然大丈夫ですよ!』って言っても、その人は悲しそうな顔をする。でも僕は、その人にそういう顔をさせたくないんだ」
「…………」
「そういう都合」
そう言って、垂れ目の男は笑った。
ふと。
垂れ目の男は、自分の右手がふさがっていることに気づいた。脱ぎ掛けのシャツの裾とからめるように、肌の色の違う誰かの手が巻き付いている。
「どうしたの?」
垂れ目の男の顔を見つめ返し、長髪の男は髪をほどき、笑った。
「じゃ、いきましょうか」
「………………ピンポンダッシュに?」
「馬鹿」