あの日の夜

September 24,2021

※この小説は、集英社オレンジ文庫から発売されている『忘れじのK 半吸血鬼は闇を食む』のネタバレを含みます。まだ読んでいない方は、可能であれば読了後の閲覧をおすすめいたします※

 

 

 

 

「ガビー、甘いものが好きなの?」

「どうして」

「だって……」

こういうものを作ってくれたわけだし、と。

テーブルの上を促すかっぱに、ガブリエーレは苦笑いした。

九月に誕生日を迎えた、幸薄いダンピールに、ガブリエーレはスーパーで購入できるありあわせの材料で、コーヒーとマスカルポーネのクリームの重ねもの――ティラミスを作成したところだった。

言いよどんでから、ガブリエーレは答えた。

「甘いものは、そうだな、食べるのが好きだ。ブドウ糖はテスト勉強の相棒だからな。だが作るのは……そうだな…………これが初めて、だな」

「すごく上手だよ。身近に料理が上手な人がいたの?」

「まあ母親がな。とにかく手料理にこだわるタチで」

わかるだろう、とガブリエーレは促したが、かっぱは首を傾げたので、アメリカ帰りのイタリア人は、またしても苦笑しながら自分の説明をすることになった。

「うちのマンマは、いわゆる典型的なイタリアのマンマなんだよ。家族が集まるのが大切、手料理が大切、息子が大切……」

「素敵なお母さまだね」

「いい人だよ。だが自分の意思ってものが希薄な人だ」

ガブリエーレの母親は、どこまでも息子に優しく、日に十回は愛していると聞かせてくれる真心の権化で、『奇妙な黒いもやもや』を見てしまうガブリエーレを『治す』ため、何度も教会に通うほどの熱心なカトリックでもあったが、父親と息子の確執に対しては、一度も口出しをしなかった。そういうことは父親と息子で、もっと言うなら父親が管理権を持って解決するべきできごとであるというのが、ガブリエーレの母の規範であるらしかった。

もちろん父親に説教をされ落ち込んだ息子を慰める役割は果たしてくれる。

だが息子と共に父親に『反抗』することは、一度としてなかった。

はい、はい、と首を縦に振り、いつも笑顔で、自らの配偶者と子どもを見守る、絵にかいたような母親だった。

「不思議な家なんだよ。父親も母親も、いや俺も、誰に強制されたわけでもないのに、みんな自分の役割を果たすためだけに生きているような家で。そろそろそういうのにうんざりしてたんだろうな、俺も」

「……久しぶりのイタリアだったのに、変な事に巻き込んでしまってごめん」

「変な事って何だよ。俺の大事なパオロに関係したことなんだ。変でも何でもない。むしろ感謝してるよ」

「………………」

「かっぱ?」

「……すみません。ダンピールは、人に優しくされ慣れていないので」

「いないので?」

「……涙もろいんです」

かっぱはティラミスの前で、微かに涙をぬぐっていた。ガブリエーレは呆れたが、笑いとばすことにした。

「泣くなよ。そのなりならまだ十八、九だろ。これから何度も誕生日なんてあるさ」

「……三百年くらい生きてきたはずですが、誰かにケーキを作ってもらった誕生日なんて、これが初めてです」

「…………」

「嬉しいです」

「……これまで、誕生日は、どう過ごしてたんだ」

「パオロと一緒に祝っていました」

かっぱは不器用に微笑み、手に入れたばかりのアルバムを開き、ガブリエーレに見せた。確かに所々には、かっぱとパオロ、どちらか一人しか映っていない写真があり、そういう写真は決まって宴会をしているような場面だった。

「俺の素性を一般の人々に知られるわけにはいきません。それでもパオロは、精一杯俺のことを人間として扱おうとしてくれました。だから、毎年九月の二十六日には、パオロは『付き合いの悪い男』になってくれたんです」

「他の誰かと一緒に祝ったりは……?」

「このあたりに他のダンピールが存在していて、俺たちとの折合いが悪くなければ、招待することもありました。でも、ダンピールにとって、誕生日は……そんなに嬉しい日でもないので」

ガブリエーレは言葉をのみこんだ。自分たちが生まれてきたことを『嬉しくない』と思わざるをえない生活を送っているというダンピールたちを、どんな風に想えばいいのかよくわからなかった。同情を見せたとしても、境遇が変わるわけでもない。

かっぱはガブリエーレの心境を知ってか知らずか、空気を切り替えるように笑みを浮かべた。

「それじゃあそろそろ、ケーキを冷やそうか」

「ああ。ティラミスは『冷やさないと食べられないケーキ』だそうだからな」

「拗ねないでよ。俺は気持ちだけで十分に嬉しいよ」

「はーっ…………もっと早く気づけばな……」

「ガビー、完璧主義者?」

「仮にも医者の卵だったんだぞ。完璧主義じゃない医者にかかりたいと思うか?」

「あっ、ごめん……俺は医者にかからなくていい体になって長いから……」

「いや、悪い。俺の方が失言だった」

「……ガビー、すごく優しくなったね」

「ああ?」

「最初はライオンの子どもが来たみたいに、グルグル唸ってばっかりだったのに」

かっぱはくすくすと笑い、ケーキにラップをかけて冷蔵庫にしまいこんだ。

そして何かを思い出したように、ガブリエーレの顔を見て、あっと目を見開いた。

「何だ?」

「ティラミスの意味、そのままになったなあって」

ティラミス。Tira mi su.

イタリア北部、ヴェネト州の方言でいうところの、『私を上に引っ張って』。より自然に解釈するなら『私を元気づけて』。

誰かを元気づけたい時に、ティラミスはぴったりのケーキだった。

「そこまで考えられたわけじゃない。そもそも菓子屋が開いてたら、そっちでもっと華やかなケーキを買ってくるつもりだったよ」

「こっちの方がいい」

「そうかい」

かっぱはもう一度、うるんできた目元を拭った後、冷蔵庫にそっと手を置き、呟いた。

「…………忘れたくないなぁ……」

忘却。

ダンピールという存在が、生命活動をつないでゆくことと不可分な、記憶の損失。

テネブレと呼ばれる黒い闇を、食べれば食べるほどものを忘れてゆくというかっぱに、先任の監督役・パオロは、大きなアルバムを残した。

だがヒトは年を取る。

永遠に近い時間を生きるかっぱに付き合い続けることのできる人間は存在しない。

全てを悟っている顔のかっぱに、ガブリエーレはわざと、おおざっぱな顔で微笑みかけた。

「忘れるかよ」

「……」

「深夜にティラミスを作ったことを忘れる男がいたらお目にかかりたいもんだぜ。俺は覚えてるよ。十年経っても、三十年経ってもな。もし誰かさんが物忘れしても、俺が『こんなこともあっただろ』って執念深く言い聞かせてやるよ。毎年お返しをとりたててやる」

「それはいいね。お返し、何がいい? ガビーの誕生日はいつ?」

「一月二十日。随分先になるからしばらく忘れてろ。当日になったらプレゼントを取り立ててやる」

「………………ちょっと気長すぎるから、今の内にする」

「ん?」

「ガビー、ちょっとこっちに来て」

「何だよ。バルコニーに出るのか」

かっぱに促されるまま、ガブリエーレはバルコニーに出た。

深夜である。遠くから時折、酔漢の声が聞こえるほかは、街は静まり返っていた。

かっぱはひょいと、バルコニーの手すりの上に飛び乗った。

「は? おい、おいおい。あぶな」

「記念だから」

かっぱは強く、ガブリエーレの腕を掴んだ。

そして手すりの上から飛び降りた。

「!」

死んだ、と思った。ガブリエーレの脳裏に、幼い頃からの思い出がフラッシュバックした。パオロの顔。チョコレートのジェラート。高校時代のガールフレンド。医学部の入試。フィレンツェの風景。フィレンツェの風景。

これは走馬灯ではない、と気づくまでに、しばらく時間が必要だった。

ガブリエーレの体を、背後から支えるようにして、かっぱが空を飛んでいた。

空を飛んでいた。

人間の体が、空気の中を自由自在に動いている。

土色のフィレンツェの建物の間をすり抜け、ドゥオモの屋根の曲面を滑り、教会の尖塔に近づき、夜空の中を泳ぐ。

かっぱが方向転換をするたびに、ジェットコースターのカーブに差し掛かった時と同じように、ふっと体の中で内臓が浮かぶ心地がした。体中の溝という溝を、くすぐるように夜風がすり抜けてゆく。

物理法則というものがある。ガブリエーレが入試の時に必死で覚えた、物体は何かに動かされることなしに動くことはないという、物理の大原則に基づく法則である。かっぱのきゃしゃな体は、ジェット噴射装置もなしに空を飛んでいた。

ありえないことだ、と思うより先に、ガブリエーレは笑っていた。

レオナルド・ダ・ヴィンチの時代から、あるいはそれより昔から、人類があこがれ続けた『空を飛ぶ』という夢を、この男はこんなに簡単に叶えてしまえるのかと。

ミケランジェロの丘にたどり着く頃には、ガブリエーレはすっかり空中浮遊の感覚に慣れていた。

夜間は立ち入り禁止されている丘の展望台、鎖でとざされた広場の内側に着地したかっぱは、闇の中で微笑んでいるようだった。展望台から少し離れた道路には、街頭が光っているものの、展望台に届く光はごく一部で、互いの顔の半分程度しか見ることができない。

展望台のベンチに腰掛けたダンピールは、いたずらっぽい声を出した。

「怖かった?」

「………………多少は」

「ごめん。でも、誕生日、一月だって言うから」

「?」

来年の一月まで、君と一緒にいられる保証はないから、と。

かっぱは静かな声で続けた。そしてすぐ、取り繕ったように明るい声を出した。

「半年早いプレゼントとでも思って。楽しかった?」

「いきなりすぎるだろ。あのな、一般的な人間は、生身で空を飛ばないんだ。寿命が縮むかと思ったぜ」

「あっ、ごめん。じゃあ、今のことは忘れさせる……?」

「冗談じゃない」

ガブリエーレは暗闇の中で、不機嫌そうに脚を組んだ。かっぱはどこかで予想していたように、少し困ったような顔で笑っていた。

ガブリエーレはその笑顔を、ガラスのように割るつもりで、声を張った。

「忘れてなんかやらないからな」

「………………」

「絶対に忘れない。忘れられるかよ。誕生日プレゼントのお返しに、生身で空を飛ぶなんて経験、ジェフ・ベゾスでも買えないぞ」

「ジェフ……?」

「大金持ちってことだ」

「ああ、ハワード・ヒューズみたいな……」

若干の『世代差』を感じつつ、まあそうだよとガブリエーレは頷いた。

「しかも友達に飛ばせてもらうなんてな」

「…………」

「他人に話したら、大麻でトリップでもしたんですか? って言われそうだ。誰にも話やしないが、絶対に忘れないよ」

ガブリエーレがそう言うと、かっぱは黙り込んでしまった。ガブリエーレは何も言わず、夜の沈黙の中に溶け込むように、沈黙を守った。

明かりのない、黒く沈んだ旧市街の周辺には、フィレンツェ市街地の光がぽつりぽつりと浮かび上がっていた。旧市街に明かりはない。歴史的建造物は、昼間の観光名所である。観光客のいる日中は息を吹き返すが、眺める人間のいない夜になれば、再び過去の歴史の中に沈む。

暗闇の中で少しだけ、ガブリエーレは空気が動くのを感じた。

かっぱが笑っていた。

少し困ったような顔のまま、しかし穏やかな空気で、笑っていた。

「ありがとう」

ガブリエーレは少し、たじろいだ。かっぱの声がどこかで泣きそうに聞こえた。どうしてこの男はこんなに優しい声を出すことができるのだろうと思っているうち、かっぱは言葉を続けた。

「じゃあ、覚えていて」

「……忘れるわけないだろ」

ガブリエーレは握りこぶしを作り、まかせておけと胸を叩いた。

かっぱはガブリエーレと、その背後に広がる闇の全てを記憶しているような、どこか茫洋とした目をしながら、ぽつりと呟いた。

「俺も」

「え?」

「今日のこと、ずっと覚えていたい」

そう言って微笑むかっぱは、曖昧な顔で微笑んでいた。

幸福感と、諦めが、それぞれ同じくらいの配合で混じり合ったような表情にガブリエーレはかぶりを振り、ベンチから立ち上がった。かっぱも立ち上がった。

「冷えてきたね。そろそろ戻ろうか」

「待て待て。ここからもやっぱり、飛んで帰るのか」

「あ、飛ばない方がいい?」

タクシーよりバスの方がいい? とでも尋ねるような口ぶりに、ガブリエーレは苦笑した。いくらかっぱが支えてくれているとはいえ、何のプロテクターもなしに空中をハイスピードで飛ぶ経験は、シートベルト文化に慣れている人間としては、なかなかスリリングなものだった。

ガブリエーレは笑いながら提案した。

「歩いて帰らないか。ここから、ドゥオモ広場まで」

「一時間くらいかかるんじゃないかな」

「大丈夫だろ。夜中だが、男二人だ。チンピラの方が逃げるだろ」

「…………それはそうだけど」

「人間には足があるんだ。歩くのだって悪くない」

「……俺はもう、あんまり、人間じゃないけど」

「それでも歩くことはできるだろ」

ガブリエーレがそう告げると、ややあってから、かっぱは笑った。

「じゃあそうしようか」

「おう。その頃にはティラミスも冷えてるさ」

「こんな時間に食べるつもりなの?」

「作ったからには食べたいだろうが!」

二人は並んで、展望台の鎖を乗り越え、一般遊歩道に戻ると、警備員に出会わないよう、そそくさと家路を急いだ。