俺の名前は中田正義。二十代の日本人男性だ。
俺には毎年、気持ちがもやもやする日がある。
気が重い、とまでは言わないものの、もやもやする日が。
ひろみ――俺の母の誕生日だ。
毎年花を送っている。海外での生活が長くなってからは、電話をかけるようにも心掛けている。ひろみ、おめでとう。元気か? 元気で過ごしてくれよ。俺は元気だよ。じゃあ。
それで終わる。
我ながら嫌になるが、これはただのルーティンだ。
ただ、そういうことをやっているだけである。
一般的な一人息子というのは、母親の誕生日をどんな風に祝っているものなのだろう。
こんなことを考えてしまうのは、俺がいわゆる、『一般的な一人息子』ではない自覚があるからだ。しかしそれを言うなら、ひろみだって『一般的な母親』ではないと思う。いい、悪いの話ではない。彼女はシングルマザーだし、過酷なDVサバイバーであるし、俺を大学まで通わせてくれたありがたいスポンサーでもあった。いや、俺も新聞配達で学費の調達には精を出したけれど。かつての同居者。かつての戦友。そういったさまざまな属性の塊を、便宜上『母』と呼んでいる、という感じがする。ありがたくも俺を生み、育んでくれた人、あたたかい居場所、という感じもないではない。でもそれだけの相手ではないのだ。
ともかく俺はひろみを名前で呼ぶ。
仲良くしたいという気持ちはあまりない。独立した息子が、看護師の仕事を引退した母親とどうやって『仲良く』すればいいのかも思いつかない。ただ彼女には、元気で楽しく過ごしていてほしい。そのために俺は誕生日に花を贈る。電話をする。
だがそれだけでいいのだろうか。
最近そんな気持ちが兆す。
そして今年も、ひろみの誕生日がやってきてしまった。
仕事が終わった後、軽くアルコールを飲みながらウダウダと通話をしている相手は、アメリカにいるヴィンセント梁ことヴィンスさんである。彼は既婚者であり、一児の父であり、家庭の守り人で、かつアメリカの大学に通っている忙しい人だ。それでも俺が電話を掛けるのを嫌がらない。それどころか憎まれ口を叩いて、歓迎してくれている気がする。
リチャードには話しにくいことも、彼には話せるから不思議だ。年齢と立場が近いせいもあるのだろう。
俺がひろみに関することを語ると、ヴィンスさんはいつものやる気のない声で応じつつ、ざっくりと俺の話をまとめてくれた。
『要するに、中田さんはまだお母さんに甘えたいんですね』
「え? そうなんですか?」
思ってもみなかった答えに、俺は目を白黒させた。甘えたい? 俺が?
「……いや、それは違うと……違うと、思いますよ……」
『そんなに違いませんよ。人間対人間の付き合いの話じゃなく、どうしても相手の母親って属性にこだわるから、そういう感覚になるんでしょう。いい加減に大人になったらどうですか。年齢だけじゃなく中身も』
「………………」
ぐうの音も出ない。
そもそも、俺がすっぱりひろみに向かって、『お母さん。今まで名前で呼んでいたけれど、これからはお母さんって呼ぶね。これまでありがとう。これからもよろしく。元気で過ごしてください』と真正面から言えたら、それで俺の抱えている屈託は解決するのだ。それをひろみが受け止めてくれようがくれまいが関係ない。それが大人のコミュニケーションというものだ。
だが俺はそれがまだ、できずにいる。
何なのそれ、馬鹿みたいなんだけど、とひろみに言われたら、むっとした顔をして「いや、なんでもないよ」と言ってそっぽを向いてしまいそうな気がする。
これはただの意地だ。
彼女は俺のために人生の膨大な時間を費やして戦ってくれた人だ。だがその一方で、友達やクラスメイトのお母さんたちがしてくれることはしてくれなかった。時間がないから授業参観には来られなかったし、遠足の弁当も彼女の夜勤の弁当も俺が作ったし、仕事の愚痴は山ほど聞かされた。俺の子ども時代はおそらくそんなにバラ色ではなかった。もちろんそれがひろみのせいではないことはわかっている。だがその、バラ色ではない思い出の中に、どうしても彼女の影がちらつくのである。
何で俺が譲歩しないといけないんだよという意地が、まだある。
要するに俺の中にいる『子どもの中田正義くん』は、こう言っているのだ。
何で俺のことを、ふつうの子どもみたいに扱ってくれなかった人のことを、ふつうに『お母さん』と呼ばないといけないんだよ、と。
相手がそれを受け入れてくれる保証もないのに、と。
改めて考えてみると、おぞましく子どもっぽくて、つらくなるほど小さな理由だ。
その小さな理由を、ほいと投げ捨てることもできない自分に涙が出そうになる。
子どもの中田正義くんはつらかったんだなあと、他人事のように俺は思った。今の俺はもう成人している。収入もある。友達もいて、幸せに暮らしている。
過去は過去だ。
俺だけが知っていて、労わってやればいいことだ。
「…………そうですね」
随分長い時間黙り込んでから、それだけ応えた俺を、ヴィンスさんは笑わなかった。いつもの『ふーん』もない。
ただ彼は、少し時間をとってから、言葉をかけてくれた。
『親としての立場から言わせてもらうと、育児は大変です』
「はい」
『男親の俺がそう思うんですから、ましてや母親の苦労は猶更です。一生表彰されていいと思います。中田さん、育児に関する最低限の知識くらいはありますよね? 赤ん坊って放っておいたり目を離したりすると、なんかもうわけのわからないような速度で危険な行動をとる動物なんです。そのままにしておくと死んじゃうんですよ。そのくらいのことはわかりますよね?』
「わかってるつもりです」
育児をすると、自分の記憶の中にある、空白の部分が見えてくると聞いたことがある。物心つくまでの間、自分がどんな存在だったのか、自分の子どもを通して見えてくるのだと。
ヴィンスさんは現在進行形でそれを味わっている人だ。
同世代の相手に言われると、やはりずしんとくる。
ただ彼は、それで言葉を終わらせなかった。
『ただ、やっぱり自分の子どもには、幸せになってほしい。つらい思いとか、してほしくないですね。もし俺に対して、俺の子どもが何か、しんどい気持ちを抱えるようになるんだったら、無理に笑って『お父さん』とか、呼んでほしいとは思わないです。親相手に大人ぶったことなんかしなくていい。子どもでいてほしい。だって俺の子どもだから……いや、まだ実際ふにゃふにゃの子どもなんですけどね』
「…………」
しばらく、俺は口がきけなかった。ちょっと泣きそうだったからだ。
この人はいいお父さんなんだなと、しみじみとしてしまった。
中田さん、中田さん? とからかうような声をかけられた後、俺は少し笑って答えた。
「…………すみません。今一瞬、ヴィンスさんから生まれたような気持ちになってきました」
『気持ち悪いんですけど』
「俺もちょっと気持ち悪かったです」
『最悪ですね』
「すみません」
俺は半泣き、半笑いの声で応えた。
ヴィンスさんはいつも通りのクールな声で、淡々と喋り続けた。
『まあ、あんまり考えすぎない方がいいですよ。人間関係の中に、一方的なワルモノとイイモノとかないし。悲劇も喜劇もないし。やれることをやれるようにやればいいんじゃないですか』
「……ありがとうございます」
『ただ最後に一つだけ』
と、彼は前置きし、言葉を続けた。
『時間は有限です。俺はもう俺の親にありがとうとは言えません。そもそも親父に対してはそんなことを言う気もないですし、どっちかというと『殺してごめんね』になると思うんですが』
「……いきなりそういうこと言うのやめてくださいよ」
『まあ、『見殺しにしてごめんね』くらいですかね。謝って許してもらえることじゃないとは思うので開き直ってますが。そのあたりのことも考えておくといいですよ。そうなったらもう、一生何も言えなくなりますから』
「………………」
『そろそろ切りますけど、他にも人生相談あります?』
「いや、ないです」
『よかった。あるって言われても切るつもりでいたので』
「じゃあ質問しないでくださいよ」
『切りますよ』
「はーい」
そしてそこで、ありがたい先輩との通話は終了になったのだった。
ヴィンスさんは俺の宝石商見習いとしての先輩だ。そして人生の先輩でもある。今ほどそのことを痛切に感じたことはない。
俺の質問の無神経さを、彼は叱らないでくれた。彼は大人だ。
大人というのは他人の生き方に口出ししない相手のことだ。
そういう意味では、俺はひろみに対して、ひろみも俺に対して、完全に『大人の対応』をするのは難しいのかもしれない。親は親、子は子だ。
だが。
時間というのは、そういう人間の勝手な都合に対して、何の斟酌もしてくれないのだということを、俺は少しだけ忘れていた。
『何?』
「いや、元気かなって」
『元気だけど』
二週間ぶりの電話の対応が、『何?』である。これだ。これが俺の母のひろみだと、俺の脳内世界では架空の観客に対する実況が始まった。皆さんこれなんですよ、俺の母はこれなんです。この概念こそが俺の『甘え』なのだろう。
俺は腹をくくった。
「…………あのさ」
『だから何』
「今年も花、宅急便で送ったから」
『あーそう』
はいはい、という感じの対応である。それもわかっている。いつもこんな感じだ。俺は気にせず話し続けた。
「なあ、他に何か、してほしいこととかある?」
『ないわよ。食洗器も買ったし。この話はもうしたんだっけ?』
「したよ。っていうか食洗器は俺も見たよ。一回そっちの新しい家に泊まっただろ」
『あ、そうだったわね』
彼女の声が明るい。それだけで俺は嬉しくなる。俺は彼女が好きだ。俺の母親だから。俺の面倒を見てくれた人だから。
そういう気持ちをこめて、俺は言葉を紡いだ。
「……ひろみ、誕生日おめでとう」
『この年になると大してめでたくもないわよ』
「めでたいよ。ひろみがいなかったら、俺もいないわけだし」
『何か変な本でも読んだの?』
「そんなわけないだろ。普通のことしか言ってないよ」
俺は咳払いをし、言葉を続けた。
生まれてきてくれて、ありがとう。
ありがとう。
本当にありがとう。
くどいくらいに、俺は言葉を連ねた。
彼女は恐らく、自分が生きていることにまだ罪悪感を抱いている。俺の祖母、彼女の母がどうやって子どもを育てたのかを考えれば、その意識も理解できる。だがそれは、彼女の力ではどうしようもなかったことだ。どうにもできなかったことだ。そんなことをつらく思わないでほしいと、彼女を好きな人間の一人として俺は思うのだ。
生きていてくれて嬉しい。
今まで言えなかった分の気持ちをこめるようにして、俺が言葉を続けると、ひろみは黙り込んでしまった。泣くタイプの相手ではない。ちょっと鼻白んでいるのかもしれない。それならそれでいい。俺は言いたいことを言った。きちんと言えた。
このことは俺の中で大きな財産になるだろう。
黙り込んだひろみは、いつもとは少し違う声で、俺に応えた。
『……何か意外』
「そうかな。俺だって本当に感謝してるんだよ」
『いや、私が生まれてきてくれて嬉しい、ってあたりよ』
「そこが? 意外? 何で?」
中学生のような気持ちで俺が尋ねると、だって、とひろみは答えた。
『あんた、あんまり生まれてきたこと喜んでないでしょ?』
「……誰が?」
『自分自身が』
とん、と。
胸の奥にある、黒いボタンを押された気がした。
俺の生物学上の父親。DV。つきまとい。殺意。呪わしい気持ち。
分厚いノートに描かれたパラパラ漫画のようにフラッシュバックする、数々の思い出。
だが。
俺は軽く深呼吸し、笑った。
「そうかな? 最近はかなり人生エンジョイしてるよ。生まれてきてよかったと思ってる」
『……………………そう』
「ひろみ?」
数秒の沈黙の後、俺は彼女が少し泣いていることに気づいた。何だ。何故今泣く。どちらかというと泣くのは『おめでとう』のパートだったような気がするのだが、今の部分の方が、彼女にとっては何か、心を揺り動かされる話だったのだろうか。
「ひろみ?」
『そうかあ……あんたがねえ…………大したこともしてやれなかったし、生んで悪かったなと思ってたんだけど』
「はあ?」
いやいやいやいや。
いやいやいやいや。
生んで悪かったとはどういうことだ。
俺は確かに、生まれてきたことを呪ったことがある。自分が暴力男になる定めを背負わされたと思っていた時には猶更そんな気持ちもあった。
だがそれは、ひろみの責任ではない。
全然ひろみの責任ではない。
ひろみは何一つとして悪いことはしていない。
何だかそんなことを、俺は熱を持って訴えかけたが、彼女はもういつものように、聞きたいことだけ聞いてあとは馬耳東風というひろみモードに入っていたため、うまく届いたかどうかわからない。
ともかく俺の母親は、ズッとはなをすすったあと、小さく笑った。
『あんた、生きてるの楽しい?』
「……楽しいよ」
『ああそう。よかった』
「本当に楽しい」
『よかった。じゃあ切るから』
「うん。花、届くから。お菓子も一緒に」
『了解。じゃあ』
そして、電話は、切れた。
中田正義という男の人生において、重大なひとつのフェーズが終わったような、そんな気がして、俺は全身から力が抜けそうになった。立ったまま電話をしていたので、そのままよろよろとソファに座り込み、電話を握ったまま、背もたれにぐいと体をもたせかけた。首がソファからはみだしてぐんねりと曲がる。
疲れた。
精神の、いつもと違うところが疲れた。
無言で眉間をもみほぐしていると、不意にソファの座面がたわんだ。俺の隣に誰かが腰かけたのだ。この家でそんなことをする人間は一人しかいない。そもそもこの社宅には二人しかいない。
背もたれから体を起こすと、俺の隣には世界一の美貌を持つ上司が座っていた。
電話をかけるから一人にしてくれと俺は言わなかった。電話を聞かれても困らない相手だからだ。でも今回は少し恥ずかしい。
リチャード。
甘いロイヤルミルクティーの入ったカップを差し出している男は、俺の顔を見て、にっこりと笑ってくれた。この笑顔で、俺の精神に水が満ちるような気がする。そしてリチャードは言った。
「私もあなたが生まれてきてくれて、とても嬉しい」
その言葉を受け止めた時、俺は自分の心の本音を悟った。
俺も。
俺もそう思う。
俺が生まれてきたことが、俺自身、とても嬉しい。
そんな風に、今は思える。