美しさにも種類があるという。
宝石の話に限れば、簡単なことだ。石の世界は切って分けられる。色で、硬度で、結晶の形で、産出地で、誰かの好みで分類できる。鉱物の分類の視線でわければ、エメラルドとアクアマリンが、ルビーとサファイアが仲間同士になったりする。
ではこれは? 今俺が目の前にしている、これはどうだろう。
どういう種類の美しさになるのだろう。
「これは……」
「『これは』?」
「なんだか……うまく言えないんですけど……あ、そうだ」
青の時代みたいだと。
俺が口にすると、彼はすぼめた唇に手を当てて笑った。いたずらが成功した子どもみたいな顔である。お行儀が悪いと、俺のバイト先の上司がいたら言うだろう。だか今日この部屋、俺が陣取っているどこかのホテルの上のほうにあるだだっ広い部屋には、俺の他にもう一人しかいない。
ソファの上に寝っ転がって、テーブルの上の液晶端末をフリックしていたジェフリーさんは、腹を上の方にむけて笑った。身なりのいいラッコのような姿勢だ。
「きみ、美術史の勉強とかしてたっけ」
「全然ですけど、最近、ちょっと変わった本をたくさん読んでるので……」
「『変わった本』ねえ。選者の趣味がしのばれるチョイスだね。グラビア雑誌とかないの?」
「ハードカバーが多いです。『教養を身につけろ』とは言われました」
「あーあー、悪い癖を出したな。あいつの言う通りに勉強していたら、君は万能の天才になるか廃人になるかの二者択一だからね。どこかで覚悟を決めなよ」
「はあ」
覚悟ってどちらの覚悟だろう。廃人になる覚悟のほうだろうか。万能の天才になれるとは思わない。でもどこまでいけるのか興味はある。
青の時代というのは、よんどころない事情でホテル滞在を続けることになった俺のために、リチャードが大型書店で購入してきてくれた『暇つぶしグッズ』こと大量の書籍の中のひとつ、大判の芸術系書籍に載っていた言葉で、たしかピカソの画風の変化を示す言葉だった。俺にとってのピカソのイメージは小学生時代から刷新されず、『たしか本名がめちゃめちゃ長い』『キュビズムという顔面崩壊絵』という非常にお粗末なものだったのだが、この本のおかげで、幼い頃の彼が、絵の天才であったことを知った。俺が一生かけてもたどり着けなさそうな境地の絵を、十代のころにピカソさんはお描きになっていたのである。顎が落ちそうだった。だから多分彼はそこで、方向転換をすることにしたのだ。それまで目指してきたものではなく、まだ描いていないものを突き詰めようとしたのだろう。そして彼は『青の時代』と呼ばれる、ブルーを基調としたマリア像などの絵画に傾倒した時代を経て、明るい色合いの『バラ色の時代』に突入し、最終的にはキュビズムを極めてゆく。青の時代は、しろうとの観点からすると、どこか過渡期の画風のようにも見える。というか図録の余白にそういうことが書いてあった。
うつむいて祈る女性。
寒そうな海辺の景色。
青といったらスカイブルーでもコーンフラワーブルーでも、いきいきとした色合いが山ほどありそうなものなのに、この時代の絵は一律、どこか、寒々しい。つらいことがあったのかもしれない。人物画にもあまり笑顔がない。
そんな風だと思ったのだ。
行儀のいいラッコの姿勢のジェフリーさんは、力なく笑みを浮かべた。
「……ま、否定はしないよ。これは遺言がもう発表されたころの写真だからね」
テーブルの上に置いた端末で、ジェフリーさんが俺に見せていたのは、写真だった。
リチャードの姿がうつっている。
撮影者はジェフリーさんなのだろうが、その時も彼は、今のようにソファに寝転んでいたのだろうか。室内で撮影されたもののようで、瀟洒な部屋が背景に映っているが、アングルが低い。
そのせいで余計に、整っているぶん、やや鋭角に見えるあごの形が目立つ。
見下ろすような青い眼差しも。
時々雪のようにも見える、淡い金色の髪も。
唇の形だけ、どこか少し甘えているようにも見える。
ひょっとしたらこの被写体は、写真を撮られると思っていなかったのかもしれない。
遺言というのは、リチャードの人生を一変させてしまった、例の件のことだろう。発表されてから、決定的なことが起こるまで、幾らか時間があったようだが、その間にも冷たい川に足を浸し続けるような緊張感が、この人たちの間には流れていたようだ。
彼が見せてくれた写真は、この他数枚で、どれもこれも当たり障りのないリチャードの写真だった。いつぞやの飛行機の中で見せてもらったものと幾らかかぶっていて、でも幾らかは初めて見るものだった。にこにこしている子どもの顔の写真は、ほとんどない。俺の上司はどんな時でも完璧に美しいが、『親しみやすさ』を兼ね備えた美ではなかった。不思議なことに幼い頃のものであれば、あるほど、そういう傾向が強いようにも見えた。年を重ねるごとに『うまくなる』笑顔とは、どういう類のものだろう。
写真を見せながら、ジェフリーさんは、俺にそれを分類させたがった。これはきれいですか? これも? これはどうかな。こっちは? 彼が何を思って、後で従弟の雷をくらいそうな写真の御開帳大会を始めたのか定かではないが、あの飛行機の中とは違って、嫌な感じは全くしなかった。
とはいえ俺の返事は一律、ふるわなかった。
きれいですね。
かっこいいですね。
リチャードって感じがしますね。
挙句、服が高そうですね。
これは豆腐に対して「白いですね」「柔らかいですね」「冷たいですね」とリアクションするのと同じだろう。豆腐なんだから白くて柔らかくて冷たいに決まっている。だがそれ以上どう言えばいい。ワインを一口のんだソムリエでもあるまいに、言うべき言葉なんかそうホイホイ口から出てくるものではない。
だがこれだけいい写真を何枚も見せてもらってしまったのだから、最後くらい何か、恰好いいことが言いたい。精一杯の結果が、『青の時代』だった。
うまくいったかどうかわからない。
ジェフリーさんは、ソファの上に身を横たえていたが、手を伸ばして端末をフリックすると、ああ、と呟いた。スライドショーが終わったらしい。
「これが最後だ。この先の写真はない。君の領分になるね」
「……申し訳ないんですけど、俺、リチャードの写真とか、全然持ってないですよ」
「そういうことじゃないよ。それに、スマホの写真だろうが一眼レフだろうが、たかが知れてるよ。人間が持って生まれてきた、高性能のカメラに比べればね」
「でも、記録機能はないですよ」
「馬鹿を言うね。君はちゃんと覚えてるだろう。僕の知らないあいつの顔をたくさん」
だからそれを覚えていてほしいと。
ジェフリーさんは言いながら、姿勢を起こして立ち上がった。ちょうど表情が見えなくなる角度だ。そろそろ帰らなければならない時間なのかもしれない。この面倒見のいいお兄さんは、本当に仕事は大丈夫なんですかと尋ねたくなるような回数、諸事情でわび住まいをしている俺のところに顔をだしては、やれルームサービスだのゲームだのと娯楽を提供してくれる。そして俺が気を使わないように一緒に遊んでくれる。チェスに勝つと彼がちょっと踊ることを知った。多分リチャードも知っている癖だろう。
この人は本当に、俺の上司のことを大事に思っているんだなと、そのたび何度も思わされた。
「さてと、今度はルームランナーを送り付けますよ。運動不足はいけませんからね」
「このホテル、ジムがあるんですよ。もうしばらくしたらお世話になろうかと思ってます」
「オーケー、じゃあトレーニングウェアだけでいいか。ではお暇させてもらいましょう、中田くん。言うまでもないですが、今日ここで見た写真については、くれぐれも」
「『くれぐれも』?」
オーウ、という声は、どこまでも芝居がかっていた。口上の最中、背後で聞こえた部屋の扉が開く音も、その前に響いたノックの音も、この人はわかっていただろうに。言いたいことをそのまま言う神経は大したものだと思う。そういう図太いところも、やっぱり誰かに似ている。
腕組みをする美貌の男に向き直り、ジェフリーさんはにっこり笑って俺に手を振った。テーブルの上の端末と、ソファの背にかけていた上着は、そつなく小脇に抱えている。
「帰ります! またね!」
「再訪なさらなくて結構ですよ」
「ああー今の日本語は難しすぎてわからないや」
やかましい声と共に去って行った彼を、俺は手を振って見送った。
ふっと軽く鼻を鳴らしたリチャードに、不覚にも俺は笑ってしまった。美貌の男が眉を持ち上げる。
「……なにか?」
「いや、何でもない。ええと、また必要な書類を持ってきてくれたんだよな。本当にごめん、迷惑を」
「先日も申し上げたように思いますが、この部屋で『迷惑』『申し訳ない』『ごめんなさい』等の言葉を一度口にするごとに、あなたの課題図書が三冊ずつ増えてゆくことをお忘れなく。さて今回は、ビジネス英会話の本を準備いたしました。電話応対で役に立つもの、メールに役立つもの、口頭で使えるもの。お好きな順番でどうぞ」
「どうせポケットマネーだろ。本当に申し……んっ……! んんっ!」
「喉にものでもつかえたのですか。今何と言いかけたのです? 差支えがなければもう一度」
「も……申し……申し……あっ、孟子、老子、荘子!」
「努力をみとめて及第点にしてあげましょう。公務員試験の教養の出題範囲内でしたね」
「ありがとな……」
「どういたしまして」
そう言って微笑むリチャードは、一度部屋の外の廊下に戻り、巨大な紙袋を携えて戻ってきた。中の声が聞こえていたから、邪魔な荷物は置いたまま入ってきたのだろう。紙袋の中身は、これから俺の頭の中に詰め込まれるのであろう本と、食料品と、その他もろもろの生活用品が入っている。ひとつだけ別にしておかれた紙袋の中身は、考える間でもない。
申し訳ないという言葉は封じられてしまった。はらをくくって元気に頑張るしかない状況だ。それにしてもちょっと、ほんのちょっとだけ、やることが多い気はするのだが。公務員試験の勉強だけでもかなりあるというのに。
リチャードは俺の微妙な表情に気づいたらしく、唇にやわらかい笑みを浮かべた。
不思議だ。
こんな顔、端末の写真の中には、一度もうつっていなかった気がする。
だんだん美しくなる呪いをかけられていると言われても、そこそこ納得してしまいそうな風情の俺の上司は、俺に紙袋をもたせると、ジェフリーさんが飲みっぱなしで去ってしまったコーヒーカップを片付け、彼が寝ていたソファを無駄に二回はたいた。ほこりでも取っているつもりなのだろうか。子どもっぽいジェスチャーだ。
いれかわりに、俺が新しいカップを準備する。
紙袋の中からリチャードがとりだしたのは、布張りの巨大な箱だ。宝石箱――ではない。宝石箱と言われたほうが幾らか信じられそうな箱の中身は、ティーポットなのである。この男は箱をティーコゼーにしているのだ。ペットボトルにいれた瞬間、お茶が死ぬので。
俺の持ってきた二つのカップに、リチャード氏は涼しい顔で、ロイヤルミルクティーを注いだ。銀座エトランジェ直送である。こんなに贅沢なデリバリーは他にないと思う。今からお返しの考え甲斐があるというものだ。
「さて、では一服の後、進捗を聴かせていただきましょうか。あなたの苦手な統計と立法について」
「こんなに面倒みてもらっていいのかな……あ、今のはネガティブな意味じゃなくてだな」
「ご心配なく、勘違いはしていません。純粋に『面倒くさい』という意図が漏れていました」
「そこまで察してくれなくてもいいって……」
「なにか?」
「なんでもありませーん」
「元気なのはいいことですが、何やら口調に含むところを感じます。では課題図書を四冊に」
「あ、あのさ、競走馬用の餌を食べさせたって、ロバがサラブレッドになるわけじゃないんだぞ」
「ロイヤルミルクティーは人間の飲み物です。どうぞ」
「……はい」
俺は促されるまま、一人がけのソファに腰かけ、リチャードは誰かがさっきまで寝そべっていた長椅子の真ん中に、折り目正しい姿勢で腰かけた。無音でお茶を飲む。穏やかな時間だ。そして穏やかな表情だ。
ピカソに限った話ではなく、人間は誰しも変化してゆくものだと思う。ただ有名な人の変化は、多くの人の目につきやすいので、青だのバラ色だのと、分類されているだけなのだろう。俺だってリチャードに出会う前と出会った後の自分を、時々自分で同じ人間なのかと疑うような瞬間もある。ありがたいことに、主にプラス方向での変化だと、今は思っているのだが。
では、リチャードは?
この男はどうだろう。
どんな風に変化しているのだろう。
長い睫毛を眺めるように、俺が顔を眺めていると、美貌の男はすっと眼差しをあげ、何か? と問いかけるような目を向けてきた。淡い青だが、冷たい感じはしない。そもそもさっきクッションをがしがし叩いていた男にそんな雰囲気を感じるほうが無理というものだ。課題図書だって増える一方なのに、それを嬉しそうに増やし続けるメンタリティも、儚さだの静謐さとは無縁だろう。
俺はそれが嬉しい。
「……いや……時代でたとえるなら……いまのお前は、何の時代なのかなって」
「は?」
「あ、ええと、説明が長くなりそうなんだけどさ、あー、いや……いいや! 忘れてくれ」
「時代? 私の?」
「ジェフリーとちょっと話してただけなんだよ。昔のお前は……あっ、あ! 今のなし!」
「哀れなことです。あなたには致命的に隠し事をする才能がない」
「今日のお茶請けは何かな! 紙袋を開けちゃおうかな!」
「本日のお茶請けは資生堂パーラーの期間限定クッキーです。サクサクとした食感があなたの生活に幸福なひとときを与えるでしょう。彼が、昔の私のことを、なんと?」
微笑むリチャードの顔の裏に、悪魔の影が見える。全部はけと促す顔だ。しかもそれ以外の選択肢はない。どうする。ジェフリーさんはいい人だ。俺とたくさん遊んでくれるし、彼の明るさに俺はかなり救われている。ここで無残に切り捨てることはできない。できないと思う。できないんじゃないだろうか。もう少し頑張りたい。
俺は勇気を振り絞り、渾身の笑みを浮かべた。頬が微妙に引き攣っている気がするが、御愛嬌だろう。
「…………リチャード、今日もバラの花みたいにきれいだな。女王陛下のバラ園全部に咲いてる薔薇の花より、たぶん今のお前のほうがきれいだと思うよ」
「左様でございますか。あなたの言葉も百円ショップで咲き誇るプラスチックの花々同様、大変美しく色鮮やかで、不自然極まりなく麗しいものかと存じますよ。詰めが甘い」
「ダメか……!」
「ダメですね。邪念が入ったのでしょう。いつものあなたはそんなものではない」
「ん?」
「何でもありません。さて、食べなさい。食べると心が軽くなるものです。時には口も」
「……あれ? ひょっとしてエトランジェで最初にお茶とお菓子をお出しするのって」
「食べなさい」
「はい」
あたたかいロイヤルミルクティーと、サクサクのクッキーは、平和な味がした。
暗黒時代という言葉がある。長い低迷の中に文明がさしかかったり、伝染病がおおはやりしたり、とにかく大変なことばかりおこる時代をさす、歴史のテキストなんかに出てくる言葉だ。青でもバラ色でもない。黒は黒だ。全てを飲み込んでしまう。
中田正義という人間にとって、今はどんな時代にあたるのだろう。そんなにいいことばかりが起こっているとは思わない。眠れなくてのたうちまわる夜もある。家族に電話をして、自分の体のありかを確かめたくなるようなこともある。自分の不甲斐なさに耐え切れなくなりそうで、風呂場の壁に額をごりごり擦り付けたくなるようなことも。
でも真っ黒な時代ではない。
俺の前でリチャードが、お茶を飲んでいる。
笑ってくれている。
写真の中で見た顔より、何倍か自然な表情で。
俺はそれが嬉しい。
嬉しいと思うと、腹の底から力が湧いてきて、自分はそんなにダメな人間じゃないのかもしれないと思える。課題図書をヒーヒー呻きながらも読みこなし、リチャードから『グッフォーユー』と言ってもらえた時のように。
「……うまいなあ。やる気と元気の味がするよ」
「そうですね。ふんぎりがついたら、先ほどの会合の詳細をどうぞ」
俺が笑って食い下がると、美しい男は微笑みながら、俺の前からクッキーの箱を没収していこうとした。それはないだろ、ひどいだろと俺もふざけ返す。
俺は今、いい時代を生きているのだと思う。間違いなく。
そしてできることなら、今目の前にいる優しい男も、そういう時代を生きていてくれたらいいのになと、分不相応にも願っている。
そういう時代を生きている。
(2019/5/14 書きおろし)
5/14です。
おめでとう。
あなたのことを大好きな人がたくさんいるのだよと、あなたの大切な人たちは、たくさん伝えたがっているはずです。
おめでとう。