繋ぐクリソプレーズ
『ジュエリー・エトランジェ』銀座七丁目にひっそりと居を構えている。店主のリチャードは、この世のものとは思われない美貌の持ち主だが、どれほどの麗人でも、半年も土日に顔を合わせていればさすがに慣れてくる。慣れた分疑問も沸いてくる。
「なあリチャード、お前って甘いもの以外に好物はないのか? ラーメンとか食べないのか?」
麗しのリチャード・ラナシンハ・ドヴルピアン氏は、青い瞳を眇めて俺を見た。赤いソファに腰掛ける彼は、大振りの宝石箱の中身を、窓から差す午前の光にかざして眺めている。
「質問の意図をはかりかねます。何故『ラーメン』なのです。あなたとは何度か食事もご一緒しましたよ。好き嫌いなく食べます」
「それは分かってるよ。別にラーメンに限った話でもないけどさ、お前ってあんまり……そういうの食べないだろ?」
ニラとか。にんにくとか。肉汁滴る焼肉とか。
イメージに合わないことは分かっている。夢の世界からうっかり出てきてしまったような面相の男である。デパ地下スイーツと花霞を食って生きていると言われても七割くらいは真面目に納得できるだろう。
だからこそ、なんというか、人間らしいギャップを探したくなってしまうのだ。
分かってもらえるかこの心理と問いかけると、リチャードは陶磁の人形のような顔で、悪趣味ですと短く言った。それもそうか。アイドルの私生活おっかけでもあるまいし。大方昨日あなたが食べたのはラーメンだったのでしょうというリチャードの推理は大当たりだ。何やら気まずい。これは一時撤退すべき局面だ。話題を換えよう。
「今持ってる石は、何なんだ? キャンディみたいで可愛いなあ」
「玉髄、つまりカルセドニーの一種です。水晶の仲間ですね。ミルキーなアップルグリーンの色合いのものを特に『クリソプレーズ』と呼びます」
「あー……」
リチャードがむき出しの手でつまんでいるのは――そう珍しいことじゃない。石によっては手袋ごしに触れるより、素手で触るほうが傷つかないから安全だという――淡い緑のまるっこい石だった。透明度は低く、カボションで、小粒のキャンディのようだ。で。
「ごめん……何だっけ、名前。クリソ……?」
クリソプレーズ、とリチャードは繰り返してくれた。こういうのも何度目だろうか。宝石の名前は横文字だ。全部カタカナだ。耳に入ってはくるものの、なかなか一発では覚えられない。リチャードは面倒見がいいので、ローマ字で石の名前を書いて解説してくれたこともあったけれど、頭が混乱しただけだった。追いつかない。エトランジェには無数の石があり、俺の頭の容量は既にカツカツなのだ。
「クリソ、クリプ、あー違う。駄目だ。覚えにくいよ」
「クリソプレーズ。人格の調和、統合を助けてくれる石と言われています。中世ヨーロッパの文献には、アレキサンダー大王の愛好した石との記述もありますよ」
アレキサンダー大王。高校で習った人だ。俺でも名前を知っている。この世を去って久しい古代の武将が愛した石を、現代人の俺たちも愛好しているなんて感慨深い話だ。石の世界は懐が深い。でもまあそれはそれとして。
「お前、石の名前どうやって覚えてるんだ? 歴史の授業みたいにテストがあるわけでもなし……」
「自分の扱う品の名前も言えない商人から、あなたは何かを買おうと思いますか?」
「それはそうだけど、難しいものは難しいだろ。種類も多いし、魔法の呪文みたいだし。スリジャヤワルダナプラコッテ、みたいにさ。適当にごまかしたくなってもおかしくないだろ。覚えるコツとかあるのか?」
「……スリランカの首都の正式名を諳んじられたことは褒めてあげましょう。しかし適当にごまかすとは感心しませんね。一度地に落ちた評判は、ちょっとやそっとでは回復しませんよ。そもそもあなたは経済学部に籍を置きながら、商い一般に関する認識が甘すぎます。向上心があるのは知っていますが、実際的な能力やスキルの向上を伴わなければ空回りです。将来のいらぬ苦労を回避できるよう、今一度己のスキルアップに尽力すべきでは? アルバイト先の店主の意外性の発掘などに血道を上げるのではなく」
正論すぎてぐうの音も出ない。それでもリチャードは、少し呆れたような顔のまま、言葉を続けてくれた。多分ここからは優しいリチャードさんのターンだ。
「ですが、そうですね、コツはあります。首都のたとえを引くのなら、スリジャナワルダナプラコッテは、もともとの地名である『コッテ』に『ジャヤワルダナ大統領の聖なる(スリ)街(プラ)』という修飾がついた名称です。まあ、現地の人間ならば『コッテ』と呼びますが。由来を知れば、魔法の呪文でしかないカタカナの羅列も、意味をもった言葉になるのでは?」
おそれいる。あの『やたらと長い首都名』に、そんな意味があったのか。
「言ってることはよく分かるよ。分かるんだけどな……」
「怠惰は罪ですよ。同じように日常生活の様々な事象に関連性を見出しなさい。表層に拘泥せず、深層の来歴に目を向ければ、あなたの世界はいっそう豊かに広がることを保証しますよ」
じゃあさっきのクリソプレーズは? と俺が水を向けると、立て板に水の美貌の店主は華麗に微笑んだ。こいつは甘いものを与えて宝石のことを喋らせてさえおけば、いつでもご機嫌な男でいてくれる気がする。そして俺は上機嫌な時のリチャードの顔が一番好きだ。
「この語はギリシャ語に由来しています。クリソス、プレーズという二つの単語から成り立っているのですね。クリソスの意味は『金』。グリーンの中に透けて見える明るい黄色が、黄金を連想させたのでしょう。プレーズは……」
そこまで言って、リチャードは黙った。
どうしたんだろう。急に歯切れが悪くなるなんて。俺が続きを促すと、リチャードはどんよりとした眼差しのまま一度手元の石に目を落とし、小さく嘆息した。
「……プレーズの意味は……『ねぎ』あるいは『ニラ』にあたる植物だったはずです。グリーンの色合いが、植物を連想させたのでしょう」
「おおーっ!」
すべての道はラーメンに通ずとばかりに俺が手を打つと、リチャードはどんよりした顔をした。何だよ。笑ってくれたらいいのに。
「……いずれにせよ、何かに習熟しようとする心がけは称賛に値します。努力が実を結ぶことをお祈りしていますよ」
「どーもどーも。で、結局お前はラーメン食べるのか?」
宝石商のリチャード氏は、いやにトゲトゲした眼差しで俺を見た。何だこの顔は。馬鹿さ加減に愛想がつきた、といういつものニュアンスを、三割増しにしたような表情だ。からかっているつもりなのだろうか?
「ええ、食べますよ」
「何が好き? 味噌とか醤油とか」
「ネギとにんにく大盛りです。生のにんにくをこれでもかとすりおろして投入します。替え玉もあるとよいですね」
「……密着型の客商売してる人間には、けっこうハードな好みだな?」
「ですからいつでも食べられるというものでもありません。翌日誰にも会わない日に、ひとりで大切に食べます」
俺が目を丸くすると、美貌の店主は傲然と顎をあげて微笑んだ。イメージとそぐわないだろうとでも言いたいのか、開き直っているのか。
「いかがです、『ギャップ』とやらを堪能なさいましたか」
「ギャップ? ああ……いや別に、本題はそっちじゃなくてさ」
「は?」
「や、確かにお前とは何度も食事に行ってるけど、いつもおごってもらってるだろ。フランス料理とか高級スイーツの店には誘えないけど、ラーメン屋だったら俺の大学の近くにもけっこうあるからさ。よかったら今度一緒に食べに行かないか? スーツじゃなくてTシャツで来た方がよさそうな店ばっかりだけど、たまにはお前とそういうジャンクなもの食べながら話がしてみたいんだ」
「新たな意外性の発掘のために、とでも?」
「単純にもっと仲良くなりたいだけだよ」
リチャードは一瞬、ぎゅっと表情を引き絞った。何だろう。それと知らず酸っぱい梅干しでも噛んでしまったような顔だ。俺が眉根を寄せていると、青い瞳を眇めて憮然とし、ぱちんと宝石箱を閉じて立ち上がった。
「あっ、もっと見せてくれよ。まだ全然」
「クリソプレーズには心身のバランスを整え、快く湧き立たせる力があるといいます。春を連想させる若草色ゆえでしょうか。いつでもお祭り気分のあなたには必要のない石では?」
「何で怒ってるんだ?」
「怒っていません」
「クリソプレーズもっと見た方がいいんじゃないか?」
「余計なお世話も甚だしい」
ふんと言い残して、リチャードは奥の部屋に消えてしまった。ラーメン屋に誘ったのがそんなにまずかったのだろうか。怒らせたままにしておくのもなんなので、俺は給湯室でロイヤルミルクティーを二杯自主的に用意した。応接間に出てきたリチャードは、案の定それ以上何も言わず、いつもより砂糖をほんの少し多めに入れたお茶を飲んだ。
午前のお客さまがお帰りになった後、リチャードはもう一度俺にクリソプレーズを見せてくれた。よく眺めると、『金とネギ』という、謎としか思えなかったネーミングの意味が分かる。昔の人はこれを金から生まれた植物だと思ったんじゃないだろうか。凹凸のある表面は、有機体のように柔らかく波打っている。クリソプレーズ。世界に石は数あれど、俺はこの石の名前だけは絶対に忘れないだろう。そしていつかリチャードとラーメンを食べに行くことがあれば、絶対この石の話をしてやるのだ。
あの話、覚えてるか? と。
<初出 2016年「宝石商リチャード氏の謎鑑定 エメラルドは踊る」コミコミスタジオ用特典ペーパー
2017年 web再録にあたり改稿>