エトランジェの日常 ―クンツ博士とモルガン―
銀座の宝石店エトランジェの土曜日は長い。とりわけ今日は長かった。十一時の開店から三時まで、ひきもきらずお客さまがご来店になられて、俺もリチャードも昼を食べ損ねてしまった。三時半になってやっと、コンビニのおにぎりなんか食べている始末である。四時になったらまたお客さまがご来店の予定だ。まだまだ先は長い。
赤いソファに腰掛け、野菜たっぷりのおしゃれなサンドイッチを平らげたばかり男に、なあ、と俺は声をかけた。
「どうして石って、みんな最後に『ナイト』がつくんだ?」
俺の質問の意味を、イギリス人のリチャード氏は、少し考えていたようだった。端麗な沈思黙考の顔になり、口の中をロイヤルミルクティーですっきりさせた後、ああ、と彼は頷いた。
「あなたが言っているのは、アレキサンドライトやアラゴナイト、クンツァイトなどの、名称の話ですか」
「そうそう! それだよ」
これまでの人生で、日常的に宝石と触れあう機会など俺にはなかったので、こんなことをまじまじと考えるのは初めてなのだが、そういえば。
石って何故か、『ライト』や『ナイト』で終わる名前が、異様に多い。
気が付いたが最後、リチャードのセールストークを聞いている最中、ずっと考えてしまった。
美貌の宝石商は俺の質問に答える前に、俺に応接間の棚からペンとメモ帳を取ってこさせた。俺には判読できない筆記体ではなく、きれいなブロック体のローマ字で、石の名前を綴ってゆく。ALEXANDRITE、ARAGONITE、KUNZITE――箇条書きされた石の名前の、末尾三字を、リチャードはぐるりと囲んだ。ITEの三連続である。
「この『ITE』という接尾辞は、『鉱物』をあらわす言葉として広く用いられているものです。全ての宝石の名称に用いられているわけではありませんが、この言葉で終わっていれば、耳慣れない単語であっても、それが『石』だとわかるでしょう。便利な言葉なのですよ」
なるほど、分類用語みたいなものらしい。そしてリチャードは、アレキサンドライトは『アレクサンドル』という王さまの名前にちなんだ石、アラゴナイトは『アラゴン』という地方名にちなんだ石だと付け加えた。そうか、これは名詞の足し算だ。
「じゃあクンツァイトは……『クンツ』たす『ITE』だろうから、『クンツ』って地名か人名にちなんだ石、で合ってるか?」
「グッフォーユー。こちらは人名です。クンツ博士は高名な宝石学者ですね」
「へえー! サンドイッチ伯爵のサンドイッチみたいなものか。その人は、石の発見者とか?」
「その通り。今日は察しが良いですね」
「まあ、定番かなって」
自分の発見した石に、自分の名前をつける。何だろうこの、むやみやたらとロマンを掻きたてられる感覚は。新しい星や植物をみつけたら命名権がもらえるのは知っていたけれど、そうか、石も同じか。
「俺が見つけたら、ナカタナイトかあ……」
「やれやれ。新種の鉱物の発見でも目指しますか?」
「いいかもな! 『ナカタナイトを発見した中田です』って履歴書に書ける」
「嘆かわしい。新たな発見を望む理由が、履歴書の空欄埋めとは」
それからリチャードは、新しい発見とは世界の幅を広げることなのだと話してくれた。既知の鉱物とは異なる設計図をもつ石の存在が分かるのは、今の人間が『世界』だと思っているものの総体を大きくすることなのだと。その石の存在は、宝飾品の世界だけではなく、最新技術の発展にも貢献するかもしれない。石の世界は深遠なのだ。ひとしきり喋ってしまうと、リチャードはいつもの声で俺に「お茶」と宣った。いつの間にかノリタケのカップは空だ。了解である。
俺が二杯目のロイヤルミルクティーをカップに補給し、厨房から戻ってくると、リチャードはテーブルの上にベルベットの玉手箱を広げていた。白いクッションの上に、ちんまりとした宝石が二つ、並んでいる。どちらもピンク系統だが、ほんのりと淡いラベンダー色がかったピンクの石と、オレンジがかったピンクの石だ。大きさはどちらも、小指の爪の半分くらい。見慣れない色合いである。
「……初めて見る石だと思うけど……これは?」
「こちらのピンク色のものは、クンツァイトです。ちょうど仕入れたところでした」
噂をすれば何とやらだ。光を反射したクンツァイトは、桜色のゼリー菓子のようにキラキラ輝いていた。
「柔らかい石ですので、衝撃にさらされることの多い指輪などの宝飾品には、あまり向きませんが、端麗な色合いが魅力です。レアストーンのコレクターに喜ばれます」
「こっちの、ちょっとオレンジっぽい石は?」
「モルガナイト。確かに少し似た色ではありますが、異なる石ですよ」
来た。これも『ITE』だ。俺の頭は回転を始める。
「……当てるから言うなよ。絶対言うなよ。クンツァイトがクンツさんだから、こっちは……モルガンさんだな?」
「その通り。あなたは経済学部の所属でしたね。J・P・モルガンという名前や、銀行を知っていますか」
「え? そりゃ知ってるよ。アメリカの大富豪で、大銀行の創設者で……ええ? まさか」
大富豪が鉱物の第一発見者? 本当に?
俺が目を見張ると、リチャードは軽く首を横に振った。
「モルガン氏は世界有数のジュエリーコレクターで、クンツ博士の所属する団体の後援者でもありました。二人の間には深い交流があったのです。命名はクンツァイト同様クンツ博士ですが、今度はモルガン氏の名前を授けたのですよ」
「へえ……」
クンツァイトと、モルガナイト。
片やアメリカで活躍していた、宝石学者の先生の名前。石の世界ではきっと有名な人なのだろうけれど、この石を見なかったら、多分俺は一生名前を知らなかっただろう。片や巨大な会社をつくりあげた金融王。俺でも名前を知っている。でも――石は石だ。
こうしてベルベットのクッションに並んだところを見ると、何だか趣味の合う友達が二人、並んでいるみたいにも見える。
人間にはいろいろな肩書きがべたべたつく。金融王とか。宝石学者とか。大学生とか。宝石商とか。イギリス人とか。
でもそういうものを抜いてしまえば、みんな同じ生き物だ。
並んだ石をもう一度眺め、あのさと俺はリチャードに声をかけた。
「俺が将来新種の石を二つ見つけたら、一つ目は『ナカタナイト』で、二つ目はお前の名前をつけるよ」
俺がそう言うと、リチャードは呆れたとばかりに目玉をぐるりと回した。全然本気にしていない。それもそうか。そもそも新種の石ってどうやって探せばいいのだろう? 誰も知らない鉱山を見つけて掘るとか? 俺が首を傾げながら質問すると、リチャードは淡々と答えてくれた。
「誰も知らない鉱山はいまだあちこちに存在するでしょうが、地球という星はひとつです。掘っていない場所であっても、周辺の土地を分析すれば、産出する可能性のある石はおおよそ目星がつくものです。新発見の見込みは望み薄かと。それより最近では、今まで別種の石とひとからげに扱われていたものが、実は異なる組成を持つ新種の石だったと判明して『発見』されることが多いようですよ。いずれにせよ鉱物の知識の裏打ちされた見識と、機材による分析が不可欠ですが」
「……かなり化学的な話になるわけだな?」
「その通りです。そしてもちろん、時間とお金がかかります」
「トレジャーハンティングみたいなもんか。儚い夢だったなあー」
「見つけようと思って見つかるものばかりなら、何事も苦労はありません」
リチャードは俺にお茶を片付けるよう言い、平たい宝石箱の蓋を閉じた。三時四十五分。あと十五分は大丈夫だろう。鍋と食器を洗い、また応接室に戻ると、リチャードは窓辺に立って通りを見下ろしていた。お客さまを待っているのだろうか。もう少しなら話しかけても嫌な顔はされないと思う。
「真面目な話『リチャーダイト』と『ラナシンハイト』と『ドヴルピアナイト』だったらどれがいい?」
リチャードは顔もいいが頭もいい。母語のように話す言語は日本語に限らない。少なくとも五、六カ国語は軽いだろう。何でもよく知っている。俺の十倍以上鋭い洞察力で十倍くらいよく考えてから行動するから、誰かのような不用意なポカもしない。もっと安定した、割のいい、楽な職場で悠々と働けると思う。それが日本でひとりで宝石商なんかしているのだから。
この冷静沈着な顔の裏側は、かなりのロマンティストなのだろう。
宝くじに当たったら程度の感覚でさ、と俺が笑うと、リチャードは気の抜けた顔をした。
「私はあなたのモルガンというわけですか。あなたの場合は、ナカタナイトよりセイギナイトがよろしいかと思いますよ」
「え?」
もし石に名前をつけるなら、とリチャードは言った。
「名前とは、石が人間の前に出た時に身にまとう、たった一つの『服』です。ナカタも大変結構なお名前と存じますが、セイギの方がより一層あなたらしいかと。身に着ければ分かりやすいご利益もありそうです」
「やたら人助けしたくなるとか? ちょっと迷惑なご利益だな」
「悪くないではありませんか」
そう言って振り向きざま、リチャードはふわりと微笑んだ。こいつはいつどのタイミングでどう笑えば、周りの人間をいい気分にできるのか、明晰な頭脳で緻密に計算しているのではないだろうか。俺は単純な性格なので、こんなことを言われるとすごく嬉しくなってしまう。にまにましそうになるのを堪えていると、美貌の店主は眉間にぬっと皺を寄せた。
「……何か?」
「や、いやいや、何でもない」
その後間もなくして店のインターホンが鳴った。予約の定刻である。入ってきたのは百貨店の買い物袋をたくさん下げた女性のお客さまで、彼女は珍しい宝石のコレクターだった。クンツァイトとモルガナイトに、もう二つ三つ珍しい石のルースを選んで、ご満悦で帰って行った。多分リチャードは彼女が購入することを見越して、これらの石を仕入れたのだろう。
いつものように五時に店じまいをして、外堀通りでリチャードと別れた後、俺は言いそびれた話を思い出した。笑顔が破壊的に美しかったとかそういうことではない。冷静に考えると、どんなに運がよくても新種二つは厳しいだろうから――いや一つだって無茶だろうが――どうせなら『リチャードと正義の石』という名前はどうだろうと思ったのだ。夢物語もいいところだけれど、本当に何かの拍子で、イギリス人の宝石商を日本人の大学生が夜道で助けたら何故かバイトに雇われるくらいの確率で、そんなことがあったら、そんな風にあいつをびっくりさせるようなことを何かしてやれたらいいなと思うのだ。これはかなり本気だ。
(初出「宝石商リチャード氏の謎鑑定」付属SS/2017年7月加筆修正)