その人を美しいと思う。
それは当たり前のことだった。
空が青いように、鳥がさえずるように、人々は口々に言った。
美しい――と。
半面、ティモシーは人々がこう口にするのもよく耳にしていた。
かわいそうに、あんなに人並外れて美しいと、いわゆる『人並みの幸せ』は手に入らないだろうね――と。
幼かったティモシーには、それがどういう意味なのかわからなかった。おじいちゃまやおばあちゃまに連れて行ってもらうよそのお屋敷のパーティに佇んでいる、お人形のように美しい同世代の男の子が、『幸せになれないね』なんて言われるのを可哀そうだと思いながら聞いていた。とはいえそんな特別な男の子と、特に親しいかったわけでもない。「そんなこと言うものじゃないですよ」等と言い返す義理も度胸も、ティモシーにはなかった。
時は流れ、ティモシーはおじいちゃまから爵位をつぐことになった。おとうさまが病気で世を去ってしまったからである。おとうさまは一人っ子だった。せめても嫡子を遺してくれたことを幸福に思おう、とおじいちゃまが目を泣きはらしながら言った時、世の中には自分には計り知れない『幸せ』があるのだとティモシーは悟った。既に他人の幸せにどうこう言うような年齢でもない。爵位と、それにともなう数々の収入源さえあれば、ティモシーの愛する齧歯類たちの研究も保護活動も好きなだけ続けられたし、正直な話、実利に関係ない実家のことはどうでもよかった。
そんな折。
「こんばんは、バートラム卿」
「……クレアモント卿、でお間違いありませんか?」
「はい。リチャードの兄です」
いや確か彼はいとこだったはずだ、とティモシーは脳内訂正をいれつつ、目の前の男を見た。痩身の人間が無理矢理筋トレをしたような、いわゆる『細マッチョのなりかけ』的体躯の持ち主は、うさぎの頭の杖をついてニコニコ笑っていた。タスマニアに住む希少な齧歯類動物の保護のためのチャリティパーティのゆうべである。主催者はティモシーだった。
多額の支援を募金箱――クレジット決済可能――に投じた後、クレアモント卿はにこやかにティモシーのところに戻ってきて、ノンアルコールカクテルを片手に微笑んだ。実年齢はティモシーと十も変わらないはずだったが、まるで百年生きたような不思議な雰囲気の持ち主だった。
「お元気ですか。リチャードが気にかけていました」
「リチャードが? まさか。私のことを覚えているはずがない」
「どうしてそんなことを仰るのです? 彼は幼い頃にあなたが守ってくれたことを覚えていますよ」
「守った? いやいやそんな……私はそんなことはしていませんよ。人違いでは?」
「私の弟の陰口を言った相手を、にらんでくれたと」
彼はそう言っていましたよと、クレアモント卿は再び微笑んだ。色が白いので、まるで雪の世界からやってきた魔法使いのようだった。確かにあのリチャードの縁戚の人間だけあると、ティモシーは不思議な迫力につばをのんだ。
「……彼は今、どうしているんですか?」
「日本で元気にしています」
「日本? ……ビジネスで?」
「そういう風に言うこともできるでしょうが」
クレアモント卿は再び微笑んだ。微笑みでのらくらと質問をかわしてゆく人間を、ティモシーは星の数ほど見てきたし、その下心がばれないと思っている卑しさにも辟易していたが、クレアモント卿にはそういうところがなかった。
ただ微笑み、ティモシーの反応を待っている。
しなやかな柳のような微笑みに、ティモシーも微笑み返した。
「そうですか」
「はい」
「不躾を承知で一つ、お尋ねしても構いませんか?」
「私に答えられることでしたら、なんなりと」
ティモシーはしばらくためらい、無難な質問と本当に尋ねたい質問をぐるぐる交代させて悩んだ後、選んだ。
『本当』の方を。
「リチャードは、幸せにしてますか? ずっと気になっていたんです。彼は、あなたから見て、幸せにしていますか?」
何が幸せなのか、といった哲学的な命題にティモシーは興味がなかった。
ただその人間が『今幸せだ』と思っていたら、それでいい。
人生のむなしさを経験したティモシーは、幸福とは舌の上の角砂糖のようなものだと理解していた。すぐにとけてなくなってしまうが、味わっている寸暇の間は、甘い味を与えてくれる。
クレアモント卿は再び、微笑みを浮かべた。今度は春の花ような笑みを。
「プリンという日本のお菓子を知っていますか? 英国のプディングとはなかなか風情が異なるのですが」
「え? ああ、テレビ番組か何かで見たことがあるように思いますが……」
「彼は、幸せにしています」
そしてクレアモント卿は言った。脈絡のない言葉だったが、確かな回答だった。
「プリンを食べた子どものように、とても幸せにしていますよ」
「…………そうですか。よかった」
人並みの幸せ。幸福の意味。そんなものはどうでもよかった。
ただリチャードが、パーティの席でいつもひとりぼっちで微笑んでいた小さな子どもが、どこか他人に思えなかった少年が。
うんと遠くのアジアの国で、幸せにやっていると。
そうわかっただけで、ティモシーは心があたたかくなった。
「……本当によかった」
「あなたが心配していたと、リチャードに伝えても構いませんか」
「おせっかいな話ですよ。失礼にならないのでしたら、どうぞよろしくお伝えください」
「ではそういたします。ところでバートラム卿、タスマニアの齧歯類というのは、具体的にどういう……」
「ああ、お話を聞いてくださるのですね。長くなりますが構いませんか」
「もちろん。今の私は世界の全てに興味津々なのです」
「それは素晴らしい」
ティモシーは心からの笑みを浮かべ、歩き始めたクレアモント卿の隣に寄り添った。さてこの『兄』の名前は何だったかと、頭の中の思い出帳を冷や汗でひっくりかえしていると、ばれないように祈りつつ。
「リチャード、かたぬきするか?」
「……よろしければ、今回はパスさせていただいても?」
「了解だ。じゃあ俺がやっちゃうから」
そう言って俺は、リチャードのためにつくったプリンに、すっとナイフをいれた。ぐるりと回す。抜く。器の上にさかさまの皿を置き、器ごとひっくりかえす。
トン、という軽い衝撃で、プリンが落ちてきたことがわかる。
精一杯取り繕った『別にわくわくしてなどいませんが』という顔のリチャードに、俺は微笑み返し、器を持ち上げ。
皿を差し出した。
「中田正義謹製プリン、どうぞ召し上がれ」
「謹んで頂戴いたします」
あらかじめスプーンを持って待機していた甘味大王は、その後しばらく『プリンを食べる機械』になったように、非常に集中して俺のスイーツを食べてくれた。何度食べてもおいしいものですと言ってくれるリチャードに、俺も何度も新鮮に感動する。おいしいと言ってくれる人がいることは幸せだ。
長く楽しい一日の始まり、リースやボール飾りで彩られた朝のダイニングで、俺は晴れやかに告げた。
「リチャード、今年も誕生日おめでとう」
(2023/12/24初出、書き下ろし)