辻村日記(SFカーニバル無配冊子)

April 29,2024

辻村日記

3月19日

日記を書こうと立ち上がったら、足元に積んでいた本がドミノになって倒れて行った。上から『少女星間漂流記』(東崎惟子)、『竜の医師団』(庵野ゆき)、『梁塵秘抄』(角川ソフィア文庫)、『営繕かるかや怪異譚』(小野不由美)、『勝手に! 文庫解説』(北上次郎)、『ヒッキーヒッキーシェイク』(津原泰水)だった。全部敬称略、全部積読である。我が家の書痴グランデ・ブックタワーはまだ他にも複数あるのだが、そのうちの一つに足先でタッチしてしまったがゆえの悲劇である。もう一回積み直した。

はじめまして。あるいはこんにちは。辻村七子と申します。二〇一四年ごろから小説家をしているので、そろそろ十年やらせてもらっていることになります。主に集英社オレンジ文庫で『宝石商リチャード氏の謎鑑定』などの作品を上梓している、ライト文芸畑の作家です。好きな食べ物はゆば卵丼で、好きなコーヒーはブラックです。
自己紹介、以上。
日記の話に戻る。
もちろん、今までにも私は日記のようなものをつけてはいる。いわゆるSNSはライフログみたいなものなので、あれも広義では日記だろう。下手をしたら二十年分くらいあるのではないだろうか。
だがこれはSFカーニバルで配布するおまけ冊子、無料の同人誌である。Xとかいう面妖な名前になって久しい旧twitterのログを並べておくだけではちょっと残念感がある。何だかもったいない。

そんなわけで日記をつけているのだが、今は締め切りが近い。正直日記どころではない。しかしその締め切りも、A社さんやB社さんの原稿ではなく(それはもう一応お出ししてある)五月に開催される文学フリマ東京(5/19)の同人誌の締め切りである。私は二冊の同人誌の発行を目指していて、一冊目の同人誌(「作家になったらどうなるか」という、自分が作家になる前からなった後あたりに必要になった作業や知りたかった事柄などを綴ったハウツー本的なもの)はほぼ完成していて、名前を出した方など必要な人に読んでもらう作業も終わっているのだが、もう一冊の方(短編小説同人誌。短編小説を書く練習になるといいなと思ってプロットを数本分作った)の進捗が思わしくない。多分このままいけば出るだろうとは思うのだが、底に至るまでには一度、二度ふんばらなければならないタイミングがあるだろうと思われるのだ。そして後々の読み返し作業のことを考えれば、ふんばリング(何だそれは)(今命名した)の時期は早ければ早い方がいい。何度も直せるからだ。
ふんばりたい。
しかしふんばりどころをつかみあぐねている。
そんな状態の人間の日記をおまけにつけるのは、一体Xのログをおまけにつけるのとどう違うのか、そっちの方が無難なんじゃないか等、思われることもあるだろう。だがご寛恕願いたい。何しろ私はこうしてワードファイルに文字をうちこむことはできても、SNSのログを見苦しくない形にして紙媒体に印刷する方法は知らないのである。最初から二択どころか一択だった。
そんなわけで辻村日記である。どんな日記になるのかわからない。完成形の見えないものを書くのは初めてかもしれない。

3月20日

今日は水曜日だが世間は休日だ。祭日であるらしい。えっ祭日って何……? 知らない子ですね……。
昨日はたくさん歩いたので、かかとのあたりがまだ少し痛い。
上野の動物園に行ったのである。
トラとかアジアゾウとかハブとかオオサンショウウオとかいろいろ見た。いや、オオサンショウウオは石の下にぴったりと隠れていたので、ひくひく動く足と、頭とおぼしき部分の影しか見えなかったのだが、まあ見るには見た。
動物園をたぶん半年に一回くらいの頻度で私は訪れている。のんびり動物を眺めているのが好きだから、というには上野動物園は賑やかすぎるので、おそらくそれは理由ではない。ワイワイしてたまっているアオミドロ→ミカヅキモ→ボルボックスみたいに無限繁茂する幼児の集団に癒されるということもない。むしろ少数の先生がごんぶとの責任を背負って多数の幼児を引率する姿を見ると、赤の他人百パーセントであるというのにヒヤヒヤしてしまう。先生がんばってください。先生どうか少しでもお休みになれますように。先生、私より明らかに若く見える先生、お弁当をちゃんと食べたりトイレに行ったりする時間が十分にとれますように。幼児たちがお行儀よくふるまい、突然泣き出したりしませんように。

それから神保町にも行った。歩きまくりである。
中国からの輸入書籍を扱っている書店に行き、中国語学習に役立ちそうな本、本国の小さな子どもが勉強する時に使うという教材を買った。あと英語圏の人が勉強する時に使う、漢字が読めない人のための初級学習参考書も一冊。こういうのが欲しかった! 同じ書店で友人がはまっている『天官賜福』を売っていたので、そろそろ読み時かと思って手に取りかけたが、結局その隣にあった『中国の伝統色』(翔泳社)を買ってしまった。買う前からちょっと気づいていたが、これはとてもいい本で、色と名前の対照表なのだが、とにかく見ているだけで幸せになってしまうタイプのブツだ。危険である。時間がとぶ。だがいい。今年イチのお値打ちの買い物かもしれないと思っている。とにかく美しい本だ。

動物園と書店の共通点は、知っているようで知らないものがたくさん見つかるというところだ。
トラもアジアゾウもハブも、名前を聞けば「あーああいうやつね」と頭にもやもやしたイメージが浮かぶ。書店に行ったってもう隔日どころか日に一回行っているようなところなのだから、おおかたのものは知っている(ことが多い。専門書を扱っている珍しい書店さんなどは別の話である)。でもシャーロック・ホームズが言うところの、『見る』ではなく『観察する』モードになると、知らなかったものがドカドカ見えてくるのである。
私はそういうところが好きだ。知らないものがあって、それを認識できたんだと感じる体験が好きだ。楽しい。

それはそれとして、これは昨日までの話である。
今日は仕事だ。頑張ろう。

3月21日

昨日の仕事終わりに、今日何をすればいいのかわかる! というひらめきが入ってきてとても嬉しかった。そして書いた。とりあえず五〇〇〇字くらい。
しかしまた新たな壁にぶつかる。
でも楽しい壁だ。楽しく越えよう。

朝に「今日はこういう日記を書こう」と思っていたことがあったはずなのに、小説を書いていたら忘れてしまった。何だったっけ。
そうだ、短編小説を書くことと長編小説を書くことの間には、そんなに違いはないのではないか、と書こうと思っていたような気がする。とくにキャラクターの性格をつかむ(彼らと「お知り合いになる」)プロセスについては。
ぶっちゃけていうと、長編だからといって登場人物と深く知り合わなければならないということがないのと同じに、短編だからといって、登場人物のことを対して理解しないうちに書き始めても大丈夫、なんてことはないのである。でもこれは書き始めてみれば、誰にでもわかることだと思う。コスパで考えるのであれば、同じ準備の量でたくさん書けるぶんだけ、長編の方がコスパ良好ということになるのかもしれない。いや、早く書き終わる短編の方がコスパがよい? うーん、やめよう。小説というコスパとはかけはなれたところにある娯楽を、コスパではかることほどコスパ不良なこともないだろう。コスパがゲシュタルト崩壊してきた。ココス。それはファミレスだ。タパス。それもファミレスだってば。

昨日、ブース(booth)というウェブサービスを用いて、『クレアモント家に眠る宝を探せ』というTRPGシナリオを公開した。テーブルトーク・ロールプレイングゲーム、略してTRPG。みんなでわいわい話しながらロープレをするゲームである。ゼロ円で公開しているので、一体何回ダウンロード(この場合は読むこと)してもらえたのかわからなかったのだが、『編集』というタブから『ダウンロード内容の変更』というところを、特に変更することがないのにクリックすると、何回見てもらえたのかがわかるようだ。忘れないようにここに書いておく。何だかアルジャーノンの日記みたいになってきた(ダニエル・キイスという人がそういう日記文学を書いています。ちょうゆうめい)。このシナリオは、三月十五日にオンラインテストプレイをしたものを、テストプレイの反省に沿って多少手直ししたものである。拙著『宝石商リチャード氏の謎鑑定』シリーズを読んでくださっている方をターゲットとしたTRPGシナリオなので、無料配布したところでそんなに広く楽しんでもらえるものではないと思うのだが、ともかく配布は始まった。やっとか、という感じである。このシナリオを書き始めたのはおととしあたりで、構想自体はもっと前からあったので、実に二年以上手元にあった原稿ということになる。めちゃ長い。
何で小説家がTRPGシナリオを作ったの、という質問がありそうなので、二通りの回答を記しておく。
その一。私はTRPGシナリオが好きであるため。友達に誘ってもらってクトゥルフ(そういう世界設定、慣れた感じの用語で言うとシステムが存在し、日本でかなり流行している)TPRGのセッションをしてもらい、「こんなに面白いごっこ遊びが世界にあったんだ!」と感動、それから何度かいろいろな場でプレイをさせてもらううちに「ひょっとしたらこのごっこ遊びの世界の舞台を、宝石商リチャード氏の謎鑑定世界観で行うことも可能なのでは?」と考え始めた。それでシナリオを書いた。
その二。小説を読むだけでは体験できない体験を、宝石商世界観の中に入って体験してほしいという欲が出たため。
TRPGシナリオを出すならゲームブックにしてほしい、プレイの再現を小説にしてほしい(いわゆるリプレイ小説)というご要望もいただいたのだが、それはやりたくなかった。何故ならそうすると、『公式小説』みたいになってしまうからである。なまじ私は小説家なので、小説家の作者が書いたTRPG小説というものの位置づけが、公式なのかそうじゃないのか非常にわかりにくくなりそうで困りそうだった。「これはイフの世界で、宝石商シリーズのほんとの昔のことではないですよ、だって登場人物がプレイのたびに変わりますからね」「これはみんなで遊べるお庭ですよ」という前提を共有してくださる方に、私はこのTRPGで遊んでほしいと思っている。このシナリオのせいで「原作小説にはないけれど、半公式みたいなTRPGにはこう書かれていたから、あなたの解釈は違うんじゃないですか」という感じの、誰かが誰かの創作物を糾弾するようなことは絶対起こってほしくないのである。そもそも解釈って人の数だけあるから『解釈』なんじゃないのか。物語世界のことを誰がどう思っていたってそれはその人の自由だ。好きにいろいろ考えてほしい。
話題が逸れた。

TRPG、楽しんでもらえたらとても嬉しい。もし誰かとプレイしたら、よければその感想を教えてほしい。作者はとても喜ぶ。

仕事をする。そろそろ印刷チェックをした方がいいフェーズかもしれない。小説によって「いつ」がそのフェーズなのかが違うので、なかなか塩梅が難しい。でもそういうところも含めて、やっぱり小説を書くのは楽しい。

3月22日

朝の八時。とりあえずテツノイバラexを一枚は確保した。『クリムゾンヘイズ』はそれほど注目されている拡張パックというわけでもないが、やはり人気は健在のようだ。
何の話かと思われるだろう。ポケモンカードの話である。
あー、あの可愛い女の子の描かれたカードをメルカリで転売すると何万円にもなる、よくわかんないトレーディングカードね……と思われた方、ちょっと待ってほしい。確かにそれは正である。間違っていない。だが転売だけがポケカの世界の全てではない。
まっとうに遊んでいる人もいるのである。
それもものすごくたくさん。
とりあえず、世の中にはトレーディングカードゲームというものがある、というところから説明をする。野球カードのように集めて戦わせるのではなくただ集めるだけのトレカも存在するが、『ゲーム』と最後につくものは集めて戦わせる系だと思って間違いないだろう。剣と魔法の世界のマジック・アンド・ギャザリングとか、日本で生まれて世界中で愛されている遊戯王カードとか。もちろんポケモンカードもその一つだ。95年ごろに発売されたもののはずだから、そろそろ三十年現役で動いているトレカということになる。2023年に発売されたワンピースカードも健闘していてポケカの売り場を圧迫していたりするが、それはさておき。
集めて戦わせる。これがトレーディングカードゲームの大きな要素である。
ポケカであれは60枚で一デッキ。デッキ同士をルールに沿って戦わせて勝敗を決める。これがポケカの戦いだ。
もちろんカードの数は限られているので、強いデッキというものはある程度限られてくる。いわゆる『環境デッキ』と呼ばれるようなものだ。今のポケカでいうならリザードン系とかパオジアン系とかがそれである。
えっ、じゃあそのデッキに必要なカードを集めきってしまったら、もうカードを買い集める必要はないんじゃないの? と思われるかもしれない。しかしそこが現行のカードゲームのうまくできているところで、二か月に一度ほどのわりあいで、『拡張パック』と呼ばれる新しいカードたちが発売されるのである。当然戦略性も変わってくる。新しいカードを強いデッキに日々組み込み、日々更新し続け、必要とあらばデッキコンセプトそのものを捨て去り新たなコンセプトを考え出したものだけが、第一線で戦い続けることができるのである。
とまあ、これは、一部の話である。みんなが『第一線』で戦っているわけではない。みんながチャンピオンシップに出てるわけじゃないしね。もちろんそういう大会も存在はするし、非常に盛り上がるのだが、あれは何というか、私のような木っ端『トレーナー』(ポケカをやっている人をそう呼ぶ)には雲の上の話である。
ポケカを遊んでいる大多数の人は、環境デッキとかあまり考えていない。家族や友達や恋人同士で、余暇の時間に遊んでいる人が多いらしい。拡張パックが定期的に売り出されるのと同様(それより少し頻度は落ちるが)『これだけ買えば六十枚入っているので、今すぐ対戦ができます』という形態の、スターターデッキという品物も発売されている。これをちょっとずつ適当に組み替えるだけでも、かなり楽しくバトルができるのだ。ポケモンというゲームがもともと好きな人なら、愛着のあるポケモンを組み込んだデッキを作れば、勝てなくてもそれだけでかなり楽しいかもしれない。

じゃあ、どこに転売の介在する余地があるの? と思われるだろう。ここまでの説明であれば、趣味人が趣味人と対戦するために時々カードを買い集めて遊ぶ、平和な趣味であろうからだ。
正直自分にも何故なのかわからない部分はあるのだが、一部のポケモンカードは非常な高値で取引されている。状態のよい古いレアカード、状態のよい可愛い女の子のレアカードなど。場合によっては数十万円に達することもある。海外旅行で日本にやってきた投資家が、有価証券と違って税金は取られないのに同じように取引できる、と笑って秋葉原のカードショップで爆買いをするという話も耳に挟む。理由はわからない。おもちゃのカードの話である。しかしこれは「なんでダイヤモンドが高価なのかわからない」というのと同じ理屈で、一度「そう」という価値が付帯してしまったものは、そういうものとして扱われてしまうのかもしれない。もちろんいつその魔法がとけるのかは誰にもわからないのだが、ダイヤモンドの魔法は少なくとも百年近く続いている。
二か月に一度、早い周期の場合は一か月に一度ほどの頻度で、ポケカが新しい『拡張パック』を発売していることは先に述べた。この拡張パックの中には、毎回何種類かのレアカードが含まれる。SR(スーパーレア)、SAR(アートと呼ばれる特殊なイラストで彩られたSRカード)、UR(ウルトラレア)、UAR(SARと同じコンセプト)、このあたりのカードを引き当ててカードショップに持って行ったら、とりあえず拡張パックを買ったのと同じか、それ以上のお金が戻ってくるだろう。そんなの宝くじと同じだ。しかもパックを開けた瞬間結果が出る。
そういうわけで転売ヤーと呼ばれる人々は、めちゃ高値で買い取ってもらえるカードが入っていることを夢見て、趣味人が趣味人と遊ぶためにつくられたカードを買いあさる。ポケカの代名詞である『品薄』『完売』『子どもが買えない』三拍子の完成だ。正直SRやURのカードの美しさは確かに素晴らしいし、有名なイラストレーターさんたちを集めて描いてもらっているからコレクター価値もあるとは思うが、さすがにポケカを売っている会社も、ここまでのことになるとは考えていなかったのではないか。最近ではカードをたくさん刷るという形で対抗してくれているようだが、まあ朝の八時にコンビニをうろついているレベルでは買えない、という状態は相変わらずだ。本当に欲しいなら、せめて七時にはコンビニの中にいなければならない。零時から売り出す店もあるが、十時には就寝している私は諦めるしかない。
フリマアプリでカードを買うのは転売ヤーだけではない。買いあさったカードの中には、プレイしない人には全然価値のない、しかしプレイをする人にはそれなりの価値があるカードも存在する。そういうカードを三百円とか五百円とかで購入する際にも、フリマアプリは便利だ。だから全面的に禁止するのがよいかと言われると、私には判断ができない。しかしこのポケカニアリーイコール宝くじ状態を何とかしない限り、発売日の品薄状態は続くだろう。

まっとうに遊んでいる人もたくさんいる、という話から始まったはずが、転売が起こる理屈について長らく語ってしまった。申し訳ない。こんな状況に置かれたゲームではあるが、ポケカにはいろいろな戦略性があり、それを動画サイトで紹介してくれたりするプレイヤーもいたりするので、私はそういう情報を集めて「環境デッキには一歩たりないけれど、回しているとけっこう楽しいデッキ」を作るのが好きだ。プレイヤーの定番の質問「どこの拡張パックの時期に始めたんですか?」には、「VMAXクライマックスの直前、ムゲンダイナVMAXが頑張ってた時期ですかね」と答える。悪タイプのポケモンをずらっと並べる戦略を持つカード、ムゲンダイナVMAXというカードがあり、それを中心にしたデッキが強くて簡単で、気が付いたらゲームそのものがとても好きになっていた。時々家族やジム(カードショップが開催している日曜大会のようなもの)で戦ったりするのも楽しい。勝っても負けてもお祭り騒ぎ、とまではならないが、勝っても負けても楽しいのは、ポケカに限らず競技性のある遊戯に共通する醍醐味だろう。そんなにピリピリした雰囲気でゲームをしたいとは思わない。ただプレイしているだけで楽しい。何よりポケカは両手を使うので(皿洗いだってそうだが)やっている間はどうしたって小説が書けない。暇さえあれば本を読むか小説を書いてしまう人間のデトックスにはぴったりだ(そうだろうか?)。
今私が組みたいと思っているのは『ミライバレット』と呼ばれる、ミライという性質を持ったポケモンを組み合わせて戦うデッキなのだが、そこに今日発売された拡張パック『クリムゾンヘイズ』収録の新カード、テツノイバラexを組み合わせると、うまいことデッキが『回る』(一枚一枚のカードの相乗効果が噛み合って、どんどんやりたいことができる状態)らしい。わくわくする。

そんなわけで、ポケカは転売だけが全てではない、という、今日の日記である。プレイヤーがどんなところにわくわくしているのか、現状のどういうところに戸惑っているのか、何となく伝わっていたら嬉しい。

さて、明日から台湾なので、ある程度仕事をしたら、今日は準備フェーズに取り掛かる。

3月23日

朝の飛行機で台湾に向かう。到着はお昼。
機内で「落下の解剖学」を見るのだが、これがなかなかの曲者で、見終わったあとグッタリと疲れてしまった。まだ旅が始まってもいないよ! この日はホテルにチェックインしてすぐ、あちらこちらと動き回り、夕食時に疲労のあまりバタッと倒れるという最悪のコースになってしまった。大反省である。体力は有限であり、移動中には新作の映画にはしゃぐのではなく体力の温存につとめる。旅の鉄則である。トホホ。
タクシーの後部座席に座っていると、ディスプレイを消せない広告テレビがあるのだが、その広告の中に幾つか面白いものがあった。一つは台湾でウーバー的な役割を担っているとおぼしき『フードパンダ』、もう一つはあっち向いてホイ! で悪霊を成仏させる霊幻導士の出てくるCM(保険か何かの広告のようだった)。ノリは日本のCMとよく似ていて、言葉さえ違わなければそのまま通じそうだと思った。やはり近い国なのだ……。

3月24日

今回の旅の最大の目的である『故宮博物院』を訪問する。
何故北京に存在した歴代王朝の文物が台湾に存在するのかということについては、中華民国と中華人民共和国の戦いについて言及しなければならないのでここでは割愛するが、一九四九年ごろから台湾に移されてきたものだと思っていればそんなに間違いはないのではないかと思う。中国文化圏の膨大な文物が収蔵されている博物館だ。私のおめあては陶器だったので、書画、玉の類は今回はスルーする。どうせまた二回か三回は来るだろうしな……という確信があるし、昨日の教訓もあって体力をもたせたいと思ったからだ。

展示室では、膨大が器たちが出迎えてくれた。
日本の博物館で展示したら、一つであっても目玉展示になりそうな、何となればメイン展示品にして特別展ができてしまいそうな器が、信じられないような数展示されている。ホイホイ置かれている。めがくらみそうだ。皇帝しか使うことを許されなかった器が山ほどあって、それまでのイメージが覆された。いくら皇帝であったとしても、いい器は幾つもなかったから、それを特別な時に使っていたんだと思い込んでいたのだが、皇帝用の器はどれも皇帝用の器で、皇帝はそれを日常使いしていたのだ。『皇帝』の字と豊かさの概念がゲシュタルト崩壊しそうである。

故宮のことを語った本を出発の前に数冊読んだが、その中に「故宮博物院の特徴は、ウフィッツィ美術館やエルミタージュ美術館などとは違って、ほとんど中原の世界(いわゆる中華文化圏)の中の文物の展示ばっかりで、外の世界のものがないところだ」と書かれていたが、実際に見てみると確かにそうだなと思うところはある。ボストン美術館の目玉展示のひとつが日本の浮世絵であることを考えると、もうちょっといろいろ集められたんじゃないだろうかという感じもするが、これはおそらく博物館のコンセプトの違いなのだろう。同じ本には「これを持っている人が、正当な王朝の後継ぎなのだという文物が、この文化圏には存在した」と書かれていた。つまりこの博物館の文物が収蔵されてきた目的は、対外的なものではなく、内側への「俺が王さまだから」というアピールのためのものだったというのだ。
蒋介石が中華民国の捲土重来を祈って、この文物を北京、南京、台湾と運んできたことも、そう考えると新たな視点から納得できる気がする。
ともかく今回だけでは全く見終わることができなかったので、また来るぞ! 再見、故宮!

3月25日

旅の最終日である。一番歩いた日になった。イージーカードをコンビニで買い(台湾のパスモやスイカのようなもの)バスにのって、誠品堂書店という、台湾で一番たくさんありそうなチェーン店の大きなお店を訪れたのだ。めあての本はなかったが、子ども向けの本を二冊買い、グーグル翻訳の力も借りて少しずつ読んでいる。とても楽しい。その後、一回くらい食べたいなと思っていた豆花を食べて、ホテルに戻って飛行機に乗る。あっという間の帰国だ。

いろいろなことを考えた。
文化というものはグラデーションなのだなということ、それを肌感覚ではまず『違和感』のように感じること、そもそも文化とは最小単位に還元すれば、人と人との違いになってゆくのではないかということ。それから、もっと台湾の勉強をしてくるべきだったという後悔と申し訳なさ。
このとき日本では氷のような雨が降っており、天気予報は十度前後の気温を報じていたが、台湾は暑く、二十五度近くあった。春というより初夏で、半そででウロウロするのがぴったりである。台湾は「外国」というくくにりすると日本ととても近いが、地理的には沖縄よりも南にあるのだ。この不思議な感覚。
夜に日本に帰国した時にもまだ、不思議な感覚は体に残っていた。この国は台湾にそっくりで、通貨単位もユエンならぬエンだが、言語が違う。気温も違う。お店屋さんで売っている商品も違う(明治のチョコレートは相変わらずあるけれど)人々の化粧の様子や服の選び方も違う。

帰りの飛行機と電車の中では『台北プライベートアイ』(著・紀蔚然 翻訳・舩山むつみ)を読んだ。台北で活動する私立探偵の日々をハードボイルドにコミカルに描いた作品だ。作中で描写される景色がもうありありと脳裏に浮かんでくるため、非常に楽しい読書になり止められない。だがまだ三十パーセントくらいだ。電子書籍で読んでいると残りのページ数がパーセンテージになって表示される。よしあしだが、私はそんなに好きではない。残りの七十パーセントは明日以降に読むことにしよう。
文化とは一体何なのだろう。コンクリートな回答がある問いではないことはわかっている。だが自分なりに納得のできる答えを得たい。すぐにではなくても死ぬまでに。
大きな宿題を貰った旅になった。

3月26日

帰国翌日。旅行明けらしく頭がボーッとしているので、今日はバリバリ原稿をする日ではなく、今後の予定を整理するための日とする。髪の毛は爆発しているが、ボーッとしているので気にしないことにする。昨日の夜はそれほど疲れている気はしなかったんだけどな。豪雨の寒い日である。桜の開花予報のニュースがきこえてくる頃合いだが、この氷雨ではまだ開かない方がよいだろう。桜よ、早まるな。

頭がぼーっとしているので今後の予定を整理する。いやそれは四行くらい前に書いたばかりだ。しっかりしろ辻村。まずA社のゲラをする。そしてB社の作品をもっと書き進める。C社の作品も書く。こちらはとりあえず短編なのだが、何本が連なっているタイプの短編になるため気を引き締めてゆかなければならない。D社の作品はまだ形になるところまでは行っていないのだが、とりあえずもっと詰めようというやりとりをメールでしているので、今後物語をどうしたいのかを、もっと具体的に考えておいた方がよいだろう。そして同人誌。小説の同人誌。これを三月中に仕上げてしまわないと他のことに全力でかかれない。出なくても特に誰にも迷惑はかけないものが一番締め切りが近いとは。何はさておき、まずこれを仕上げよう。

いよいよ印刷所の締め切りも考えなければいけなくなってきた。先に述べた文学フリマ用の同人誌ではなく、SFカーニバル用の(つまりこの本の)締め切りである。今回私が利用しようと考えているのは丸正インキさんという印刷所なのだが、カーニバル前日までにツタヤ書店さんに本を届けていただくためには、四月の初旬には全てのフォーマットを整えてデータをお渡ししなければならないようだ。なんかもう非常にワクワクである。気持ちの上ではいますぐ入稿作業をしたいのだが、肝心の原稿がまだここまで、この文字までしか書けていないので不十分な状態である。もうちょっと書いてから入稿しようね……。

雨が降り続いている。これからも仕事はもらえるかなとか益体のないことを考える。まずは手元にある仕事をひとつひとつきちんと片付けてゆくのだ。

3月27日

予定通りA社のゲラをする。ウェブ連載用のゲラだ。SFカーニバルの時点ではもう公開されていると思うが、新刊の内容をウェブ連載形式で公開、その後書籍にまとめるという形で発表するのだ。今時である。一度内容を知ってしまったら本を買ってもらえないんじゃないか、という懸念はあまりない。何故かというと、まるでそれと同じ形で発行されている「小説家になろう」とか「アルファポリス」(どちらもウェブに自作の小説を発表できる投稿式ウェブサイトで、そこで発表された作品を出版社が買い、書籍にし、売る、というビジネスが昨今とても多い)発の作品が売れているからである。ウェブ上に全く同じ原稿が存在しても、ありがたいことに買ってくださる方はいるのだ。そしてもちろん書籍になったらイラストレーターさんの素敵な絵もついてくる。私が読んだことのあるネットの作品は主になろうで、それにしても一年で二本とかそのくらいなので大して参考にはならない意見だと思うが、気に入った作品が本になれば私も買うと思う。

ともあれゲラである。ゲラとは「印刷の際と同じフォーマットになっている紙」なので、これはウェブ用ゲラと言うのが正しいのかもしれない。短い分量だったので、一時間半くらいかけて終了。宅急便に託して編集部に送ろう。編集さん、あとはよろしくお願いします。

仮眠。昨夜は全然眠れなくて、スイカゲームを頑張ってしまった。三時間くらいは眠れたのだが、小説を書くには足りない。一時間ほど寝て、頭が冴えた。やっと書ける。書いた。

いきなりだがこの日記は三月末でおわりになる。四月になると「四月にやらなければならないこと」タスクが頭の中にずらりと並ぶので、日記どころではなくなるのである。もちろん三月あたまにも同じようなタスクが頭の中にずらっと並んだが、それはもう大体片付いている。夏休みの宿題は計画的に片づけてゆくタイプだったが、特にボーダーラインのない、あるいはものすごくボーダーラインの長い『宿題』が出てしまうと、私は急いで片付けないと怖くなってしまうタイプのようだ。何故なのかは自分でちゃんとわかる。だってそのうんと長い期間の間に、全く別の新しい、かつ面白そうな『宿題』――と書いて原稿と読む――が飛び込んできてしまったらどうするのだ。そっちに全力投球するためにはまずその前の仕事を終わらせておく必要があるだろう。おそらく自分は『いい加減な心配性』なのだ。

今日は昨日の豪雨が嘘のような、からっとした晴れ模様である。いよいよ桜の開花が近いだろうか。花粉症のつらさを割引にすれば、植物が次々に芽吹いてゆく春はお得な季節だ。生きているだけでちょっと心がうきうきする。

夜にうどんを作って食べてしまった。こんな時間(二十時)に食べるんじゃないよ! ちなみに私はだいたい十七時半から十八時のあいだくらいに夕食を食べ、二十一時半くらいに就寝しているため、二十時にものを食べているのは大変なイレギュラーである。
何はさておき、うどんはおいしい。

3月28日

今日は図書館で借りた『ボヴァリー夫人』を返さなければならない。全然読むことができなかったのでまた借りよう。新潮文庫の新訳を借りたのだが、私が昔古本屋で購入したものより文字も大きく、読みやすくなっていて、少ししか読めなかったがとても好感度が高い。また会う日までしばしの別れだ、夫人……(本だよ)。

いよいよ三月があと三日で終わってしまう。同人誌小説の進捗があまり捗々しくない。がんばれ自分。がんばれ登場人物たち。いや登場人物を応援したって私が書かないことには彼らは動いてくれないのだから私が頑張るしかないのだが、いわば私の「パソコンをパチパチやる」という労力がガソリンで、彼らの存在のほうを車やバイクのような機関であると感じることがある。ままある。私がともかくエネルギーを注力すれば、残りは彼らが勝手にやってくれるのだ。いずれにせよ自分が頑張らなければならないパートである。気合を入れろ。入れた! 書いた! かなりよく進んだ!(注:この一行のあいだに現実では半日ほどが経過しています) 今日はもう本ばっかり読んじゃうぞ!

と思っていたら図書館から電話が入った。取り寄せ予約をお願いしていた本が届いたそうだ。やった! この日記を書き始める直前に予約をいれたような記憶があるので、実に十一日もかかったがありがたくも取り寄せていただけた! マジでこれは皮肉でも何でもなく非常に手間のかかるオーダーであったことがわかっているので、感謝の思いしかない。

皆川ゆか先生の『運命のタロット』シリーズを取り寄せてもらっていたのである。

このシリーズはSF的な要素を持つ少女小説として非常に意義深いもので(いきなり少女小説ガイドみたいなこと言い始めた)『運命は変えられない』とする派閥と『運命は変えられる』とする派閥がサイキック的にドンパチやる物語である。講談社X文庫(ティーンズハート)という二〇〇六年まで存在していたレーベルの本で、小野不由美主上が『ゴーストハント(悪霊がいっぱいで眠れない!)』を書いていたレーベルと言えばピンとくる方もいるだろう。今でいうライトノベル系列のもので、かつすでに絶版になっている書籍であることに留意されたい。加えてこの本の発行年は一九九七年。今から三十年くらい前の本なのである! 三十年前のラノベ! 賢明なる読者諸君には既に「そりゃあ古本屋を巡っても存在しないわな……」とお察しいただけたかもしれない。私には書痴かぶれみたいなところがあり、できることなら自分で購入して本を読みたいのだが、もう買おうと思っても買えないのでは仕方がない。図書館に頼るしかないと、このたび年貢を納めて(?)予約をお願いしたのである。ちなみに『運命のタロット』シリーズは、最初の一巻だけが電子書籍化されているので、一巻だけならばふつうに購入して楽しむことができるが、シリーズは二十四巻まで存在している。えっ二十四冊のうちの最初の一冊だけ電書化するって、それは大丈夫……?諸事情があるのはわかるが、読者にとっては殺生な上に焼石ウォーターな話である。

そんなわけで背表紙に可愛らしくteen‘s heartと書かれた書籍を手に取り読む。ひたすら読む。もちろん『ボヴァリー夫人』は図書館にお返ししてきた。二十四巻を一気に取り寄せてもらうことはシステム上不可能なので、今回は二巻『恋人たちは眠らない』~七巻『死神の十字路』までの六冊をお願いした。運命のタロットシリーズは『運命のタロット(運タロ)』十三冊、『真・運命のタロット(真タロ)』十一冊で構成されているため、おそらくSFカーニバル当日までには、少なくとも運タロくらいは読破しているであろう。この物語にはある種の時代劇的なギミックが幾つも仕掛けられており、叙述トリックのような楽しみがあるそうなのだが、現在読んでいるところまでではその真相はわからない。そもそも一九九七年の作品を二〇二四年に読んでいるということが十分にSF的といえばそうである。タロットの精霊のような謎の存在『魔法使い』と契約し、他のタロットの精霊的存在とのバトルに巻き込まれてゆく主人公の水元頼子、通称ライコは、なんとなく平安の凄腕ゴーストバスター源頼光をほうふつとさせる名前の持ち主だが、今のところ普通の高校生である。果たしてこれからどうなってゆくのだろう。『愚者は風邪とともに』へ突入だ。

あっポケモンスリープでライコウを捕まえるのも忘れないようにしないと!

3月29日

豪雨である。昨日『運命のタロット』で少し夜更かししてしまったこともあり、頭がボーッとしている。髪の毛も爆発している。それにしても雨がひどすぎる。全国的に降っているそうだが、被害状況とか大丈夫なんだろうかこれは。
ポケモンスリープのライコウ確保は、ライコウサブレで好感度半分くらいの段階まできた。好感度をMAXにしないとゲットさせてくれないのである。そうか……こういうポケモンもあるのか……。もう一回『ライコウのおこう』を焚けば、次は、あるいは次の次くらいには何とかなりそうな気がする。

今日から私の中国語学習教材にアニメ『時光代理人』が仲間入りした。現代中国を舞台にした、サイキックな男子二人組の事件解決系短編連作ものである。ビリビリ動画という中国版ニコニコ動画みたいなサービスの会員になれば、なんとなんと日本サーバーからでも中国語版を全話視聴することができるのだ。アマゾンプライムでも視聴できるコンテンツではあるが、こちらは日本語吹き替え版のみで、私が求めている語学教材としての役割は半分しか果たしてもらえない。『半分』というのは、そう、私の定番の語学学習法、「まず日本語バージョンを視聴して、そのあと学ぼうとしている言語のバージョンを見る。一日一話ずつ」というあれをやるためである。ちなみに懐かし系アニメの吹き替え版を数十話分使って英語の勉強をした際には、オランダで親切なホテルスタッフさんに「英語がお上手ですね」と褒めてもらうという嬉しい体験をした(辻村の英語は「通じればいい。でもできれば丁寧に言いたい」くらいのレベルである)。効果は保証済みだ。ついでに私はメインキャラクターの吹き替え声優であるクリストファー・サバットさんのファンになった。シナリオの妙もあろうが、軽妙なジョークが粋なのである。該当アニメの台本は、直訳ではなく意訳が多く、台詞はバシバシ変わっていたが、原作の言わんとしていることをきちんと理解した翻訳者が頑張ってくれている感があり、繰り返し見るのが楽しかったのを覚えている。
好きなコンテンツを複数言語で楽しめるというのは、本当にありがたいことだ。アニメの内容以上に、いろいろな、本当にいろいろなことがわかる。このボーッとした頭ではうまく著述できないのだが、ともかく楽しいのでおすすめだ。

あと二日でこの日記もおわり、小説原稿にもめどをつけなければならない。なんとかなるかな……。

午後になったら朝の豪雨が嘘のように晴れてしまい、暑くなった。いよいよ桜の開花予報日が近い。三月中にソメイヨシノが咲いているのを見られるだろうか。

3月30日

借りていたぶんの『運命のタロット』を全部読み終わってしまった。七冊目まできたので、第一部の折り返し地点くらいだろうか。機会があったら、どういうプロットを担当さんに提出して、どういうゴーサインをもらって書いていたのかを、皆川先生に質問してみたい。時代が全然違うというか、一巻の中に起承転結がなければならないという今この時代の暗黙のルールとは、全然違うスケール感で物語が動いているのである。何がこんなに違ったのだろう。

桜はまだ咲いていない。
明日でこの日記は終わりになるが、原稿の進捗はそんなにちょうどよく「終わりました!」という感じにはなっていない。これからも数日はバリバリ頑張らなければならない日が続くだろう。休み休み走り続けなければならないマラソンのようなものだが、やっぱり小説のことを考えたり、小説を書いていると私は幸せを感じるので、この仕事をやっていていよかったなあと思う。

3月31日

昨日から若干ブルーな気分だったが、今日は午前中の作業が非常にはかどり、中国語学習もちょっとではあるが進み、午後にはエッセイ(「作家になったらどうなるか」という冊子を文学フリマ向けに作っているのだがその誤字修正をやっている)を書き、そのあたりで大切なことを忘れていたのに気づいた。ふるさと納税でもらったヒラギノフォントをインストールしていないこと? 違う!

今日はポケモンGOの復刻ミュウツーレイドではないか! しかも二日間限定の、二日目ではないか!

そんなわけで必要な原稿修正を電光石火で終わらせて、スピードスターのごとくミュウツーを探しに歩き回り始める辻村である。しかしこの『土日二日間だけのレイド』という効果は凄まじかったらしく、少し遠くにある大きめの駅前まで出張ってゆき、レイド開始の時刻にスパーンとログインすると、あにはからんやとっても強いはずのミュウツーがあっというまにお倒れになり、ゲットチャンスがやってくるのである。五年くらい前のクリスマス、友達と一緒に歌舞伎を観に行った際、FGO第一部最終章のレイドが行われていて「歌舞伎の幕間になったらすぐレイドに戻ろう」「その時までほしい素材の魔神柱(そういう敵キャラがいた)が倒れていないことを祈ろう」と言って玉三郎の芝居にとびこんでいったが、あの時のことを思い出す。田一枚、植えて立ち去る柳かな(芭蕉)ではないが、ミュウツー一匹、倒して立ち去るレイドかな、なので、通りすがりの皆さんはミュウツーを一匹ゲットしたらサッと散会してゆかれるので、遅れてゆくとミュウツーさんとタイマンバトルという大変なことになるのである。ちなみに今回のレイドの推奨挑戦人数は二十人と書かれていた。二十人いればすぐ片付くヤマでも、一人では殴り切れずに終わってしまう。スピードが命だ。ちなみに玉三郎の芝居が終わった時、めあての魔神柱は既に倒れていた。
午後から八キロくらい歩き回って、何とかミュウツーをゲット。そのうちこれをポケモンHOMEに転送しよう。

しばらく日記をつけてみてわかったのだが、辻村七子という人は毎日めちゃめちゃ楽しそうに生きているようだ。時々落ち込むこともあるのだが、大抵の場合面白い本があったりゲームがあったり映画があったり旅行があったり原稿があったりして、サッと楽しくなるのである。
これからの人生、辛いこともいろいろあるだろう。でもこの『辻村日記』を一冊だけとっておいて、ああこんな時代もあったんだなと思い出したら、それだけでもけっこう慰められると思う。そのくらい能天気で楽しそうな記録になった。
記録というものは不思議で、ふつうなら回転寿司レーンを流れてゆく他人の寿司皿のごとく、一瞬目に留まっても無関係に流れてゆくばかりなのだが、こうして残してしまうと将来的に何かの「答え合わせ」が生まれる。「将来」を照らす過去からのサーチライトが誕生してしまうのだ。本当に私は「もう二回か三回」故宮博物院を訪れることができるのだろうか? また別の春に動物園に行くだろうか? ポケモンカードは相変わらず好きだろうか? 家族の調子はどうだろうか?
わからない。わからないが、なんとか生きてゆきたい。

読んでくださった方、ありがとうございます。何らかの慰め、暇つぶし、あるいは同人誌コレクションなどの一環になれていたら、とても嬉しく光栄に思います。

 

<了>

 

初出「辻村日記」 4/27, 28 SFカーニバルにて配布

 

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