「……バレンタインに、好きな子からチョコもらったんだけど、どうすればいいかわからない」
爆弾。
たとえるならば、そんな言葉だった。
エトランジェのうららかな午後、ご来店なさった春田さまご夫妻は、ひとりの男の子をともなっていた。名前は祐也。中学二年生の男子で、俺の感覚だとおよそ宝石に興味のある年頃とは思えないのだが、物静かで思慮深そうな文系男子という雰囲気だった。
そしてご夫妻曰く、今日は祐也がエトランジェに行きたいって言ったのよね、とのことだった。
俺とリチャードは密かに視線を交わした。十四才の男の子が、両親に秘密で宝飾品をオーダーするとは思えない。何か話があってのことだろう。俺か。リチャードか。どっちだ。まあリチャードだろうが。
久しぶりに入荷した緑色のガーネットや、元気なオレンジ色のオレゴンサンストーンなどをお買い上げになった後、ご夫妻は気を利かせたのか「ちょっとそこの喫茶店でケーキを食べてくるから」と席を外した。その後すぐ、間髪いれず、祐也さんは爆弾を投げた。ちょっと相談があるんですけど、困ってるんですけど、等の前置きが全くなかったあたり、俺は中学生のリアルを感じた。彼はリアルに困っているのだ。それ以外のことが考えられなくなるくらい。
リチャードはしばらく、時間をとってから、優雅な吐息を漏らした。
「春田さまは」
「祐也でいいです。リチャードさんに『春田さま』って呼ばれると、お父さんみたいだから」
「では、祐也さま。祐也さまは困っておいでなのですか」
「………………わかんないです」
来た。これだと俺は思った。わかんない。それだ。中学の時の俺の心境をひとことで言い表すのならば『わからない』の一言がぴったりだったと思う。周りの世界と自分の世界の折合いなんて高度な言葉は頭の中に存在しなくて、ただ日々の鬱屈や喜びや悲しみを、受け入れるも受け流すもできずあわあわしていた。そんな年頃なのだ。
彼の力になれたらいいのにと、俺は勝手に盛り上がったが、同時に自分が助言できそうなことがないことに気付いて、ひとり意気消沈した。
麗しのリチャード・ラナシンハ・ドヴルピアン氏は、そうですね、と小さく請け合った。
「バレンタインにもらったチョコレートは、どんな形をしていたのですか」
「トリュフでした。手作りで、六個入ってて、すごくおいしかった。ピンクの箱だった」
「それは素敵なチョコレートですね」
「はい……」
「おいしかったですか?」
「……すっごいおいしかった。びっくりするくらいおいしかったです」
「それはよろしゅうございました」
「……はい……」
でも本命かどうかなんてわかんないし、と彼は早口に呟いた。
ああー、と俺は納得感のあまり額を叩きたくなった。わかった。わかった気がする。彼は自分にチョコレートをくれた女の子、仮にAちゃんとするが、彼女のことが好きなのだ。本気で好きなのだ。だから何か、お返しをしたいのだ。でも。
もし。
Aちゃんのチョコレートが、本命ではなく、みんなにあげているチョコだったら。
どうする。
そんな中で自分だけが、彼女にお返しをしたとしたら。
それがクラスに言いふらされたりしたら。
自意識過剰なやつとでも言われたら。
俺だったら学校に行きたくなくなるかもしれない。
でも。
はい、と俺は挙手をした。先生にさしてもらえるまでは喋らないの鉄則だ。リチャード先生はちらと俺を見た後、祐也さんに視線をやった。どうします、この男を喋らせてやりますか、とでも言いたげなぞんざいな眼差しに、祐也さんは少し笑い、どうぞと俺を促してくれた。ありがたい。
「お返し、したいと思ったんですよね」
「………………はい」
「だったら、したほうがいいと思います。どんな形でも、したほうがいいと、俺個人としては思います」
「……やっぱそうですよね」
「いや、一般論としてどうこう、ってわけじゃなくて……」
その、あの、と俺は言いよどんでから、どうにか言葉を選び出した。
「祐也さんが感じた『おいしかった』とか『嬉しかった』とか、そういう気持ちが、多分相手は知りたいと思います。俺も趣味で料理をしたりするんですけど、感想を貰えると、すっごく嬉しいんですよ。もらえないのが普通だってわかってるんですけど、それでも嬉しいですよ。だって食べた相手が『まずい』って思った可能性だってあるわけじゃないですか。それでも、言わないで黙っていてくれているのか、それとも『おいしい』って思ってくれたのか……それは、作った人間にはわからないことなので」
「……まずくなんかなかったです」
「じゃあ、やっぱり、お返し、っていうか、お返事をしたほうがいいと思いますよ。相手は安心すると思います」
「…………安心……」
俺はうんうんと頷いた。
そしてぎょっとした。今度はリチャードが挙手をしている。俺の全力でのびるつくしのような挙手ではなく、控えめに肩のあたりまであげる挙手だ。どうします、と祐也さんに視線を向けると、祐也さんはくすくすと笑いながら、どうぞと再び促してくれた。
「祐也さま、ここで少しティータイムをするのはいかがでしょう」
「…………わかりました」
「正義、構いませんか」
奇妙なことだった。リチャードが俺に許可を求めるとは。
どういうことだろう、と考えたのは一秒だった。真剣な青い眼差しに、俺はリチャードの言わんとすることを悟った。ああ。
「いいよ。構わない。どんどんやろう」
「では準備を」
「OK」
そして俺は厨房に入った。ロイヤルミルクティーは作り置きされているし、お菓子の山も選び放題だ。いつもはそのお菓子選びにちょっと時間がかかったりもするのだが、今回はその心配はない。
何しろさっき、じきじきにボスから、視線の指令が下っているのだから。
俺はお茶とお菓子の支度を整えて、エトランジェの応接間に戻った。
「お待たせいたしました。ホット・ロイヤルミルクティーと、プリン三人前でございます」
「祐也さまは卵アレルギーなどはございませんでしたね」
「ないです。たまねぎは食べれないですけど、他にはないです」
「かしこまりました」
そして俺たちは楽しいティータイムに突入した。おしゃれなカフェに入りたいけれど男友達同士では入れない、というような、現代の悲哀を感じさせるニュースが目に入ったが、なかなかどうして、こういう『おうちカフェ』的な集いもいいものだ。そこに誰かがいてくれるだけで。
全員がプリンを食べ終わるころ、リチャードは祐也さんに声をかけた。
「プリンはいかがですか、祐也さま」
「……おいしいです」
「実を申しますと、こちらのプリンはうちの中田の手作りです」
「えっ」
「へっへっへー」
俺が得意げな顔をすると、リチャードはしらっとした瞳で軽く俺を窘めた。申し訳ない。調子に乗りました。
「……中田さん、お料理得意なんですか」
「得意ってほどではないんですけど、作るのは好きですね」
「………………すごい」
「ありがとうございます」
俺が照れると、祐也さんはもじもじした。
「……バレンタインに、チョコもらったこと、ありますか」
「あー。俺の時代は、友チョコのはしりが始まったころで、お菓子の交換会みたいになってたんですけど、そういう経験でよければありますよ」
「…………男子はどうしてましたか?」
「駄菓子を買いまくって配ってましたね。さすがに女子からもらいっぱなしなのは気まずいと思ったんじゃないかな」
「駄菓子…………」
祐也さんは少し顔をしかめた。それはそうだろう。ピンクの箱に入った六個入りのトリュフのお返しが、ひとつ三十円のいかやきや十円のガムでは、多分彼の中で折合いがつかない。
ということはもう、ある意味での結論は出ているのだ。
わかんないと言いつつ、わかっているのだ。
「ああ、でも、俺はケーキ、焼いちゃいましたね」
「ケーキ?」
「上にオレンジスライスの乗ったチーズケーキで、下の方にビスケットが引いてあるやつ。甘酸っぱいのとサクサクの食感が、同時に味わえるケーキにしました」
「…………すごくおいしそうです」
「それが案外簡単なんですよ。チーズケーキ自体は、まぜて焼くだけでできちゃうし、オレンジなんかちょっと薄切りにして適当にかざるだけでキラキラしてくれるんですよ。もちろんビスケットは、スーパーで売ってるのを叩いて砕いて敷き詰めるだけ」
「…………それ、どこかのサイトに、レシピ載ってますか」
「今ここで、メモに書いちゃってもいいですか」
「え?」
「はずかしいけど自前のレシピなんですよ。だから検索するより、今ここで教える方が早いと思う」
祐也さんはこくこくと頷いた。まかせておけ。エトランジェにおいて中田正義に宝石の知識やセールストークを求めても、大変遺憾ながら役には立てないと思うのだが、お菓子のレシピやお茶のレシピだったらどんとこいである。少なくともリチャードよりは役に立てると思う。
リチャードからボールペンとメモを借りて、俺は祐也さんの前でケーキのレシピのレクチャーをした。材料はしっかり混ぜること。粉はふるうと舌触りがよくなること。焼いている途中でオーブンを開けないこと。ちょっとしたコツも忘れずに。
祐也さんはガーネットやサンストーンを目にした時と同じように、目をきらきらさせながら、俺のメモをしっかりとお財布にしまっていた。
最後に俺は親指を立てた。
「グッドラック」
「…………溶鉱炉に沈む人のサインですよね、それ」
「よくそんな映画知ってますね! 随分前だと思うんだけどなあ」
祐也さんはもじもじした後、ぺこりと俺とリチャードに頭を下げた。
「……ありがとうございます。お返し、つくってみます」
「うまくいかなくても構わないのです」
え? と俺はふりかえった。
俺と祐也さんの目の前で、リチャードが言葉を紡いでいた。青い瞳は優しいが、同時に現実を見据える厳しさも兼ね備えていた。
「はじめての料理がうまくいくとは限りません。ですがそうなったとしても、構わないのですよ。祐也さま。何か違うお返しを買って贈るという方法でも、全く構わないのです」
「…………でも、手作りのチョコもらったので、やっぱり手作りで返したいなって……ちょっと思い始めてます」
「それはとても素晴らしいことです。祐也さまのお心の望むことを、是非ともなさってくださいませ。ですが」
リチャードは言いよどんだ。言いたいことはわかる。リチャードはあまり料理が得意ではないらしい。目の前で料理をしているところを見たことがないのでよくわからないのだが、俺のつくったかんたんプリンに目を輝かせてくれるところからしても、やはりそれほど得手ではないのだろうと思う。
麗しの宝石商は、そっと自分のスーツの胸に手をやり、手のひらでおさえた。まるで心を取り出そうとするように。
「思いは、伝わります」
「…………」
「どのような形であったとしても、祐也さまが感謝の思いを伝えようとし、行動する限り、必ず思いは相手に届きます。どのような形であっても、それは変わりません」
「…………」
「ですからどうぞ、お心を強く、確かに持ってくださいませ」
「…………がんばります」
「はい。我々も、かげながら応援しております」
「応援してます!」
それから十分ほど、俺たちが文字通り『茶飲み話』を愉しんだ頃、春川夫妻は戻ってきて、リチャードの紹介した宝石を買ったり買わなかったりした末に帰っていった。
がらんとしてしまったエトランジェの中で、俺とリチャードはため息をついた。
「うまくいくといいなあ」
「現実はそう甘くありません」
「いや、本当に簡単レシピなんだって」
「あなたも私も自分自身を基準に世界を見ている。ゆえに見ている世界は同一ではないのです。そのことを肝に銘じるように。こと料理にかかわる分野では」
よろしくお願いします、と告げるリチャードの言葉は、半分つめたく、半分あたたかかった。あたたかい方がダイレクトに胸に触れた気がして、俺は少し笑った。
「ありがとう」
「は?」
「いつも『おいしい』『おいしい』って食べてくれるし、もっといろんな言葉で励ましてくれるだろ。本当に励みになってるんだよ。ありがとう。お前、人を育てる名人だよなあ」
にしし、と俺が笑うと、リチャードは少し、気まずそうに視線を伏せた後、そっぽを向いた。照れているのかもしれない。珍しい。
「……申し訳ありませんでした」
「え?」
「あなたのプリンを分け与えてしまった」
「あ……ああー!」
なるほど。祐也さんにプリンを出せという指令の前の、あのいかめしい顔つきの理由は、そういうことだったのか。俺は嗤った。
「いいよ、いいよ。『お前に捧ぐプリン』って気持ちで作ってるんだから、そのあとはもう好きにしてくれ」
「そうはいきません」
決然とした口調で、リチャ―ドは振り向いた。眼差しは真剣である。俺も居住まいを正す。
「『私に捧ぐプリン』であれば、受け取り手にも責任が発生します」
「お、おう」
「私が消費すべきものです」
「……まあ、食べてくれたら嬉しいけど」
「当然です。私のプリンですので」
「うん」
俺は照れつつ頷いた。
こんな風に誰かに『あなたの作ったものはおいしい』『あなたの作ったものが食べたい』と、意思表示してもらえるのなら。
それは究極の『おかえし』だ。
もっと頑張ろう、もっとうまくなろうという気持ちにさせてくれるし、何より嬉しい。作ってよかったという気持ちになる。お返しの本質はそれだろう。
等価交換というより、むしろ確認に近いのかもしれない。『あなたの気持ちを受け止めました』という、キャッチボールの『キャッチ』にあたる部分の意思表示だ。
だから別に、手作りのお菓子に手作りのお菓子を返す必要はない。買ってきたお菓子でも、お菓子ではなくても、手紙で、ことばでも、何でもいいのだ。
それだけで心は温まる。
相変わらず世界一位はかたいと思われる美貌の持ち主は、春の野原に咲き誇る、大小さまざまな花のオーラをよりあつめ、花冠にしたような眼差しで、そっと微笑んだ。
「また作ってください」
「……まかせとけ」
「楽しみにしています」
「おう!」
でも食べすぎにだけは気をつけてくれよ、と俺が告げると、美貌の店主は春風が髪を撫でていったような顔で、優雅に微笑んだ。食べたいだけ食べます、ということだろう。まあいい。それなら俺も俺で、改良健康レシピを考えるだけのことだ。
祐也さんのホワイトデーの成功を祈りつつ、茶器の片づけをしていると、窓の外を桜の花びらが流れていった。