Joy to the …

December 24,2021

信仰に根差したものであれ、そうでないものであれ、『クリスマス』という文化が根差した地域において、十二月二十四日の夜は特別なものだ。俺の上司はそう言った。俺もそれはわかる。

ここ日本では大切な人たちと過ごす日だ。これもわかる。

わからないのはその先だ。

「ですから今日くらいは、あなたもご家族と共にお過ごしになっては?」

「……リチャード、俺なんか、悪いことしたかな」

「何故そのようなことを? 私は一般論として」

「せっかくクリスマス・イブなのに」

「あなたにもそれなりの」

「料理の下準備もかなり頑張った」

「上司としての福利厚生を」

「プレゼントもばっちり隠してあるし」

「隠していることを暴露してどうするのです。ご家族に顔を見せて差し上げては」

「今日のプリンの出来栄えは殿堂入りものだぞ」

「………………」

口をもにゃもにゃさせながらも、リチャードはプリンの話に食いついてこなかった。かなり、本気で、言っているらしいと、この事実からよくわかる。

社宅の冬。

ここにいるのは俺とリチャードの二人、そして二匹の犬だけだ。家の中には瀟洒な雪景色とサンタの切り紙細工――作る時間がないので買ってきた――と、クリスマスのオーナメントで飾り付けてある。

ハッピークリスマスムード満天のこの世界から、リチャードは俺を蹴りだすという。

そしてこともあろうに、自分は仕事に出かけようとしている。

冗談ではない。今日この日のために中田正義が地道に積み上げてきた料理歌掃除洗濯飾りつけその他もろもろのスキルをご披露する絶好の機会を潰されてはならない。そんなのは嫌だ。そんなのはもったいない。そんなのは。

単純につらい。

俺がそう告げると、美貌の男は少しだけ、雪のように白い顔に愁いをにじませ、ため息をついた。

「……やはりこうなる」

「当たり前だろ」

「どう伝えたら、あなたをひろみさまや康弘さまのところにお返しできるのかがわからない」

「『お返し』ってなんだよ。俺はものじゃないぞ。ああ、ここのところ毎年俺がクリスマスイコールリチャードって生活をしてるのを気にしてるのか。じゃあ、二人をここに呼べばいいんじゃないかな? 俺、今から電話してみようか。ひろみは気難しいからノーって言うかもしれないけど、中田さんは来てくれるかもしれないし」

「………………」

リチャードは黙り込んだ。俺はリチャードの沈黙が好きだ。世界をまたにかける仕事人モードのリチャードは、こんな風に黙り込んだりしない。お客さまを不愉快にさせないよう、たおやかに微笑みながら、絶えず麗しい言葉を紡ぎ出している。

どこか仏頂面に見えないこともない顔で、黙っていたりするこいつを見られるのは、ある意味では俺の特権だ。

たっぷり三十秒ほど黙ってから、リチャードはしぶしぶと言った顔で、口を開いた。

「大変、おかしなことを、申し上げます」

「この期に及んでそんな前置きいらないよ。どうぞ」

「ひとりになりたいのです」

おっと。

この返しは想像していなかった。

俺は頭の中で、ここ数日、数週間、数か月のリチャードの予定表を総ざらえした。フランス。インド。韓国。中国。アメリカ。単独行動と俺を伴った商談の比率は、三対一といったところだろうか。そこまで『中田正義づけ』という感じではない。

俺は唇をむすび、むーんと唸った。どういう事情だろう?

「…………聞かない方がいい話があるなら、俺は外すけど、帰ってきていい時間も教えてくれないか。食事を温めるくらいのことはしたい」

「……時々怖くなるのです」

何が? と俺は尋ねた。

リチャードはまた、しばらく黙り込んでから、俺の顔をじっと見た。

「私はあなたを、外の世界から奪い取っているような気がしてなりません」

「……? いや、そんなことは、普通に考えて、全くないと思うけどな」

「あなたは私のビジネスパートナーにして、大切な友人でもあります。ですがクリスマスです。正義、クリスマスなのです。こういう時くらいは、私以外の誰かを大事にしてもよいのでは?」

「いや、それは俺の選択肢の中にはないな」

「正義」

「ないなあ」

「正義!」

「ない」

ないんだな、と俺は上着のポケットをひっくり返して見せた。右、左。何も入っていない。ズボンのポケットにも同じことをすると、親指の爪くらいの大きさのホコリが出てきて慌てた。それ以外は何も入っていない。

ない。

ないものを出せと言われても困る。

それはあるものをないことにしろと言われるのと同じくらいの難題だ。

そして今日はクリスマスだ。クリスマスなのである。

つまりリチャードの誕生日だ。

そんな日に『ひとりになりたい』と言っている大切な相手を、はいそうですかと置き去りにできるやつがいるなら、ぜひともお目にかかりたい。

俺がズボンのホコリを隣室のゴミ箱に捨てて戻ってくると、リチャードは呆れたような顔をして、少しだけ笑っていた。

「……人生は一度だけですよ、正義」

「そんなことはわかってるよ。だからここにいたいんだ。変なテレビ番組でも見た?」

「別に。ただ、あまりにも高い場所に連れていかれると、降りるときが怖くなるという、それだけの話です」

「ああ、それわかるよ。毎日毎日『俺は幸せだな』って思うような日が続くと、『いやいや、これはいつか絶対終わる』って、セットで考えがちになってさ、最終的にプリンを量産するんだ」

「……プリンを? なぜ?」

「何でだろうなあ」

俺は自分で自分を笑い飛ばすように、にいっと笑ってみせた。リチャードも少しだけ微笑み返してくれた。アンニュイな気持ちになっていた俺の上司が、少しずつ持ち直している。それでなくても自分の誕生日というものには、いろいろな思考がつきまといがちだ。俺の大事な相手だけが、その例外だとは思わない。

そういうものを笑い飛ばしたり、適当に飼いならしたりする役に立てるならいいと、俺は思っているし。

他の誰でもないリチャードが、俺のそういう気持ちを整理するのを、どれほど手伝ってくれたかも、よく覚えている。

「よし、じゃあリチャードの希望を容れてだな、新しいプランを提示したいんだけど」

「プラン?」

「『俺を追い出さない』を前提条件にして、今日をどう過ごすかっていうプラン。できれば動画通話で俺の家族も呼ばない」

「なぜ?」

「誰かさんが気を遣うからだよ。『宝石商のリチャードさん』の顔になっちゃうだろ」

「……その方がいくらか楽な部分もあるのですが」

「それは知ってる。少なくともそのつもりでいる。そういう時には、えー、俺を仮想客に見立ててだな、『社宅にやってきたお客さんをもてなす』お芝居を」

「くだらない。あまりにもくだらない」

「今ちょっと笑ったな? よしよし。まあ今のは冗談として、俺がしばらく隣の部屋で仕事のメールを送りまくるっていうのもありだよ。その間ひとりで好きな本でも読んでくれ」

「不許可です。世界的な祝日に、部下に労働を課す上司になった覚えはありません」

「…………じゃあ、俺がずっとそばにいることになるけど」

OK? と尋ねると、リチャードは微笑んだ。

本当はわかっている。

リチャードが言っていることも。ひとりになりたいという言葉の意味も。俺に家族に会えという言葉の意味も。

同じことを俺だって考えているのだ。

怖い。世界の宝みたいな才能と知性と美貌の持ち主を、こっそり盗んできて自分の家の小さなおしいれに閉じ込めているような気がする。おまえそれは世界の損失だし正直もったいないぞと内なる声が囁き続けている。でも俺の上司は、俺が彼を大事にすることを拒否しないでくれているのだ。黄金の宮殿ではなく俺の家のおしいれで満足してくれているように見えるのだ。それが何よりも怖い。こんなところにいないでくれよと言いたくなることがないでもない。それが単純に、自分が小さな押し入れを、黄金の宮殿に改築する気概がない、逃げ腰のスタンスの裏返しであると気づきながら。

でも。

それは俺だけが取っ組み合っている問題ではないのだと、俺の大事な友達が教えてくれた。

ヴィンスさんも、下村晴良も、谷本さんも、なんなら中田のお父さんも。

俺が時々、『悩んでいるんです』とか『苦しいことがある』とか打ち明けると、彼らは俺を笑わず、裁きもせず、ただ話を聞き、時には助言をくれる。

俺にもそういうことあるなあ、あるねえ、あるんだなあ、と。

優しく、でも真摯に。

思うにこの世界には、百パーセント自信満々なやつなんていないのだ。

今日の夜が誕生日だという、世界的な有名人だって、やることなすこと全てに何の迷いもなかったわけではないだろう。迷ったことのない人間は、人に優しくすることができないと、他でもない俺の大事な上司が言っていた。俺もそう思う。

リチャードも例外ではないだろう。

時々俺もひとりになりたくなる。全て放り出して海まで走りたくなるような衝動にかられる。あまりにも自分が手に入れた宝物が大きすぎて、尊すぎて、持っているだけでつぶれてしまいそうだから、というだけではない。むしろそれは悩みの本丸ではないのだろう。自分にはそんな資格があるのか、本当にいいのか、分不相応な贅沢をしている愚か者なんじゃないのかという気持ちで潰されそうになる。これは、もう言ってしまえば、単純な不安だ。

わからにことを案じて、ひとり呻っている。誰にでもあることだ。

そういうところは誰にも見られたくない。

それだけの話だ。

ひとりになりたい時がない人間なんていないと思う。そういう時には思う存分ひとりになればいい。そして呻ったり叫んだりして、すっきりしてから、人間の世界に戻ってくればいいのだ。

でもクリスマスだから。

今日はクリスマスだから。

できれば大事な相手の傍にいたい。

金髪の上司は長い溜息をついた後、魂までも見通すような青い瞳で、じっと俺を見た。

「……私が『OK』と言わなかったら、あなたはどうするのです?」

「そうだなあ、家の外で『きよしこの夜』か『もろびとこぞりて』を、こぶしをきかせて三十回くらい熱唱するけど、どっちがいい?」

「明らかに通報されます」

「じゃあ小声で歌う」

しゅはきませり、しゅはきませり、と俺がうきうき歌うと、リチャードは諦めたように微笑んだ。少し笑い声が聞こえる。この喉の奥から聞こえてくる声が俺はとても好きだ。

「では仕方がありません。せっかくの楽しい日に、あなたの歌を聴けないのは興ざめですので」

「あんまり調子に乗らせるなって。でも、だんだん上達してはいると思うんだよなあ。下手の横好きではあるけど」

「私はそれなりに耳が肥えている自負があります。あなたには声楽の道もあったのでは?」

「うーん…………いや、それはないな。聴くのが一番好きだよ」

「では、あなたのお気に入りの音楽をかけましょう」

「よしきた」

そして俺は、クリスマスにぴったりの音楽を選び、携帯端末用のスピーカーから軽やかに流した。サンタやトナカイのネオンサインのようにきらきらしいものではなく、古楽器で演奏されるクリスマスソング集である。しゅはきませり、の部分は、英語だと” And heaven and nature sing”である。いい詩だ。天も地も歌う。ついでに中田正義も歌う。リチャードは笑っている。

二千数十年間誕生日を祝われ続けている世界的有名人には比べるべくもないが、俺もできる限り、この上司の誕生日を祝いたい。

祝い続けたい。

できることなら、これからも。