「いけ! そこだ! 殴れ! 殴りのめせーっ!」
「ガビー、それはサッカーの応援の言葉じゃないよ……」
「いいんだよ! これはサッカーじゃなくカルチョで、しかも『カルチョ・ストーリコ』だから! いけ! ぶん殴れ!」
「あー……痛そうに、あー、あー……」
常ならば観光客や路上駐車でごったがえす、フィレンツェ歴史地区、サンタクローチェ教会前。
その日だけは、四角く区切られ、土が敷き詰められ、四方を客席で埋められていた。
十メートルかける十メートルほどのスペースの中では、赤と白のユニフォームのチームが、ボールを奪って戦っている。スペースの端と端にゴールとされるゾーンがあり、そこまでボールを運んで行けば点数獲得である。
端的に言えばカルチョ――サッカーの試合だった。
だが、反則は、ほぼ、ない。
ボールを奪うために、敵対チームの相手を殴ってもいい。蹴ってもいい。
もっとも原始的な形と呼ばれるカルチョ、それがカルチョ・ストーリコだった。
細身の茶髪の青年の隣で、小麦色の肌をもつ黒髪の青年は、拳を振り上げ赤チームを応援していた。フィレンツェの区画を四つのわけたチーム対抗戦は『おらが町』的な盛り上がりを見せている。物好きな観光客の姿も客席には幾らかあったが、明らかに青ざめており、筋骨隆々、この日のために鍛えてきましたという風情の男たちが鈍い音を立てて殴り合う姿に引いていた。とはいえフィレンツェ市民にしてみると、賛否両論あるとはいえ、一年に一度は目にする光景である。
「いけーっ! やれーっ! かっぱ! お前も応援してやれ!」
「でも、痛そうだから。みんな人間なのに、ああっ、あの傷、治るのにどのくらいかかるんだろう……」
「悪いが俺にはその理屈は分からん。あっパス! パスが通っちまったじゃねーか! 何してんだヘボチンども!」
「ヘボチンって何? 現代語……?」
「くそっ、一人倒れた。そこにいてくれ。救護班の手伝いに行ってくる」
かっぱの疑問には答えず、ガビーは脳震盪を起こしたと思われる選手の側へと駆け寄っていった。担架を担いだ救護班があらわれ、巨大な体が横倒しになったまま運ばれてゆく。だが競技場――というより格闘場のようなフィールドの中に立つ男たちも、風体だけなら似たり寄ったりである。全身に青痣を刻み、顔面からは流血し、鼻が奇妙に曲がっている。それでも立って、戦えるものは、チームのために戦い続けていた。
「まったくもう……人間ってどうしてこう……」
祈るように指をかきあわせながら、それでもかっぱは歴史的協議を見守り続けた。
「いやあ、よく働いたな! 待たせちまったか」
「別に。でもよくやるね。休暇でこっちに来てるのに、わざわざお医者さんの真似なんて」
「真似じゃねーよ。もうじき本物の医者だからな」
「そっか」
夕暮れ時のフィレンツェ旧市街を、二人はぶらぶらと歩いていた。
一時期のイタリア滞在をやめ、アメリカに帰国、医師免許取得のための勉学に励んでいたガブリエーレは、ひさかたぶりにフィレンツェの地を踏んでいた。
休みがとれるようになったのである。
ボランティア活動と大学病院研修に忙殺されていたスケジュールに、少しの余裕ができたのである。
それはつまり、医師免許の取得が近いことを意味していた。
かっぱは笑った。
「俺にとってガビーはもう、ずっと前からお医者さんみたいなものだったけど、やっぱり免許を取るとなると、いろいろ変わるもの?」
「まあ何つうか、そういう意味で一番違う部分があるっていうなら、フィレンツェを離れるって決めた時だな。あの時に俺ははらを決めたよ」
「ダンピールの研究をするために、医学の道を究めようって?」
「まあな。それでもうじき、こっちに戻ってくるはずだよ。そうなったらまたちょくちょく飯に行こうな」
「そうなったら楽しいだろうね。その時には俺の新しい担当官も紹介させて。って言っても、どんどん替わっちゃうんだけど」
「そういうもんか」
「うん、あんまり特定のダンピールと仲良くなりすぎるのは危険だって思われてるらしくて」
「まあ、お前はいいやつだからな」
「ありがと。夕飯はおごるね。でも、そうだ、その代わりに最近は、バチカンの昔の仲間がよく顔を見に来てくれるようになって……」
「バチカンの仲間?」
「うん」
土色のレンガの路を歩きながら、二人は穏やかに談笑していた。ブランド店の並ぶ大通りではなく、地元民がショートカットに用いる小路なので、人通りは少ない。それでも時々はすれ違う人間がいた。
と。
かっぱはくるりと振り向き、すれ違ったばかりの男の襟首をつかんだ。薄焼きのパニーニを食べている男で、かっぱの手がジャケットのへりにふれた拍子に、ぴょんと銀色のおさげが飛び出す。
猫の子でもつかまえるような引き留め方だった。
男はギョッとした顔で振り返り、ガブリエーレもすわスリか何かかと身構えたが、かっぱは笑うだけだった。
「イプシロン。何も言わないで通り過ぎちゃうなんて、それはないよ」
「…………どなたでしょう。私はとおりすがりの通行人でしかありませんが」
「普通の通行人はそんなこと言わないから」
かっぱは気にせず微笑み続け、ぽかんとするガブリエーレに手で促した。
「ガビー、紹介するね。こちら俺の後輩のイプシロン。プーちゃんって呼んでる。最近よく俺の顔を見に来てくれるけなげな子で……」
「私は無関係者だ! そういうことは話さなくていいと言っているのに……!」
「無関係者にしては、最近よく顔を見に来てくれてない? せっかくアメリカから俺の友達が来たんだ、君のことだって紹介させてよ。それにここを通りかかったのだって、おおかた俺がうまくやっているかどうか気にしてくれたんだろ。そうだ、ガビーと君の間にだって、縁がないわけじゃないよね」
「ああ? 俺はこのあんちゃんと知り合いなのか? いつ会った?」
「ほら、バシリスのことを覚えてる? もう何年も前の話になるけど…………ああ」
立ち止まり、改めて話し始めようとした後、かっぱは溜息をついた。急に、何も言えなくなってしまう呪いでもかけられたようだった。表情は郷愁に満ちている。
ガブリエーレの姿を、改めてまじまじと見つめた後、かっぱは呟くように告げた。
「大きくなったね、ガブリエーレ」
年を取らないダンピール。
永遠にも近い時間を生きる『なにか』は、生粋の人間の友達を、何かとても愛しい存在を眺める眼差しで見ていた。ガブリエーレは黒い髪をかき、やれやれという顔をした。
「……単純に老けたんだよ」
「人間は小さい頃は成長を『大きくなった』って言うし、どこかの年齢からは『年を取った』って言う。でも俺たちにしてみれば、それは同じことだよ。君は大きくなった」
「……悪い。正直何て言ったらいいのかわからん」
「何も言わなくていい。元気でいてくれるだけで嬉しい」
「そう辛気臭い顔をするな。俺の研究人生が順風満帆なら、いつかお前だってまた年を取り始めるかもしれないんだ。その時を楽しみにしてろ」
「…………うん。うん」
かっぱは万感の思いを込めて頷き、その隣ではイプシロンがため息をついていた。
「面白い人間もいたものだな」
「俺にしてみりゃ、こんなに豊かなフロンティアが広がってるのに、研究者が群がってこないのが不思議だよ」
「君は特殊なものを見る目に恵まれているからそういう風にも考えられるのだろう。一般的な人間はテネブレが見えないからな」
「で……あの……俺はあんたといつどこで会ってるんだ、プーちゃん?」
「『プーちゃん』は、やめろ。私をその、ふざけた名で呼んでいいのは、明らかに格上の相手だけだ。いいな」
「『プーさん』ならいいのか?」
「蜂蜜の壺で殴り殺されたいのか、一般人」
「プーちゃん、あんまり無愛想なことばっかり言うとまたバシリスに叱られるよ」
「バシリスが怒ろうが泣こうが私の知ったことか! あいつは最近会議会議でちっとも私のところに来なくなった」
「うん、それで寂しくて、プーちゃんはよく俺のところに来てくれるようになったんだよね。じゃあせっかくだし三人で夕飯にしようか」
「私は行くなんて言っていないぞ! 大体前後の文脈がめちゃくちゃだ!」
「まあまあ、寂しいのはお互いさまだから」
「私は寂しくなんかない!」
わいわいと話しながら歩いてゆく、せいぜい二十代前半にしか見えない二人の男の背中を、ガブリエーレは静かに眺めた。ガブリエーレはじき三十になろうとしていた。十年後には四十だったが、その時にも彼らの姿が変化していないであろうこともわかっていた。ヴェッキオ橋の修復工事が終わっても。カルチョ・ストーリコの試合が、あまりにも野蛮であるからと、百年後かもっと後かに中止される時にも。
ダンピールとは、時間に忘れられた生き物だからである。
五百年前の姿をとどめ続けている、旧市街と同じように。
それでも。
「……何だかんだでうまくやってるじゃねえか」
かつて自分を『友達』と呼び、今もまだそう思ってくれているであろうかっぱが、古い都の中で生き生きとしていることを、ガブリエーレは一人の友人として嬉しく思った。そして小走りに二人の後を追い、夕飯の店をスマホアプリで検索し始めた。