「うーん…………」
スリランカ、キャンディ市某所の社宅。
二階のクローゼットを前に、俺、中田正義はうなりごえをあげていた。
高校生や大学生の頃には想像だにしなかった悩みに直面したのである。
服がもう、収納に入りきらない。
捨てないと入らない。
バラエティ番組か何かで『服を買いすぎてしまう女性』というものを初めて見た時に、世の中にそんな悩みがあるのかと感動すらした俺が、二十代半ばの今、その悩みを我が事として引き受けている。これもある意味感動的ではあるが、どっちかというと現実逃避だろう。
捨てなければ。
服を捨てなければならない。
まずはクローゼットの現状を認識しよう。スーツはいい。新しいものを買った時には古いものをご近所さんに差し上げているので、それなりに回転している。私服もいい。着まわしているポロシャツやTシャツは量販店のものなので、古くなったら雑巾にしている。
問題はこれだ。
「正義、どうしたのですか」
「あ、リチャード。起きてたのか」
「先ほど朝食をいただきました。昨夜あなたが作っていたフルーツケーキに味が染みていて、大変美味でしたよ。ところで……?」
俺は口をへの字にしながら、気まずく告げた。
「民族衣装が…………大分場所をとってるんだよな……」
「よくお似合いです」
「本気で言ってるのか?」
「常日頃私を月だの太陽だのに例える達人のあなたに、私が適当な誉め言葉を使っていると?」
「前言撤回する」
民族衣装その一。メキシコのポンチョおよびチャロスーツ。いや『その一』って何だ。
いきなりファッションショーが始まってしまった。
俺のクローゼットを圧迫していたのは、間違いなく世界各国でいただいたり購入したりしてしまった民族衣装の類である。何とかかんとかスーツやシャツと同じ場所にハンガーでかけていたのだが、わりあい幅を取るものが多いだけあって、それなりの幅の収納であってもやはり圧迫感がある。何より服がちょっと可哀そうだ。
ということを寝起きのリチャード氏に打ち明けたところ、彼は真顔でこう言った。
「着てみなさい」
「えっ」
「何年もかけて買ってきたものでしょう。今ではもう着られない服もあるかもしれません。あるいは今のあなたの気持ちで『着る気になれない』と思う服もあるのでは? それで捨てる、捨てないを判断するのが、適切な方策かと」
「……確かに……」
そんなわけでファッションショーである。もういっそBGMにイッツァスモールワールドでも流したい気分だ。
美しい茶色とピンクと水色のグラデーションを持つポンチョの下は、乗馬に適した分厚いチャロスーツである。白いシャツの下に長ズボン、上に丈の短い長そでのジャケットというスーツだ。だがただの乗馬服ではない。上にも下にも細かな刺繡が施されている、十九世紀から続く正装だ。これにソンブレロと呼ばれる巨大な帽子をかぶったら、いつでも歌を歌いながら町を練り歩けるが、さすがにあれは飛行機の手荷物に入りそうになかったのでいただけなかった。そう、これはいただきものなのだ。メキシコで親しくなった取引先のおばあさまの家が、代々続く民族衣装の仕立て店をしていて、俺のためにスーツを作ってくださったのだ。あの時は本当に嬉しかった。
「これは、捨てられないな」
「同意します。ジャケットだけであれば宴席に呼ばれた時にでも活用可能なのでは?」
「あ、そういえばそうだな。そういう『着こなし』は考えたことがなかったよ。民族衣装ってそういう風に使っても、何ていうか、不謹慎にはならないものかな」
「着物の文化を考えてみるのはいかがですか?」
そうか。俺は少し考える。上だけ着物、あるいは下だけ袴。
アリな気がする。
もちろん俺は呉服店の人の気持ちになって考えることはできないので、それはちょっと、という気持ちになる人がいるかもしれない可能性はある。大いにある。
でもクローゼットにしまいっぱなしにしてしまう服を着たい、という気持ちも、ちょっと大事にしてやりたい。
俺はポンチョとチャロスーツを再びジッパーつきのビニール袋にしまい、ひとまずクローゼットの脇にあるソファの上に置いた。リチャードはいつの間にか丸椅子を持ってきて、足を組みながら俺のショーを楽しみにしている。
「次は?」
民族衣装その二。ドイツのレーダーホーゼン。膝小僧の見える革製の吊りパンツだ。バイエルンを訪れた時のいただきものである。取引先の社長さんが「うちの国に来たのなら」と猛烈に作ることを薦めてくださり、お金まで出してもらってしまったので、なんだかんだ手に入れてしまった品物だ。彼は本当はリチャードにこの革ズボンを送りたかったのだろうが、間に入った俺でもそれなりに満足はしてもらえたらしい。誰かにあげたいのはやまやまなのだが、完全に俺の尻にフィットする作りであるため履き心地が抜群で、一応これもキープ。リチャードは「どことなくあどけない風情がよいですね」と褒めてくれた。
民族衣装その三。タイのスア・プララチャターン。舌を噛みそうな名前だが、シルクサテンの詰襟ジャケットと、クラシックな長ズボンのスーツである。どことなく中国の風を感じるデザインだ。ピーターコーン・フェスティバルというお祭りの時期に訪れたところ、中田さんこれ絶対似合うからと、現地で意気投合した友人にすすめられるまま作ってしまった。つややかなシルクゆえに何となく『王子』ぽいキラキラ感があり、普段着には向かないのだが、もしかしたら今後の人生で一度くらい「王子さまっぽい」自分を演出する機会があるかもしれない。キープ。リチャードは「エレガント」と一言褒めてくれた。エレガントの塊のような男に言われると照れる。
民族衣装その四。サルディーニャの祭りの際に着用される民族衣装。毛皮のベストに半ズボン。もちろんフェイクの毛皮であるがとてもモフモフしていて気持ちがいい。スリランカではあまり出番はないが、日本に戻った時には使えるかもしれない。キープ。
民族衣装その五。ニュージーランドのハカで着用する腰みの。ほぼパン一という感じだが、これは全然場所を取らないのでいいだろう。キープ。
民族衣装その六。スペインの闘牛衣装。
その七。ケニアのマサイ族の鮮やかなローブと首飾り。
その八。シャウルさんがくれたサウジアラビアのシュマッグとトーブ。頭にかぶる布とくるぶしまである長い白い服だ。
その九。その十。その十一。その十二。
俺はだんだん息切れしてきた。
リチャードは座ったままニコニコしている。
「まだあるようですよ」
「リチャード……俺気付いたんだけど」
「はい」
「これ、全部……捨てられないよ。思い出があるし、今手に入れようと思っても、手に入らないものも多いんじゃないかな」
「私もそのように思います。いかがでしょう、私のクローゼットにはまだ若干の空きがありますので、そちらに移動するというのは?」
「ええ……それは……領域侵犯じゃないのか」
「リースということで」
珍しい。この男がそんなことを言うとは。
一か月あたりのリース料、つまり貸し賃はいくらなんだ、と俺が尋ねると。
「時々それを着て過ごしてみるというのは?」
「え?」
「あなたの民族衣装姿を見るのは目の保養です。気分転換になります」
「あ、つまり、時々虫干しするついでに、これを着て動き回れってことか?」
「そうとも言います」
「お前にうまみがないんじゃないかな」
「あなたは私が新しい服を着ているのを見るたび『目が幸せになるなあ』と言っているのでは? 何故私が同じ事を思わないとお考えに?」
「いや、まあ…………それは、服を着てるのがお前だからなあ……」
リチャードは「解せない」とでも言いたげな能面フェイスになった後、少し拗ねた顔を作って見せた。ほだされろということだ。大体こういう時には俺に分のいい申し出をしてくれている時なので、受け入れざるを得ない。そういうことが続くと気疲れしないかとまあさんに少し心配されたこともあるが、今のところそういうことはない。ただただリチャードの優しさにほっこりし、俺もお返しをするから待っていろよという気持ちになるだけだ。
「わかった。じゃあ悪いけど、場所を借りる」
「よろこんで」
そして俺は最後の民族衣装から着替えようとしたが、もし、という声がかかった。
「え?」
「今日はそれでお過ごしになっては?」
「ああ……確かに、今日はこれでもいいかもしれないな。天気もちょうどいいし」
「動きにくければおやめになればよいかと」
「いや、大丈夫。今日はスリーウィラーで買い出しに行く予定もないしな」
最後の民族衣装は、浴衣。京都で手に入れた藍染の見事なものだ。日本の伝統衣装である。
俺はにっこり笑った。
「そういえばさ、この浴衣は誰かさんともお揃いだったよな」
これは京都で作ってもらったものだ。リチャードと二人、藍染問屋を訪問し、ラナシンハジュエリーのノベルティづくりの相談に行った時に注文した。
「あれってまだあるのか?」
「ございますよ」
リチャードは澄ました顔で笑った。ありがたい。俺はにっこり笑った。
「そのうちまた着てるところが見たいな。天橋立の花火大会に行った時みたいな気持ちになれるから」
「ここスリランカでも?」
「『一緒に浴衣を着て歩いたなあ』って思い出がリバイバルするところがいいんだよ」
「左様でございますか」
そう。そうなのだ。
どの民族衣装にしても、たっぷりと思い出がしみ込んでいる。ご当地の人々が愛し、慈しみ、大事に受け継いできた衣装だからという理由、だけではない。それを一緒に見て、楽しんでくれた人がいるからだ。
伝統衣装というのはどこか宝石に似ている。
一度手に入れてしまうと、そう簡単に捨てることなどできない。
「…………正義? 何故笑っているのです?」
「いや、やっぱり俺はこれからも、何だかんだ理由をつけて民族衣装を買いそうだなって……好きなんだな、きっと」
「今頃気づいたのですか?」
涼やかな声で窘められ、俺は苦笑した。
外の庭からジローとサブローの声がする。そろそろ朝の散歩の時間ですよね行きますよねと催促しているのだ。昨日焼いたフルーツケーキもおいしく食べてもらえたようだし。
『捨てられない男』属性がついたものの、中田正義は今日も愉快に過ごしている。