辻村日記2(文学フリマ配布冊子)

May 23,2024

四月二十一日

時間がないのに「時間がある」と錯覚することが、ままある。悪い癖である。この冊子もその『錯覚』の産物で、これを書いている現在は四月二十二日である。五月の文学フリマまでちょうど一か月というタイミングだ。新刊の原稿も完成、印刷所への入稿もじきに終わるだろう。そんな折。
もう一冊イケるんじゃないか? と思ってしまったのである。
馬鹿、よせ、イケると思ってもイケない時もあるじゃないか、考え直せ、ほかいろいろな心の声が聞こえたが、本づくりの面白さを知ってしまった辻村の耳には届かない。そも、思い出してしまったのである。
去年の秋、青木祐子先生(『ヴィクトリアン・ローズテーラー』『これは経費で落ちません!』の大先生である)から「文学フリマはとても面白いのでいいですよ」とお誘いをいただいた際、「じゃあこんな本が出したいな!」と夢見ていた本の中には、読書記録があったはずだ。
私は本が好きだ。本が好きすぎて、おそらく本に関係ない仕事に就いたら業務に支障が出る、それはまずいだろう、と思ったのが、作家を目指した理由の一つでもある。もちろん「なりたいから! 書きたいから!」という気持ちの方が強かったのは言うまでもない。
ざっくりでいいから、読書記録本を出してみるのはどうか? SFカーニバルの時に発行した『辻村日記』は、毎日コツコツつけるタイプのものであったからあまり苦しまずに書くことができた。あれと同じ形式で綴るのは? それで今後、本当にガッツリしたものを出すかどうか、決めよう!

そういう理由でこの無配を書いている。
よろしければお付き合いいただきたい。

と、いう文章を書いたのが四月下旬であるのだが、この加筆パートをつけている五月中旬、私はこの日記が全然読書記録にならなかったことを知っている。途中からそのコンセプトがとんでしまって「わあ日記楽しい!」というテンションになってしまったからである。大丈夫か辻村。しかしこれもある意味「完成形をあまり考えないで書く」という、作家にはやや不慣れな日記という形態のつづりもののダイナミズム、醍醐味であると思って頂ければ幸いである。
これからの数日分は「かたちだけの読書記録」みたいな形態で日記が続くが、徐々にただの日記に変化してゆく。まあいいかという広いお気持ちで、どうぞご了承願いたい。

四月二十二日
雨の日。昨日までは初夏のように暑かったが、今日は春らしくひんやりしている。これが花冷えか。
午後、久々にヘアサロンに行くので、手提げに本をいろいろ入れてゆく。
いきつけの店なので、美容師さんは私がやたらと本を読むことを知っているし、なんなら彼女も読書家なので「あの本は面白かった!」という話題で盛り上がれるのがありがたい。カットアンドカラーで四時間ほどかかり、その間に

『影が行く ホラーSF傑作選』
著:フィリップ・K・ディック等、翻訳:中村融
『台北プライベートアイ』
著:紀蔚然、翻訳:舩山むつみ

二冊を読了。プライベートアイの方は台湾旅行以降から読み続けているので「やっと」という感じだ。現代台湾の風俗描写を楽しみながら読めるハードボイルド探偵物語だった。『影が行く』は短編集なのだがとにかくラインナップが豪華で、ディックをはじめフリッツ・ライバー(『時間跳躍猫ガミッチ』の人)、キース・ロバーツ(エリザベス一世暗殺からの歴史改変SF『パヴァーヌ』の人)と、おいおいどうなってんだよウニイウクラ丼かと思ってたらウニイクラサーモンマグロあぶりユッケ丼かよみたいな状態なのである。編者の中村融さんも言うまでもない大御所で、つまり猛烈な数の翻訳文学に触れている人である。その人が選んだ「これだろ」というホラーSFが分厚い文庫本になっていて、もう全部面白い上に非常に読みごたえがあった。私は『帰ってきた六人』『唾の樹』が気に入った。ホラーにもいろいろな種類があるが、私はどちらかと言うと「くるぞくるぞ」タイプより、最後に背筋がゾッとする、心の中がひんやりするタイプが好きであるらしい。幸せな気持ちのまま宇宙人の培養食糧になっちゃうのって嫌だな~。

四月二十三日
くもり。
昨夜は途中まで見ていたアニメ『葬送のフリーレン』を継続視聴した。ようやく十六話くらいまで来た。超長命なエルフの少女フリーレンと、彼女を取り巻く人生百年の人間たちの交流が描かれる旅物語である。端正な風景描写や静謐な雰囲気に彩られた、とても美しい世界が印象的だ。何となく昔のファンタジー映画『アリーテ姫』を思い出す。
フリーレンの世界観風に言うと、人生の中で人々は必ず「おいてゆく」「おいてゆかれる」のどちらかに分けられるが、私たちはある時はフリーレンのように愛しい人々に「おいてゆかれ」、ある時はヒンメルやハイターたちのように友人たちを「おいてゆく」。どちらの側にも感情移入して視聴することができる、非常によくできたつくりの物語である。そして情緒がある。好きだ。一期を全部みても物語がきれいに終わるわけではないという話は聞いているので、今から二期はあるのだろうかとやきもきしている。是非あってほしい。

近場のドックハウス的な所で犬をひたすら撫でた。可愛らしかった。

四月二十四~二十六日
騙し騙しやっていたが限界である。ずっと微熱がある。この前の土日から、通常の体温より一度前後高い状態がずっと続いているのだ。そのためボーっとしている状態を強いられ、全く仕事にならない。コロナやインフルエンザなどであったらSFカーニバル参加を辞退しなければならないので検査もしてもらったが、いずれでもなく、また風邪でもないらしい。はて?
「仕事のし過ぎよ。スイッチの切り方がわからなくなってるのよ」と、いつもお世話になっている内科の女性の先生(通称「美女」)に喝破され、ぐうの音も出ない。確かに四月は同人誌の作業のつめ行程とウェブ連載のあれこれ(諸事情で追加の短編を一本書いたりもした)があり確かに疲れていた。でもSFカーニバルなのに! こんなに楽しみにしてきたのに! 楽しみにしてくださっている方もいっぱいいるのに! 絶対行きたい! そのために寝ろ辻村! という生活を続ける。ともかく熱があるのですぐ寝てしまうのだ。寝て起きて寝て起きて寝て起きて病院で点滴をうってもらって寝て起きたらSFカーニバルの前日になっており、体温も空気を読んでくれたのか、ようやく六度五分まで下がってくれた。ありがたい……。美女に処方してもらった漢方薬も効いたのであろう。様々な人に助けられて生きている辻村である。感謝。

四月二十七日
SFカーニバル初日。一年ぶりに訪れる代官山蔦屋書店は相変わらずオシャレスポットである。近くに動物病院かドッグランがあるとかで、犬を連れた人がとても多い。つまり無料でワンチャンがいっぱい見られてしまうのだ! ワンチャン! ワンチャンがいっぱい! ワンチャンを見せてくれる人たち、本当にありがとう……。

それはさておき個人サイン会である。十一時開始なので十時には到着したかったのだがちょっと遅れてしまい、あわわー! と慌てながら到着したら、なんと仲村つばき先生が待っていてくださった!
仲村つばき先生とは、ご存じ『廃墟の片隅で春を歌え』から始まる廃墟シリーズの作者で、とにかく私が大好きな小説をお書きになるスーパー兼業小説家でいらっしゃるのだが、とてもきさくで一緒にお酒を飲みに行ったりごはんを食べたりしてくださる。そしてあろうことか今回は私のサイン会にも来てくださった! 神さまかな……? 私の到着前からサイン会のブースがどのような状況になっているのかメールで教えてくださったり現地では差し入れをくださったり、あと書店の近所のお店のクロワッサンが神がかり的においしかった話などを聞かせてくださった。そ、そんなにおいしかっただとう!? 私も食べたい!(と思っているうちにこの日は終わってしまった)。

個人サイン会に、私は二人の助っ人を呼んでいた。一人は去年のSFカーニバルでもお世話になり、また文学フリマでもお世話になるつもりで満々のMちゃん(かわいいフェルトの帽子がトレードマークだが今回は天気が崩れるかもしれなかったので断念したそうだ)、もう一人は某社の担当編集さんである。最初、蔦屋書店さんは「いっぱい人員を準備したのでお手伝いの方は大丈夫だと思いますよ」と言ってくれたのだが、蓋を開けたらMちゃんと編集さんが大活躍だったので、やっぱり応援をお願いして本当によかった。「一冊も読んだことないんですけど」とソムリエを依頼されたお客さまに「じゃあこれ!」と『あいのかたち』をすすめてくれたMちゃんありがとう! あなたは望みうる最高の助っ人だ! 今度しゃぶしゃぶに行こうね!(後日の加筆パート ちゃんと行けた) 編集さんもいつもありがとうございます。ゲラを返します。
ありがたいことにサイン会は昨年に引き続き盛況で、たくさんの読者の方にお会いできてめちゃめちゃ嬉しい時間となった。体調も何とかもっている。ありがたい。

そしてこの日は、サイン会の後にもう一つお楽しみがあった。先輩作家の先生おふたりランチに誘って頂いていたのだ! ラッキー! 仲村先生は既にお帰りになってしまっていたのだが、できることならお誘いしたかった。次があるといいな。
面白い話を山ほど聞いたが、今ここで描くべきではない(新作こういうの考えてるんだ! とか)話ばかりだったので、そういうことは書かない。そうだ、自分の担当さんがめちゃめちゃいい人で、作家を通して自己実現をしようなんて考えていないところがとてもいいよねというような、「担当自慢」のような話題になったことだけは書いておく。あれな人ももちろん存在するが、同じようにいい人もいっぱいいる業界である。「書きたいものを書かせよう」と担当さんに思ってもらえているところを、今とてもありがたく思っている。いろんな話は楽しいばかりではなく「こんなにつらいことが……」と思ってしまうようなトピックもあったが、みんな言わずもがな、自分の仕事を楽しいと思っているところがいっぱい伝わってきて、とてもありがたく面白く、じんわりしみるおでんのような味のミーティングだった。食べたのはオムライスだったが(なんと鯛めしにあんかけのかかったオムライスだったのだよ!)

 

四月二十八日
SFカーニバル二日目
この日の日記を書くのはとても難しい。後になってから思い出したことをたくさん加筆しているが、それでもまだ追いつく気がしない。あまりにも面白くて濃くて嬉しくて楽しい日だったのだ。

それにしても暑い! この日は前日とはうってかわって真夏日だった。二十八度だか二十九度だかまで気温があがるという予報で空からは日光がギラギラ差してくるのである。昨日仲村先生に自慢もとい布教されたクロワッサンを食べる。コーヒーもつけちゃう! それで千円という「オー・代官山……」というような価格ではあったが、本当においしかった!

今日はSFカーニバルの中でもかなりのメインイベントが控えている。アンソロジー「少女小説とSF」のトークショーおよび、合同サイン会である。
手始めにアンソロジーのメンバーを列挙しよう。

新井素子。
皆川ゆか。
若木未生。
津守時生。
ひかわ玲子。
榎木洋子。
雪乃紗衣。
紅玉いづき。
最後に私、辻村七子。

この並びのヤバさエグさとんでもなさを理解していただける方と握手がしたい。これは大変なことなのである。どちらかというとSF好きというより少女小説好きの方にささるメンバーかなとは思うのだが、ともかく凄い人たちなのである。
新井素子先生は、「あたし」という一人称で綴られるSF作品を描いた、SF世界のみならず女性の(つまり人間の)小説世界のパイオニアである。今なお鮮やかな名作『星へゆく船』を読んでみてほしい。私はラストの畳み方でぶんなぐられたような気がした。皆川ゆか先生は、前作の辻村日記で私が全巻読破した『運命のタロット』シリーズの作者の先生で、ガンダム系のノベライズでもおなじみである。しかし私にとっては運タロの方だ。あの運命論、「運命は変えられない」VS「運命は変えられる」陣営の、原子爆弾あり量子物理学ありという熾烈な戦いをティーンズハートでお描きになった鉄人である。個人的にはお会いできることが夢のようで何かもう死にそうだった。若木未生先生は、『グラスハート』がネットフリックスで豪華ドラマ化されることでも話題だが、『ハイスクール・オーラバスター』で長編学園異能バトルものを上梓なさった「こういうの読みたかった!」をくれる大先生だ。津守時生先生。『喪神の碑』シリーズ、『カラワンギ・サーガ』シリーズ、いずれも高校時代の私を支えてくれたカッコイイ男や女たちが宇宙狭しと駆けまわるアクションロマンSFの書き手だ。ひかわ玲子先生。超つよつよ女バディ二人の『女戦士エフェラ&ジリオラ』(二人ともめっちゃ強いので誰に助けてもらう必要もない、心優しいおねーちゃんたちの旅路の物語)の作者であり、翻訳家でもある碩学。榎木洋子先生。ドラゴンと魔法使いの存在する世界観で展開してゆくシビアな『リダーロイス』シリーズが存在したからこそ、私はコバルト文庫に投稿したのだ(学校の先輩に「辻村さんはピンとこないかもしれないけれど、コバルトに投稿するのも合っているんじゃないかと思う。こういうのもあってね……」と紹介してくれた作品で、私が作品に触れたのはその紹介後であった)。雪乃紗衣先生、紅玉いづき先生は、これを読んでくださっている方には紹介の必要すらないのではないかと思う。『彩雲国物語』だし、『ミミズクと夜の王』ですよね。
そんな中に私が混じるのである。
なんじゃこりゃ。夢か。
と、アンソロジー『少女小説とSF』に寄稿する作品を書いている時からずっと思い続け、本が出た時にも思い続け、サイン会当日にも「これ夢けっこう長いな」みたいな気分でいたので、頭の中のどこかはずっとパニックだったのだと思う。

アンソロジストを務めてくださった少女小説研究家の嵯峨景子先生と、先述の若木先生によるトークショーもめちゃめちゃ面白く、特にひかわ玲子先生の「サイエンスフィクションはテクノロジーだけじゃなくてソーシャルサイエンスのものでもあるよね」という論が最高だったのだが、そこは今回の本題ではないのでここで触れるだけにする。すごくいいトークショーであったのだが、事前にチケットを買っていた人にしか視ることができず、事後閲覧販売がなかったことが残念だ。

さて、サイン会である。若干のハプニング(某先生のダイナミック電車乗り間違い事件など)はありつつ始まったが、その準備で、みんなそれぞれ担当の色ペンを決めようという話になった。サイン面がカラフルになったら、きっと喜んでもらえるよねと言い出したのは誰だったっけ。紅玉先生だったかな。途中でインクが切れるんじゃない? と誰かが心配したら、あれこれお手伝いをしてくださっていた青木祐子先生がカラーペンセットを買いに走ってくれて、「これは経費で落ちます!」「落ちますよ!」と口々に言われていたのが可愛らしかった。星海社の丸茂さんがきちんとレシートを回収していたので、事実ペンは経費で落ちたと思う。

二部に渡るサイン会の後、私たちはみんなでお茶会に行った。エッお茶? レジェンドの皆さまと? 容赦なく夢の時間は続く。しかもどうやらこの夢は醒めずに現実世界に持って行けるようだ。いや現実なのだから「持って行く」という表現は正しくないかもしれないのだが、ともかくこれは私の現実の記憶になりそうだ。信じがたい。
榎木洋子先生が「抹茶ソーダフロート」というせめせめのドリンク(不思議な味がしたらしい)を頼んだ他、大体皆さまハーブティーやソーダを頼んで「乾杯」となる。私の右となりは新井素子先生、左隣は嵯峨景子先生、おむかいに紅玉いづき先生。「作家さん同士が写真をあげているのは読者に席順を当てさせようとしてるのだろうか」と呟いていた方がいた気がするので、ぐるっと一周するかたちで席順を紹介すると、辻村、新井素子先生、ひかわ玲子先生、若木未生先生、榎木洋子先生、皆川ゆか先生、紅玉いづき先生、星海社編集の丸茂さん、嵯峨先生という並びであった。書き忘れていたが雪乃先生と津守先生は未出席である(でもお二人とも都合が合わなかっただけでお元気ですよ、と丸茂さんが教えてくれてほっとした)。

すごい話が連続して、全てを覚えていることはできなかったが、面白い話題が目白押しだった。昔の編集部には悪筆(原稿は基本手書きだった時代)の作家の原稿を読み解くための「××番(例 田中番)」のような編集が各部署に存在したとか、みんなが名前を知っている角川スニーカー文庫のすごい作品が投稿原稿としてやってきた時、この作品だけがワープロ原稿で手描きではなかったので読みやすかったとか(レジェンドの方々はその時の審査員だったのだ)。あと何だっけ、何だっけ、思い出せない。いろいろな話を聞いたのだが、その後の濃さでとんでしまったのかもしれない。
それにしても面白かったのは新井素子先生の名言である。
「飛行機が落ちたら人は死ぬけど、原稿が落ちても人は死なない!」
至言である。これは五月のおわりに加筆しているパートなので猶更そう思うのかもしれないが、この日記の後半はほとんど体調を崩してウンウン唸っている内容だ。原稿を落としても……というのは、何もいたずらに落とせと言っているということではない。生きるか死ぬかみたいな局面になった時に「命を燃やしてでも!」と頑張る必要はないんだよと告げる、人間的な人間として生きようというあたたかい言葉なのである。そしてそれが回りまわって、その人間の作家としての命もまた生かす。

豪快に、でも優しく、大輪のひまわりのように微笑んでくれる新井素子先生に、辻村は恥を降り捨てて質問した。
先生、ずっと書き続けるには、どうしたらいいんでしょうか。

私は何も、ずっと作家でいたいけれどいられない気がする、的な強迫観念にかられたことなどない。好きだから書いているというスタイルでずっとやってきて、本当に楽しいからこれからもずっと書かせてもらえたらいいなと思っている能天気系作家である。それでも。
いつか仕事がなくなったらどうしよう、書けなくなったらどうしよう、という、まさに杞憂、みたいな悩みが、一抹も存在しないわけではない。というかそういうことを考えてしまうのもまた、作家の職業病であると思う。
新井先生はにっこり笑い、(この微笑みを見た時に思ったのだが、きっと先生は数多くの作家から同じ質問を受けてこられたのであろう)

「辻村さんは小説を書くのが好きでしょ?」
私は「はい」と応えた。すると先生は、
「だったら大丈夫だよ!」
そう言ってポンと、背中を叩いてくださった。
ひまわりのような、太陽のような笑顔で……。

私はこれで生きていける……。本当に生きていけると心から思った……。

また、若い世代の作家をたくさん見ていらっしゃるという別の先生から聞かされた「すごく安いところといっぱい仕事をしても、食えないのに仕事の量だけが増えてゆくことが、最近の世情で増えてきたかもしれない。自分はこれをライティング・プアと呼んでいる」という話も、ぞっとするような内容だったが確かにと思った。これは何も小説を書いている人だけに当てはまることだけではなく、昨今SNSで話題になった「コミカライズの原稿料が安すぎる」というような問題とも繋がるだろう。もっというなら、この国で働いている人のほとんどは、不当に安い賃金で働かされているのではないか。つらい。何とかしたい。私にできることを考えなければならない。

しかし、このお茶会、とても素晴らしかった。
何がって、みんなとても楽しそうだったことだ。
どの先生もみんな、笑っている瞬間があった。
もちろん私も本当に楽しかった……。

『いい思い出』の代表格みたいなメモリーが海馬に刻まれてしまった。

作家として生きることを、自分として生きること、としている人たちが、こんなにもたくさんいて、素晴らしい背中を見せてくれている。
あまりにもかっこいいぜ!

四月二十九~三十日
倦怠感リターンズ。一回休み。何もできぬ。わけではない。これは「体力を回復させる」という大切なフェーズなのであって、「何もできぬ」ではない。ちゃんと「何かをしている」。ウーバーイーツでインドカレーも頼んじゃったぞ! 元気を蓄える。

五月一日
体力がようやく少し戻ってきたかなという感じである。歩いていつもお世話になっているカフェまで行ける喜び! うお~! ゲラをする→した。近いうちに宅急便で送るから、待っていてくれ編集さん。

今日は藤村シシン先生の『秘密の古代ギリシャ』を受け取れる日なのでとても嬉しい。嬉しかったのでもう読んでしまった。面白かったなー。
藤村シシン先生とは、ツイッター(X)でも有名な古代ギリシャ研究家で、研究者とは思われないほどの分野横断的なフットワークの軽さ、メディア出演の巧みさ、何よりも博物学者的な知識とペリクレス的雄弁術によってめちゃめちゃご活躍中の方である。私は数年前、お友達の漫画家のひだかなみ先生に紹介されて知ったのだが(シシン先生のご友人である黒川さんという魔術研究家とセットで面白い人たちというご紹介だった。魔術研究家。いい響きである)それ以来ずっと精力的に活動されていて、ご本も執筆されているし、ゲームさんぽにも出演しているし、NHKのカルチャー講座はいつもオンライン受講生でいっぱいだ。何より彼女の、「自分の好きなジャンルをたくさんの人に知ってもらうためには苦労をいとわない! そしてどうせ苦労をするなら楽しくしたい!」という姿勢に、いつも感動させられている。

今回の本は古代ギリシャの魔術を広く論じたもので、私は宝石魔術の部分に興味があって購入したのだが、なんとたくさんの宝石がカラー図版つきで紹介されていてとても嬉しかった! そしてそれ以外の部分も壮絶なボリュームになっており、一冊でこんなにいっぱい情報をいただいてしまっていいのかなという『魔術書』になっていた。そうこれは魔術書である。読んでいるうちに「魔術って何だろう?」と考えさせられ、一冊まるごと読んだ時には、魔術の概念が頭の中で豊かに枝分かれし花開いているであろう本だ。楽しい読み物であると同時に、いろんな小説、漫画、シナリオを書く人の助けになってくれる名著であろう。また世界にいい本が生まれちゃったなー(神さま目線か)。

五月二日
風邪をひいた。コロナでもインフルでもない確認OK。しかし、ちょっと待って……二日前にも倦怠感を感じていたし、何となればカーニバルの前にも体調を崩していましたよね……? どうしちゃったんですか辻村のボディパーツ……。いつもはもっとハッスルハッスル(死語)なのにね……?
どうやら三月~四月の無理が今に出てきたようだ。今後はもっとちゃんと休もう。反省。

こういう時には何もできないので、観念してどうぶつの森を久々に開いている。ブームになったのはいわゆるステイホーム時代の二〇二一年くらいだったはずだが、どっこいそれからもしばらく続けているので、そこまで久しぶりという感じでもない。今は一度島を更地にして作り直しているところだ。そして大事なことなのだが、この島には貯金が四百万円、ならぬ四百万ベルしかない。
えっ、これゲームの話でしょ? お金ってそのくらいあれば十分なんじゃないの……? と思われた方、これは『どうぶつの森』である。いや説明になってねーしと思われた方大丈夫、説明する。
これは島ひとつのインフラストラクチャーを、プレイヤーが一人で何とかしなければならないゲームなのである。
上下水道や電気などのシビアな部分はカットされている。そもそもどうぶつの森はそこまでの細部を操作するものではない。小さな子どもでも遊べるようになっているからね。ただし、島はほぼ『更地』で、本当になんにもない。木が生えているくらいである。『階段』や『橋』の設置もまた、島民の仕事。ありとあらゆる『家具類』の設置ももまた、プレイヤーに一任。ちなみにこの『家具類』カテゴリには、椅子テーブルから鳥居、観光望遠鏡、パラボラアンテナ、太陽光発電パネルなど、「明らかに家具ってレベルじゃねーだろ!」というものまで幅広く分類されている。何でこんなもの個人の裁量で買えるんだ。島民ってすごい。しかし。
これらすべての移設、購入は、島民による実費である。
橋を一本かけるあるいは階段をひとつ設置するなら十万ベル単位のお金がとぶ。「ちょっと間違えたな、別のところに橋をかけ直そう」という場合にも、撤去費用がかかる。島に同居しているどうぶつたちの可愛いおうちを、あっちへ退けたりこっちへ動かしたりする際にも、もちろんベルがとぶ。万で。家具購入費用にいたっては、島中を飾り付けるのである、百万ベルくらい軽く吹き飛んでしまう。
わかっていただけただろうか、『どうぶつの森』とは、対象年齢が低い割に、必要になるお金の額が幅広いゲームなのである。きつねの露天商が売っているくじを買うなら五百ベルで済むが、家の改築のローンは最終的には二百四十万ベルに達する。そして金をかけない島づくりとは、ほぼ「なんにもない島に住み続ける」ことを意味するのだ。
私は島づくりが好きだ。島づくりをするユーチューバーさんなんかの動画を見るくらいには好きだ。マイデザインと呼ばれる自分で一からドットうちをする絵には興味がないが、どういう風に家具をレイアウトすればいい感じに見えるかなどの工夫には大いに興味がある。島そのものが巨大な図書館になっている島は作った。川沿いに読書カフェのようなスペースの連なるブックカフェの島も作った。これは三つ目の島になる。本にはあまり関係のない島を作りたいと思っているのだが、まあ何にせよ家具はいっぱい必要だ。もちろん金も。物入りなゲームである。
金がない。金が必要だ。

そんなわけでトレーダー辻村、爆誕である。

ご存じの方もいらっしゃるだろうが、トレーダーとはカブのやりとりをして金を稼ぐ人間のことである。株?!どうぶつの森って株式会社とか存在するの?! とびっくりした方、どうぶつの森に株式会社はありません。ことはもうちょっとシンプルだ。これも説明する。
どうぶつの森の『カブ』とは、実際の株とはちょっと(かなり)異なるものである。必要になるのが金であることは変わらないが、手に入るのは有価証券ではなく野菜のカブ。日曜の午前中にだけ島に忽然と出現する、カブ売りのウリちゃんというかわいいイノシシのキャラクターから購入するのだ。一カブ九〇ベルから一一〇ベル程度でランダムに推移し(推移するのである! 売り物は同じカブなのに)買おうと思ったら何十万カブでも買うことができる。ウリちゃんあんた、小さな体のどこにそんな数のカブを背負っているんだ……。

えっ待って待って、これだとただカブを買うだけの話になって、売るパートの話がなくない? と思われたであろう。それも説明する。ただややこしい。
どうぶつの森にはいずれの島にも『たぬき商店』という可愛いこだぬきの経営している店があり、その店ではカブの買い取りも行っている。ただしここからが重要になるのだが、カブの値段が推移するように、カブの買い取り価格も推移するのである。一カブ百ベルで買い取ってもらえることもあれば、六十五ベルまで下がってしまうこともある(大体このくらいが底値だ)。しかし運が良ければ、六百ベル代にまで高騰することもある。一カブ百ベルで買っていたとしても、一カブ六百ベルになるのならば単純計算で六倍、何十万カブも買っていたらその分の莫大なもうけが発生する計算である。
もうお分かりだと思うが、カブの取引とは、この「安く買いまくり、高く売りまくる」のプロセスを示している。これこそが、どうぶつの森における最大にして、ほぼ唯一の大規模金策である。

しかし、しかしである。六百ベルところか百五十ベルまでのプチ高騰ですら、週に一度も起こらないこともある。ざらにある。めちゃめちゃある。しかしカブは有価証券ではなくなまものの野菜なので、一週間たつと腐ってしまう。腐ったカブの値打ちはゼロ、もちろん売買もできない。
どうするか。
ここで必要になるのが通信だ。そう、インターネットの力を借りるのである。
世界には「どうぶつの森掲示板」のような場所があり、そこにアクセスすると「うちのたぬき商店、今日のカブの買い取り額が五〇〇ベルです! アクセスパスワードは〇〇〇〇 売却する方は金鉱石を一つ置いて行ってください」というような物々交換的書き込みを見つけられるだろう。インターネットの波をこえてその島のたぬき商店にたどりつき、ポケットいっぱいに詰め込んだカブ(ちなみにポケットパンパンのカブは四十万カブ)を売り抜くことができれば、おめでとう、あなたは億万長者、にはなれないが七百万ベル長者くらいにはなっているはずだ。もちろんお礼の金鉱石やマイル旅行券を忘れてはいけない。お互いに気持ちのいい取引が大切だ。
これを繰り返す。それだけだ。
一度につき、運がよければ一千万ベルくらいは稼げるはずである。

そんな感じの金策を駆使し、島は多少のお金を稼いだ。他の島民のどうぶつたちは素知らぬ顔でひなたぼっこをしたり散歩をしたりしている。お前たちの快適な生活はこのたった一人のプレイヤーにかかっているというのに……! いきりたちそうになるが、でもいいんだ、と思い返す。いいんだ。どうぶつたちはほのぼのと、おだやかに、何百万ベルなんてお金の単位は気にせずに、静かに暮らしていてほしい。このおだやかな日々こそがどうぶつの森の本質なのだ。時々金勘定で殺伐とするけど、まあそういうこともあった方が、ネッ!(……)

五月三日
風邪が継続中である。テスターの検査によってインフルでもコロナでもないことがわかっているのがせめてもの救いだが、日記を書くかゲームをするかくらいしかできることがないのがつらいところである。
文学フリマまであと十六日。意外と早い。
この日記は十二日あたりまでつけられることならつけようと思っているのだが、どちらの締め切りにせよ実感をもって「もうちょっとだな」と思えるくらいの距離にあるのが物騒である。私の体調よ、早く何とかなってくれ。

家のベランダに出て、外を見ながらこれをうっている。いつもならこんなことはしないのだが外出が億劫なので、椅子をひっぱりだして外で作業をしているのだ。これがなかなかいい。涼しい空気が入ってくるし、家の中で自分の風邪菌がうようよしている空気を呼吸するよりリラックスできる。幸か不幸か食欲は消えていないので、昼ごはんのことを考えなければならない。今は午前十時半くらいである。

文学フリマまであと十六日って、いや、半月あるから、考え方によってはけっこうあるな。
あまり焦らずいこう。

少し起きていられるようになったのでコーヒーを飲み、近所でお祭りをやっているので屋台にチュロスを買いに行って、食べながら『ダンジョン飯』を鑑賞。コミックスは四巻くらいまで読んだのだがそこで止まっているので、アニメ化に乗じて触れようと思っていた。面白い! でもこれ、かなりダンジョンズ・アンド・ドラゴンズ(TRPG)の要素が入っている気がする。ラスボスにレッドドラゴンを置くあたりとか、パーティの概念とか。
なろう系は言うにおよばずフリーレン等、今の日本のアニメ界隈は一大ファンタジーブームの感があるが、いずれも『下地』の要素が別にある感じがするのが不思議だ。一から全部説明してくれるのではなく、「これはああいう感じですよ、他の作品で履修したでしょ」「レベルの概念があるんですよ、知ってますよね」というように。学生時代に映画館の大画面で『指輪物語』を観ている私のような世代ならば暗黙の了解のもとサクサク話が運んで楽ちんだが、その後の世代の人たちはこれで大丈夫なんだろうか。大丈夫? ついてきてる? ついてきているのだとは思う。だって受けているから。今のところはの話である。
本当に「みんなわかってるよね」というノリのお話をじゃんじゃか続けてしまって大丈夫なのだろうか。フィクションを作る人間として、一抹の不安はよぎる。でも『ダンジョン飯』はとても楽しい。六話まで来た。まだファリンは救出されていない。主人公であるライオスが、どことなく浮世離れしているのに、きちんとパーティをまとめているところが好感度大。別に聖人君子じゃなくたって人の気持ちがあまりわからなくったって、きちんと自分の仕事をしてくれるリーダーは、よいリーダーだ。

五月四日
だんだん回復基調にある。まだだるいし微熱はあるし仕事という感じにはなれないのだが、それでも起き上がって外に軽食を買いに行くくらいのことはできる。何と家の近所に忽然と軽食の屋台が出現したので徒歩三十秒である。ちなみに一発変換は「杜甫さん十秒」だった。どうしたんだ中国の詩聖よ。十秒で詩でも読むんだろうか。彼の代名詞「国破れて山河在り」の一発変換はちなみに「三が蟻」だった。もうだめだ。杜甫さんが墓から蘇って私を殴りにくるかもしれないからこのくらいにしよう。
しかし、何でいきなりチュロスの屋台が? そう思われた方もいるかもしれない。而してお答えしよう。
祭りだからだ。
大きな神社で祭礼が行われている。いわゆる例大祭というやつだ。朝から晩までトンテテトトテンという太鼓の音がずっと聞こえてくる(騒音というほどではない)。屋台も出ている。いつもは近隣住民しかいない道に、浴衣姿のちびっこやその保護者の方々があふれ出て、何だか微笑ましい気分になる三日間である。チュロスもおいしかった。

その後家に戻り、何もできないなりに『ダンジョン飯』を見続ける。ファリンが復活した! しかしこれはとても嫌な予感がする……。彼女が復活する場面で、この物語の『飯』というテーマがファリン救出・蘇生とものすごいレベルで合致して鳥肌がたった。
ものを食うことは異物を肉体に取り込むことで、その瞬間自分自身がある意味で異界と(部分的にでも)一体化する行為だ。しかしその異界・異物を、人間はどこまで許容できるのか? 最初のうちは「イヤッ!」とモンスター食を拒否していたエルフのマルシルも、おいしければ……という感じで現状を徐々に許容しているが、これが最終的に行きつくところは人肉食かもしれない。それは許されるのか? 許されないのか? 許されないとしたら何故? 逆に私たちは何故牛や豚を食べることを自分自身に許容しているのか?
この物語は生命倫理を問う物語だったのかもしれない。そのうちクローン問題とか出てきたりしますか……? 視聴を継続する。漫画はひとまず我慢するが、アニメが原作を全部やってくれる前に終わってしまって次クールということになったらそこから買うと思う。ああダンジョン飯、ダンジョン飯(三上哲さんの声で)。十三話くらいまで見た。

日暮れ時、おみこしがソープランドに突撃しているのを見た。ソイヤ! ソイヤ! と言いながらおみこしで店に突っ込む素振りをし、邪気を払うデモンストレーションだ。ソープランドが自治体にお金を払ってのことだろう。面妖な光景であった。

五月五日
こどもの日。これはもう回復したと言っても差支えがなかろう! というくらい体が回復したので、朝の散歩を再開する。さわやかな五月の風と青空! とても気持ちがいい。まだちょっとだるいが、このくらいなら許容範囲だろう。夜もよく眠れたし、いいスタートだ。

いつからまともに仕事ができていないのかもうわからないので、今日はとりあえず現状を整理する。五月十日ごろに更新されるであろう『宝石の歌』という短編は既にゲラの修正も終わらせて納品してあるので大丈夫だと思う。これを書いている時にはまだ更新されていないのだが、発刊は十九日になるわけだしOK! とはいえそれでも、ちょっとこういう情報の開示をするのはひやひやするな。

文学フリマの際に使うテーブルクロスをそろそろ発注しなければならない。スペースというものはただの裸テーブルであるため、装飾もかねたクロスが必要になるのだ。だが前面の部分に何を印刷してもらうのか非常に迷っている。私が配置された場所は「端席」と呼ばれる「テーブル群の端っこ」であるため、テーブルクロスもかなり目に入りやすい広告になってくれるだろう。だがそんな場所を見て歩いていたら周りの人にぶつかってしまうから凝視する時間はない。微妙な広告地だ。どうしよう、ユーチューブのサムネイルみたいなものがいいのかな……でもそれは私の本の雰囲気に合わないし、そんなにピンポイントで伝えられる情報で効果的な広告になるかどうか……どうしよう……。ともかく考える。

それからやっと回復したので、今回の文学フリマに一緒に参加してくれる『南十字』さんにも連絡をとる。このお店は最近流行の(という表現は何だかいやな感じだが、ともかく最近わりと話題になることが多い)チェーン店ではない、独立独歩路線の小さな本屋さんで、とてもいいところなので私も時々お邪魔している。私が文学フリマに出ると決めた時、よければご一緒しませんかと誘ったらご快諾くださったので、今回のフリマに一緒に来てくださったのだ。申し込み者が私なのでブース名は『辻村小説公園』だが、隣に南十字さんがいてくれるので、気分的には『辻村小説公園 featuring 南十字』という感じである。そもそもお店の名前がいい。南十字星は導きの星だ。
お店は三人の店主で成り立っており、明朗快活でそよ風のようにさわやかなMさん、懐深い碩学の哲人Nさん、軽妙洒脱でパソコン得手なKさんという、まるきりキャラクターは違うが揃って心の優しいお三方が経営している(三人の出会いに関する話をいつか聞きたいのだがまだ聞けずにいる)。店の中心となる選書は人権・参政権・ジェンダー・哲学など、わりあい『狭く濃く』という感じだが、初見のお客さんにも親しんでもらえるよう、それぞれのテーマのいわゆる入門書も欠かしていないところがとてもいい。子ども向けの絵本がたくさんあるところもいい。そしてZINEと呼ばれる文芸系同人誌。私はここで安達茉莉子さんの『世界に放り込まれた』という名エッセイを得、コロナの時代を描いた短編コピー本(ホチキスでとめてあるのにISBNがある!)バリー・ユアグローの『ボッティッチェリ』を手に入れた。ちなみに翻訳はご存じ柴田元幸先生。うおー。世界にこんな本屋さんがあるなんて最高だ。

そして午後。今日一番の驚愕をする。なんと母が! 文字と言えば近代ロンドンの都市計画にまつわる論文の類しか読んでこなかった(と娘は思っている)私の母が! レイ・ブラッドベリの『ウは宇宙船のウ』を読んでいるではないか! しかも遠くの図書館から取り寄せてもらって! 「『霧笛』という短編が読みたかったのよ」というので詳しく話を聞いてみると、何でも娘がSFなんてものを書いているので、生まれてこのかた全然触れてこなかったSFなるものの短編集に何度か触れ、好きな人好きじゃない人を今まで峻別していたのだという。凄い。知らなかった。その結果、ブラッドベリという人の書くものであれば好きなことがわかったそうだ。そして書評を読んだ結果『霧笛』という短編が気になったため、収録書を検索、近所の図書館にはなかったので取り寄せてもらったのだという。凄い(二回目)。挑み方がガチである。娘は泣きそうだ。こういうところの行動力は本当に母だなという感じがする。彼女は何でもかんでもやってやろうというタイプではないが、じっくり考えてから決断するタイプで、一度やると決めたことは最後まで成し遂げる。
いい本に触れられて本当にによかったね、母よ……。本が好きな一人の人間として、とても嬉しく思う。
とても素敵なお話だから読みなさいと言われ(同じ理屈で彼女は何度も私に新聞の写真をスマホで送ってくれる)その場で私も『霧笛』を読むことになった。とても有名な短編なので、まだ読んだことがない方がいたら『ウは宇宙船のウ』を取り寄せて読んでみてほしいのだが、ある深い霧の夜に二人の灯台守が遭遇する不思議を描いた名作だ。抒情的で切ない読み味が残る。霧。破壊。取り返しのつかないこと。夢。幻。愛。いろいろな要素が入っている。
何回読んでも、いいものはいい。そして読むたび何か新しいものをくれる。思いがけず、こういう新しい思い出のよりどころになってくれるようなことも起こる。
本当にありがたいことだ。

読み終わってしみじみしていると、仲間はずれにされて寂しそうな父がやってきて「僕も読むぞ!」とはりきったので彼に本を渡す。文庫本で十五ページくらいの短編なので、私ほど読むのが早くない父でもスルスル読めるはずだ。すると母が微笑んで、私に言った。
「こういう作品なら、SFと言っても、わかるし、好きなのよ。でも機械が出てきたりするのもSFなんでしょう? SFって、つまり何なの?」
グッと言葉に詰まる。
凄まじい質問だ。
SFとは、つまり何なのか。この疑問については、私はひかわ玲子先生の言葉の助けを借りたいと思う。ひかわ先生とは先述の通りSFカーニバルで一緒に合同サイン会に参加させていただいた大先輩の作家先生である。可愛いネコちゃんのポストカードにサインまでいただいてしまった。先生は『少女小説とSF』のトークショーの最後に、こういうお話をなさっていた。
『現代の日本におけるSF作品は、ともするとテクノロジー・サイエンスに偏重し、ソーシャル・サイエンスの分野をなおざりにしがちだったのではないか』と。
テクノロジー・サイエンスとソーシャル・サイエンス。
テクノロジー・サイエンスというのは割合わかりやすい話だと思う。クローン人間やらロボットやら宇宙船やら、そういう『科学技術の粋』的な要素、これらのことを差しているのだろう。
しかし、ソーシャル・サイエンスとは?
母の好きなブラッドベリが扱っているのはこれらのことであろう。ブラッドベリは別に「こういう技術があった結果こういうことが起こっているんですよ」という話を書いているわけではない。どちらかというと「もし××が〇〇だったらどうなるだろうか?」というイフの物語を書いている。彼の代表作である長編『華氏751度』は本の所持が禁じられた未来の物語で、本を『焼く』のが仕事のファイヤーファイターが主人公だが、本人は「テレビによる文化の破壊を描いたつもりだ」とどこかで語っているらしい。テクノロジーと完全に無縁な作品というわけではないが、どちらかというとこれは技術の進化ではなく、人間の変化や人間の性質を描いた作品で、言うまでもなくSFである。
ひかわ先生のお話を完全に理解できた自信はないのだが、「テクノロジー系のSFももちろんSFだけど、社会的なSFも勿論SFだよね」と、ざっくりそういうことを、先生は仰りたかったのではないか。
そして母が『こういうのなら読める』と言ったものは、おそらくソーシャル・サイエンス分野の作品なのだ。
ああー。という気持ちになった。
私は別段、母や父の好みに合わせて小説を書いているわけではない。でも人の子ではあるので、もし彼や彼女に楽しんでもらえるものが書けたら嬉しいとも思う。
私はこの先、何か、母が『こういうのなら読める』と言ってくれるようなSFを書けるだろうか。彼女が好きだという、あんまり明るすぎるものじゃなくて、しみじみと切なくしみるような何かを。
何か、そのうち、いつか……プロットが浮かびますように……。

それから、私が一番好きなブラッドベリの短編集は『とうに夜半を過ぎて』なので、今度母にプレゼントしようと思う。気に入ってくれるかどうかはわからないが、はまっている今なら喜んでもらえるのではないかと思う。

五月六日
もう何をやってもあかんわ。

五月七日
あまりにも疲れ果てた状態である。何もできない。ので何もしない。こういう時には酒でも飲んで、もといチョコでも食べてひっくり返っていればいいんだ!(キャプテンハーロックの声で) 何かしようとしても、どうせうまくいかないからね……。でも前々からの予定通り友達と一緒にしゃぶしゃぶには行く! 友達というのは、そう、Mちゃんだ。
めちゃめちゃ楽しかったのだがそれを綴る体力がないため「『成功したオタク』こと『ソンドク』という韓国語の『ク』の由来は、日本語の『オタク』なんだよ」という彼女が教えてくれたトリビアを綴ることで幕とさせていただく。
とにかく体力・気力が枯渇している。

五月八日
あらゆる意味であかんわ。

五月九日
もうほんとだめぽ。

五月十日
少し回復した感がある。この数日間は『何もできない』パートだったため、本当に何もできなかったのだが、現段階でそれを脱しているかどうか未だ定かではない。
この『何もできないパート』は、私の人生の中の何パーセントかを確実に占めている。待っているとそのうちひょっこり顔を出す、再会があまり嬉しくない悪友のようなものだ。嫌だなと思ってもこいつも私の一部なのでどうしようもないため、まあ何とか付き合ってゆくことを考えている。そういう時は何もしないでひっくりかえって「そういえば最近忙しかったな」とか、そういうことを考える時間にすることにしている。そう、こいつはちょっと無理をした時にやってくる悪友なのだ。いつもほどほどで満足している人間は常に勝者であり続けるであろうって、マキァヴェッリも言っているのにね。でも頑張りたくなってしまう性分だから仕方ないんだ。そしてマキアヴェッリ、お前もそうだっただろ。知ってるんだぞ私は。君の伝記も著作もかなり読んだからね。言うは易しってことかもしれない。

昨日からどうしても食べたかったので、ファミレスでオムライスを食べる。食べたいと思うものがありそれを食べに行き味わうというこの工程に、無限の『決断』と『実行』がまとわりついていることを思う。悪友が来ている時にはこの『決断』と『実行』の一つ一つが邪悪なクイズ番組の「問題!」の如く黒々と浮かび上がってきて、全てにいちいち答えてゆくことを要求してくる。もうめっちゃ疲れるが仕方がない。そういう時なのだ。
だからそういう時には、何もしないでいるに限る。
限るのだが、とりあえず文学フリマのためのおしながきき(ウェブ用の画像)は作り上げた。よくやったぞ自分。ありがとうクリップスタジオ。

オムライスのおかげか、段々気分がよくなってきて、夜は楽しみにしていた岸辺露伴の新作ドラマを最初から最後まで見ることができた。やっぱりこのシリーズは脚本がすごくよくて、お金のかけかたもよくて、「こういうのが見たい」のお手本みたいで、原作も好きな人間としてはありがたい。凄いことをやっている。

五月十一日
快晴である。気分もそれほど悪くない。昨日のドラマで少し夜更かしをしたので(就寝が午後十時三十分をまわった場合それは「夜更かし」である)眠いが、まあ何とかなるだろう。
昨日はリチャードの『再開のインコンパラブル』の新しいパートの公開もあって、多少は盛りだくさんの金曜日だった。
突然だがこの日記は明日十二日で終了する。印刷所の締め切りがあるためだ。そうでないと無配として頒布するのに間に合わない。というか間に合うのか。まだ穴がボコボコあいている状態なのに。これといった穴がなくこの日記が配れていたら「ああ、この人は十一日に頑張ったんだな」と思ってやってほしい。これから頑張るのだが。→かなり頑張ったぞ! 巨大な穴はないはずだ!明日はこれを印刷して赤ペン先生をするだろう。
でも明日は「母の日」でもある。何とかいろいろ考えなければ。

五月十二日
母の日のプレゼントを入手するために、探検隊はアマゾンの奥地に向かった……。いや別にAmazonを利用したわけではない。行ったのは伊勢丹である。母にばかりギフトをするのでは父が拗ねるかもしれないので、彼の好物のおまんじゅうもついでに購入した。
しかし体長が本調子ではなかったことがここでも出てきてしまい、デパ地下で貧血を起こしベンチで「無限考える人」みたいなポーズをとるはめになった。いや考える人はあのポーズでずっとかたまっているのだからわざわざ「無限」とつける必要はない? そんなことはいい。ともかく車椅子を持ってきてもらってタクシー乗り場まで押してもらうという、横浜のマルイで体験した以来のご迷惑をかけてしまった。申し訳ねえ……。
こういう時に動くとろくなことがないのだが、もうちょっと動かなければならない。母へのギフトはいたまないものなのだが、父のおまんじゅうは足が速いのである。サンタクロースはクリスマスに体長が悪くなってしまったらどうするんだろう。さすがにクリスマスを延期することはできまい。頑張るんだろうな。よく考えるとクリスマスは世界中のたった一人にだけは人権侵害で非人間的な祭礼なのかもしれない。

プレゼント作戦は無事に終了したが、その後の体調も散々で、総合的に考えると今日はなかなか「やっちまったな」デーであった。自分が親であったら自分の子どもにここまで無理をしてプレゼントなんか買いに行ってほしくはない。もっと前々から準備をしておけばこんなことにはならなかったはずだ。計画性が重要である。
でも「とうに夜半を過ぎて」、喜んでもらえてよかったな。

五月十三日
えっ十二日に終わるって前ページに書いてあったじゃん……? と思われた方、これはおまけページみたいなものである。お許し願いたい。現在しめきりの時間の二時間前だ。誤字脱字も見つけられる限りは拾った。その後に気付いたのである。
あと何枚か書いても! この印刷所さんの料金プランであれば! 料金が変わらない!
ありがたい話である。というわけでもう少し書けるなという思いで書いている。なんという貧乏性! でも文字なんてなんぼあってもいいですからね。

母の日のギフトのお礼、なのかどうなのか定かではないが、母がホットケーキを焼いてくれた。おなかに優しい。ありがとう母よ。さっそく「とうに~」を読み始めてくれたらしいが「好みのものを見つけて読んでいるわ。好みじゃないのは読まないかも」と、いつもの彼女らしいことを言ってくれて、ちょっとほっとする。

前回の辻村日記(公式サイト「辻村小説公園」に掲載済み)をご覧になっている方は、今回と前回のトーンの違いにびっくりしたかもしれない。あっちの日記は最後にふりかえると「この人は楽しそうに生きてるな~!」という感じだったのだが、今回は「この人不健康に生きてるな~!」という感じである。でも両方合わせてこの辻村七子という生命体は存在しているのである。こんな感じなんだな、と適当にご理解いただけたら幸いである。そしてこんな人間でも、何とかかんとか生きていけているらしい、ということをお伝えしたい。何とかなるのだ。

そんな感じで、今回の日記は幕としたい。
御通読ありがとうございました! ところで文フリはいかがでしたか? 目当てのご本は手に入りましたか? めっちゃ面白い本に出会ったりしましたか? もし「これいいよ!」というご本があったら、こっそり辻村にも教えてください。買います。
それではまたどこかで。

 

(初出 「辻村日記2」 文学フリマ東京(2024/5/19)無料配布冊子)

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