ガーデンカフェにて

March 13,2020

「カモミールティーです。どうぞ」 そう言って、彼は私にお茶を差し出した。白いマグカップ。白いソーサー。タイル壁の上に木のお盆と、寸胴な円錐形のガラスのティーポット。周囲に広がる、緑の庭の風景。オレンジの果実。金色の日差し。 緑のエプロンをつけた甘い顔立ちのお兄さんは、癖のある黒い髪をオールバックのひっつめにしている。髪の結われた襟元で、黒い毛が少しはねていた。   何がどうしてこうなったのか、正直よく覚えていない。 ただ今日の私は、会社から帰宅するのが嫌だった。とても嫌だった。 帰宅したらそれで『今日』を終わりにしなければならない。 帰宅したら今日という日が定まってしまう。寝ざめが最悪で少し遅刻して、うまくやれない先輩にネチネチと小言を言われて、遠くから星を眺めるような気持ちで追いかけていた芸能人が結婚したというニュースが入ってきて、夕方に後輩から「連絡したと思ってたんですけど」

新時代

May 14,2019

 美しさにも種類があるという。  宝石の話に限れば、簡単なことだ。石の世界は切って分けられる。色で、硬度で、結晶の形で、産出地で、誰かの好みで分類できる。鉱物の分類の視線でわければ、エメラルドとアクアマリンが、ルビーとサファイアが仲間同士になったりする。  ではこれは? 今俺が目の前にしている、これはどうだろう。  どういう種類の美しさになるのだろう。 「これは……」 「『これは』?」 「なんだか……うまく言えないんですけど……あ、そうだ」  青の時代みたいだと。  俺が口にすると、彼はすぼめた唇に手を当てて笑った。いたずらが成功した子どもみたいな顔である。お行儀が悪いと、俺のバイト先の上司がいたら言うだろう。だか今日この部屋、俺が陣取っているどこかのホテルの上のほうにあるだだっ広い部屋には、俺の他にもう一人しかいない。  ソファの上に寝っ転がって、テーブルの上の液晶端末をフリックしていた

ハーキマーダイヤモンドの夢

December 23,2018

 四月八日。今日は特別な日だ。なんと、なんと、俺の大好きな谷本晶子さんの誕生日である。それほど親密ではない相手から贈り物をしてもあまり違和感のないスペシャルな日だ。去年の俺が彼女の誕生日を知った時には既に五月になっていた。時すでに遅し。しかし今年こそは何か渡したいと思って、かねてから準備していた今日この日である。具体的に言うと去年の冬ごろから準備していた。 「たっ、た、たた谷本さん! よかったら、これを、うけとって、ほしいんだどうぞこれ! 誕生日おめでとう!」 「わあぁ、正義くんありがとう」  小学生の調理実習のにんじんの如くブツ切りにされた俺の声は、あまり気にせず、谷本さんは中央図書館前のベンチで、俺の贈り物を受け取ってくれた。キャラメル箱のような小さな紙箱で、中には透明なニス紙で包まれた小さなものが入っている。中身を確認した彼女が、わっと小さく声をあげた。嬉しそうな声だ。もう俺の方が嬉

ムーンケーキの季節

August 24,2018

「中秋なのにこの眺め、新鮮ですね!」  あははは、と笑いながら、快活な女性のお客さまはエトランジェを後にした。広東語、つまり香港の言葉と日本語が一対一くらいの割合で入り混じる会話は、俺にはよくわからず、ほぼリチャードが一対一で接客にむかっていたが、時々俺の方を見てニコッと笑ってくださる、歯切れのよいお客さまだった。ハスキーボイスで、ワンレングスのアッシュブラウンの髪はつやつや、体はモデルさんのようにすらりと細長い。  彼女が見ていたのは、ムーンストーンのジュエリーだった。  ルース、つまりまだ身に着けられる形にはなっていない裸石を扱うことが比較的多いエトランジェには珍しく、リングやブローチ、ネックレスの形になった作品を、彼女は一つ一つ吟味して、最終的にブローチをお買い上げになっていった。あらかじめ彼女が、そういうものを見たいと、リチャードにオーダーしていたらしい。  青い燐光を放つ、ミルキ

宝石商リチャード氏webSS

May 14,2018

お祝いに寄す  特別な記念日のプレゼントとしてジュエリーを贈る方は、案外多い。  まだ数週間のアルバイト経験ではあるが、ジュエリーを渡しながらプロポーズという案件にも、既に一件、遭遇している。店主曰く、それほど珍しいことでもないらしい。店員が少なく、ひとめを気にする必要のない店の雰囲気も手伝っているのだろう。もしかしたらジュエリーを受け取って、店外でプロポーズという流れになったお客さまもいるのかもしれない。店員の俺が目にしているお祝いなんてほんの一部であるはずだ。プロポーズだけではなく、付き合い始めて五周年のお祝い、初デート記念、結婚十周年など、お祝いの理由はさまざまだった。  でも一番目立つのは、やはり誕生日だ。祝いやすい記念日という感じがする。  しかし。 「なあリチャード、かなりひねくれたことを言ってる気はするんだけどさ」 「ええ」 「……どうして誕生日って、お祝いをするんだろうな」

マグナ・キヴィタスSS

February 19,2018

 2018年2月20日に『マグナ・キヴィタス 人形博士と機械少年』(集英社オレンジ文庫)が発売されます。  今回はタイミングがあわなかったこともあり、特典SSがないリリースになったため、何か特典があったらいいな……新しい本だから発売前に検索しても中身のことはわからないだろうし、なんとなく「こんな雰囲気ですよ」とつかめるものがあれば……  と思った結果、twitterで35ツイートほどかけて、短い小説を更新しました。せっかくなのでblogにまとめます。  本編を読む前でも、読んだ後でも、読もうかどうか迷っている時でも、特にこれというネタバレはありません。  ご笑納ください。 ——- Prelude for Civitas  ようこそキヴィタスへ!  僕の名前はハビ・アンブロシア・ハーミーズ。ハビでいいよ。見ての通り何の変哲もないサイボーグだけど……え? 映ってない? 

年末特番(録画編)

February 19,2018

2017年12月31日に、twitter上で公開した「絶対に笑ってはいけない宝石商」をblogにまとめました。本編や特典小説とはやや異なる、ふざけたテンションで、いろいろな人がリチャード氏と正義くんを笑わせようと頑張っています。大したネタバレはないと思いますが、シリーズ五巻までの登場人物を含みます。 『宝石商リチャード氏の謎鑑定 転生のタンザナイト』発売前の、年の瀬のわいわいした雰囲気を一緒に楽しんでいただければ幸いです。 言うまでもありませんが、本blogも辻村もこのおふざけも、年末名物の超有名バラエティ番組とは、何の関係もございません。ご寛恕ください。 ——— 1 「本年もやってまいりました『絶対に笑ってはいけない宝石商』、司会はわたくし、4巻まで名前の判明しない謎の男Sです。どうぞよろしく。本ゲームはゲストを笑わせることを目的としたバラエティの様式

宝石商リチャード氏webSS

December 24,2017

空港にて  こんにちは。  相席よろしいですか。込み合ってきたみたいで。  そんなに長居はしません。コーヒー一杯で立ち去ります。  どうも。  さすがにこの時期になると、この地方も少しは冷えますね。あなたもここで乗り換えですか? ああ、ドイツからの帰り道ですか。羨ましい。お住まいがシンガポールなら、もう目と鼻の先ですね。  それ、アドベントカレンダーですか。  お嬢さんへのおみやげなんですね。おいくつですか? 八才。可愛い盛りでしょうね。ははは。このメーカーは知ってますよ。チョコレートの老舗だ。いいお店を選びましたね。全部食べられる日がきっと待ち遠しくなります。  え?  これが何だか、ご存じないんですか?  ご存じないのに買ったんですか。  ああ、なるほど。確かにこれは『箱詰めのお菓子』ですし、『お子さまのクリスマスのおみやげにぴったり』って薦められてもおかしくない。間違っていませんよ。

宝石商リチャード氏SS再録4

October 20,2017

※本作は、「宝石商リチャード氏の謎鑑定 天使のアクアマリン」特典SSです。「天使のアクアマリン」本編の内容に微妙にかかわる内容ですが、あくまで微妙なかかわりです。閲覧の際はご了承ください。 空漠のセレスタイト    これを持って行かないか、と。  美貌の宝石商は、石を手に問いかけてきた。携えているのは、まるきりじゃがいものような石だ。かさかさしていて、まるで飾り気がない。子どもの握りこぶしくらいはある。 「取引先がおまけにつけてくれました。ほとんど押し付けられてしまったのですが」  そんなことを言われても。これを持っていってどうするんだと俺が尋ねると、たとえば贈り物にするとか、とリチャードは言った。谷本さんのことを考えているのだろう。確かに鉱物岩石を愛する彼女なら、こういう素朴な石も好きだとは思うが。 「いや……この前買ったアクアマリンも、まだ保留になってるわけだし」  俺の方にも、個人的

宝石商リチャード氏SS再録3

July 8,2017

エトランジェの日常 ―クンツ博士とモルガン―  銀座の宝石店エトランジェの土曜日は長い。とりわけ今日は長かった。十一時の開店から三時まで、ひきもきらずお客さまがご来店になられて、俺もリチャードも昼を食べ損ねてしまった。三時半になってやっと、コンビニのおにぎりなんか食べている始末である。四時になったらまたお客さまがご来店の予定だ。まだまだ先は長い。  赤いソファに腰掛け、野菜たっぷりのおしゃれなサンドイッチを平らげたばかり男に、なあ、と俺は声をかけた。 「どうして石って、みんな最後に『ナイト』がつくんだ?」  俺の質問の意味を、イギリス人のリチャード氏は、少し考えていたようだった。端麗な沈思黙考の顔になり、口の中をロイヤルミルクティーですっきりさせた後、ああ、と彼は頷いた。 「あなたが言っているのは、アレキサンドライトやアラゴナイト、クンツァイトなどの、名称の話ですか」 「そうそう! それだ