『先日、日本へ、いきまシタ』
「ええっ」
エンリーケ・ワビサビこと、日本語の生徒にしてセッション相手の一言に、下村晴良は驚いた。二人の回線は無料動画通話アプリでつながっている。晴良の所在地はスペインで、エンリーケはイギリスだった。
「なんで日本に」
『所用、いえ、社用、ウム、ナニカ、そのようなモノです』
「所用か社用……」
でも一瞬の滞在だった、とエンリーケは苦笑いし、ひゅっと手を飛行機のように動かしておどけた。お手軽な日本語教室を始めた時に比べると、語学の上達はもとより、彼の表情が随分明るくなっていることに、晴良は気づいていた。
「一瞬でも初めての日本だったんだろ。どうだった?」
『…モウチョット滞在したかったデスネ』
「そりゃあそうだ! あー、日本か。俺も懐かしいよ。コンビニに入ったら何でもある空間って、こっちで考えると夢みたいだからなあ」
『コンビニには、入りまシタ。清潔? キレイ? でした』
「だろ、だろ。日本のコンビニはきれいなんだよ。もうスペインの基準だと異常なくらい」
『お菓子がイロイロありましたので、家族のおみやげに、しまシタ』
「グッドチョイス、エンリーケ。日本のお菓子はおいしいから」
『グラシアス』
それでデスネ、とエンリーケは言葉を続けた。
『あなたにもおみやげがあるのデス』
「…………えっ? 俺に?」
『ハイ。これデス』
と。
エンリーケが画面外から取り出したのは。
小さなプラスチックのフィギュアだった。
親指ほどのサイズの、『東京タワー』である。
透明なパーツでできているため、水晶のタワーのようだった。
「……えええーっ。なんだそれ。エンリーケ、東京タワー行ったの?」
『イエ、行けませんでシタ。本当に、チョットだけの滞在だったのです。トランスファーだったので。しかし、なんというのか…………オモチャがつめこまれた謎めいた球体、三百エンから五百エンで、運試しのできるボックス……』
「ガチャガチャ!」
『がちゃがちゃ』
「ガチャガチャって言うんだよ。ああー! ガチャでゲットした東京タワーなんだ。今時のは凝ってるなあ! 画面越しだけど、細かいところまでよく見えるよ。すごい、すごい」
『大変、安いシナモノで、恐縮デス。もっと他に、何かあれば』
「変なこと気にしないでくれよ! 大体エンリーケが大金持ちなのはわかってるんだからさ、今更そんなものがほしいなんて言い出しても、おかしいだろ。気持ちだよ。気持ちが一番嬉しいんだって。ムーチャス・グラシアス、エンリーケ。ほんとに嬉しいよ」
『ドウイタシマシテ、どういたしまして』
「へへへ。それにしても嬉しいな」
『実はこのおもちゃ、サプライズがあります。ファベルジェのエッグのごとく』
「ふぁべ……何?」
『何でもアリマセン。ウチにある、飾り物の、作者デス。このタワー、仕掛けがあります』
「えっ、何だろう」
『光ル』
そう言って、エンリーケは東京タワーのフィギュアの下に、黒いペットボトルのキャップのような台座をはめた。そしてスイッチを押した。
透明だった東京タワーは、青い色に輝き始めた。
『青が出まシタ。ピンクと、オレンジと、青が入ってる、がちゃがちゃだったのですが、私は青を引いてしまっタ……あなたが私に語ってくれた美しいタワーは、オレンジ色だったと記憶していマス。だから私はあなたにオレンジを差し上げたかっタ。もう一回試そうとしたところ、SPに止められまシテ…』
「ああっ、時間なかったんだな」
『ハイ。申し訳ありません』
「いやいやいや! あれ、俺話してなかったかな?」
『何ヲ?』
スペインに出発した時の話、と。
エンリーケが首を横に振ると、晴良は苦笑しながら語り始めた。
「俺がスペインに出発した時のタワーは、オレンジじゃなくて、青だったんだよ」
『オウ』
「最近はどうだかもうわからないけど、当時の東京タワーは、LEDの点灯が始まったばっかりでさ、青とオレンジの二色を交互に照らしてたんだじゃなかったかな。もう長いこと見られないことはわかってたから、最後の日には『オレンジ、オレンジ』って念じてたんだけど、まあ、青だったよ」
『そうだったノデスネ。それは、ガッカリ…』
「でも今考えると、あれはあれで象徴的だった気がするんだよな」
もしあのライトがオレンジ色だったら、あまりにもすべてが綺麗に終わりすぎてしまうような気がしたと。
晴良は語った。そして言葉を英語に切り替えた。
人生とは、チャプターごとにわけられた物語とは違う。
ただ日々がうつろうごとに、ちょっとずつ、ちょっとずつ、新陳代謝の機能によって、違う自分になってゆく。
子どもの頃のアルバムを眺めて驚くように、自分とはいつの間にか、今までとは違う自分になっているもので、そのボーダーラインは見えない。
むしろ見えない方がいいのかもしれないと。
そこまで英語で語ってから、言語は再び日本語になった。
「今までの自分に全部おさらばしてスペインで頑張るぞ! って気持ちだったけど、あれでちょっと水を差されて『あ、別にそこまで気合をいれなくてもいいな』って思わせてもらったんだよな。結果として学校でクラスメイトの実力にぶちのめされても何とかやってるし、エンリーケとも会えたわけだし、悪くないよ。青い東京タワーは、俺にとって幸運のお守りみたいなものかもしれない」
『………素晴らしい』
「へへへ。いい話だった?」
『それも、エエ、そうですが、ハルヨシ、あなたはいつの間にか素晴らしい英語話者になった。ブラボー。チュウショウテキなことを、英語で語れるようになっている。見事です』
「えっ、そっ、そんな? あははは! エンリーケが難しい話を英語で聞かせてくれるから、門前の小僧習わぬ経を読むってやつで、多少はよくなったんじゃないかな?」
『モンゼンノコゾーはわからないので勉強しておきますが、いずれにせよあなたの実力デス。あなたにプレゼントを差し上げるつもりが、私が素晴らしいプレゼントをもらってしまった』
照れくさそうにあたまをかいた晴良は、穏やかな笑顔を浮かべ、それ、と画面ごしにタワーを指さした。
「東京タワー、預かっててくれよ。送ってくれなくていい」
『え?』
「ファベなんとかさんの飾りの隣にでも置いておいてくれよ。イギリスでも、スペインでもいいけど、いつか会おう。その時渡してくれたらいいから。大体さ、スペインの郵便事情はあんまり、なんていうのかな、グッドじゃないんだよ。紛失されるかもしれないから、やっぱり預かっててほしい」
『………………それはとても楽しみな約束デス』
「そんなに未来じゃないよな。俺はいつでもいいから、エンリーケの都合がよくなったら連絡してくれよ」
『はい。カナラズ。まったく、本当にプレゼントばかりで面はゆい。今日はよい誕生日です』
「えっ?」
『ン?』
「……誕生日? バースデー?」
『はい。しかし、家や取引先のモノが騒ぐ程度のことですカラ、気にすることでは』
「……あああ――――――っ!」
絶叫の後、下村晴良は猛然と画面外に走ってゆき、ギターをもって戻ってきた。
そして『ごめん』『忘れてた』『マジでごめん』というイントロをつけて、ハッピーバースデーを歌い始めた。
青く輝く東京タワーのフィギュアを手に乗せながら、エンリーケはそれを楽しそうに聴いていた。
一年間、家族にも、家という会社の関係者にも、かりそめの友達にも、全く誰にも忘れてもらえなかった自分の誕生日を、小さな友達が『うっかり忘れていた』と口にしてくれたことが、どれほど嬉しかったか、血の通った『人間扱い』として感じられたかと、クレアモント家の伯爵が当人に語り、下村晴良を若干困惑させるまでには、それから長い時間が必要だった。