子どもの時、ロンドンの劇場、ロイヤルオペラハウスにあるカフェテリアの上の飾り物が食べたかった。つやつやしたマスカットや、穴のあいた三角形のチーズ、麦わらのカバーにつつまれた胴体の丸いワインの瓶。絵本の中に出てくるごちそうそのままだったから。飾り物ではなく、本当に、食べるために置いてあるのだと思っていた。そしてそれは全部大人の――VIPと呼ばれるような人向けで、だから私には食べさせてもらえないんだと信じていた。そして私は真実、それがいつか食べられる日を夢見ていた。
本当に『大人』になって知ったのは、あれは全部飾り物で、本当に食べるためのものじゃないんだということだった。同時に私は、大人になるということの意味を知った。
夢を見られるのは子どもの間だけで。
夢に大した意味なんてないとわかるのが、大人なのだ。
窮屈なドレスに身を包んで、私はロイヤルオペラハウスのエレベーターに乗った。コヴェントガーデンという名前でも知られる、イギリスで最も格式の高い劇場だ。日替わりでオペラとバレエを上演している。今日は何かのオペラの初日とかで、着飾った人たちが多い。おじいさまの付き添いとして、ピムリコから駆り出されてきた私も、何がなんだかわからないままドレスアップだけはしている。おばあちゃんが着るような、時代錯誤なひらひらの白いドレスで、正直言って恥ずかしい。体のラインが全然見えないので、まるで赤ちゃんの服を着たまま大きくなってしまった女の子みたいに見える。もう十八歳になるのに、私の世界はいまだ、家族に囲まれて動いているから、そう間違いでもないのかもしれないけれど。
エレベーターが開き、席へと戻ろうと急いだ時、私ははずみで誰かにぶつかってしまった。背中だと思う。骨がごつごつしていた。お年寄りだったらどうしよう。
私が慌てて振り向くと、その人も同時に振り向いた。
そしてその人は――彼は、私を優しく抱きとめてくれた。
「大丈夫ですか。大変失礼いたしました。お怪我はございませんか」
今まで聞いたことのないような、きれいな発音の言葉。
東洋人の顔つきにはまるで似合わない、まるでバッキンガム宮殿から出てきた人みたいな発音だった。黒というよりグレーに近い、霧がかかったような色合いのタキシード。初日にドレスアップしてくる人たちの中でも、彼の優雅さは別格に見えた。
何。この人。一体、何。
目をぱちぱちさせる私に、彼は少し恥ずかしそうに微笑みかけてくれた。
「お恥ずかしいことです。今日があまりに楽しみで、少々はしゃぎすぎてしまったようです。どうぞお許しください」
「いえ、大丈夫ですから」
「よかった」
それでは失礼いたしますと、彼は一礼して消えていった。
怪人。
あまりにも多くの人でゴミゴミしているので、ぽーっと立ち尽くしているようなことはできなかったが、人波をかきわけつつ、私の頭はフル回転して考えていた。
あれは怪人。
ここはパリのオペラ座ではなくロンドンのコヴェントガーデンだけれど、あれはきっと怪人。
出し物の初日にだけあらわれるという、謎の人。
きっとそう。
十八才とも思えない妄想をたくましくして、私はおじいさまの隣の席に戻った。おじいさまはリウマチで右足が変形していて、タキシードの下の脚は目も当てられないくらいボコボコで、白っぽくて、血が通わないのでところどころ緑色っぽくなっている。ある意味では間違いなく『怪人』だ。でも彼はいつも、出し物の初日の日には劇場を訪れる、紳士の威厳を保った怪人である。だからこそ私もじゃけんにできないのだ。
「ケイティ、どうしたんだい」
「……なんでもありませんわ、おじいさま」
「トイレにはちゃんと行ってきたのか」
「大丈夫です」
おじいさまはいつまでも私を子ども扱いする。十八才の異性に、トイレに行ってきたかなんて、とんでもない質問だ。でも彼はもうすぐ九十才で、私が生まれた時にもう七十二才だった。年を取る事に時間の経過は早く感じられるようになるというから、きっとまだ、私が生まれたばかりの赤ちゃんのような気持ちでいるのだろう。
おじいさまはそっと、銀色の杖の握りをつかみなおし、皴とたるみだらけの顔を持ち上げ、私を見た。
「ケイティ、あそこを見てごらん」
「あそこ?」
「オペラグラスがあるだろう」
今は一幕と二幕の合間の休憩時間だ。当然まだ幕は開いていない。見ろと言っているのは観客席だ。そんなドガの絵画みたいな無礼なことをしてどうしろというのだろう。でもまあ、ハリウッドのセレブかもしれないから、見るだけは見ておくけれど。と私は金色のオペラグラスを構えた。お母さんから貸してもらったものだ。私が十五才になる前には、おじいさまの付き添いポジションは彼女の役回りだった。家で一番若い女が付き添いになるのだ。別に変な理由じゃない。若い相手の方が、おじいさまが倒れた時に素早く動けるからだ。でも何故『女』なのかは、まあ、ちょっと気分が悪くなるから、あんまり考えないようにしている。
促された方向は、私とおじいさまが腰かけているのと同じ高さの階だった。二階のバルコニー席。とてもいいお値段の中央。赤いきのこみたいなランプシェードの群れが、逆光になって視界を妨害する。
あっちって、一体どこを見ればいいのよ、とうっとうしい気持ちになりながら、それでもあちこちグラスを巡らせていた私は、ハッと息をのんだ。
「見えたか」
おじいさまが囁く。彼はきっと、何を見ろと告げる必要がないと思ったのだろう。私もわかる。
グラスごしの世界に、絵画から抜け出してきた天使のような男が座っていた。
ゆるくうねる金髪。淡いブルーの瞳。大理石のように一点のくもりもない肌。均整の取れた、いっそ取れすぎて気持ちが悪いくらいの、男性的とも女性的とも言い難いプロポーション。ただ彼は、彼であるだけなのだと、そう思わされてしまう、一人で完結している存在。
そしてその隣に。
私の『怪人』が座っていた。
「クレアモントの秘蔵っ子だ。ばけもののような美しさだろう。滅多に社交界には姿を現さん。わしも目にするのは十年ぶりか、もっとか、もう忘れた。目がつぶれない程度に見ておきなさい。あれを見ると、顔立ちで夫を選ぶことがいかに馬鹿馬鹿しいかよくわかる。あれ意外は全て『その他』だ」
「………………」
おじいさまの口調はまるで、RPGの長老が、災厄の時の訪れを告げるイベントのように重々しく、馬鹿馬鹿しいほど真剣だった。クレアモントの秘蔵っ子というのは、おそらくあのキラキラしい金髪の男性のことなのだろうが、私の関心は彼の方にはない。その隣だ。
あれは。
あれは一体、何という名前なのだろう。
「おじいさま、お名前をご存じ?」
「マイクロフト……だったか。いやそれはあれの父親の名だな。リチャード、そうリチャードだ。面白みのない名前だよ。ケンブリッジを卒業したのだったかな」
「その隣にいる方よ」
「隣?」
右隣の席で、背丈は同じくらいで、黒髪に茶色い瞳の東洋の顔立ちをしていて、おとぎ話の中国の王子さまみたいな方よと、私はハキハキと告げた。
おじいさまはなにか、バカげた話を耳にしたように、片方の目を大きく、もう片方の目を小さくすがめ、は、と嘆息した。
「アジア人なら、おおかた召し使いだろう。わしは知らん」
そこで私の、おじいさまに対する関心はゼロになった。健康状態が悪化したら、それは助けて差し上げるだろう。でもそうでなければどうでもいい。マネキン同然だ。オペラもどうでもいい。私はこれから一時間、あの『怪人』を眺めて過ごす。そう決めた。
それから私は、ドガの描き出した観客も真っ青なくらいの執着心で、二階席の彼を見つめ続けた。
太った歌手がわけのわからない歌をうたっている時間が、こんなに幸せになったのは初めてだ。
彼は幸せそうな顔で、バックグラウンドミュージックやアリアの切れ目ごとに頭を動かし、うんうん、うんうんと頷いていた。さすが『怪人』だ。オペラにとても詳しいのだろう。いつどこでどんな音楽が流れ、どんなふうに歌が入るのか理解しきっている。あんなに若いのにオペラが好きなんてしぶい。もしかしたら歌手なのかもしれない。いや本当に『怪人』だとしたら、彼は地下に女の子をさらって歌の指導をしているはずだから、歌に詳しいのも当然だ。いえいえそんな、それは小説の中だけのことよ――私の妄想はどこまでも広がって、オペラが終わる頃には、私はかけだしの歌手、彼は私に一途にあこがれる怪人ということになっていた。お墓の中まで持っていきたい恥ずかしい妄想だ。でもこの思い出を抱いてゆけるなら、お墓の中もそんなに悪くない気がする。
万雷の拍手の中で、彼は立ち上がって拍手をした。私も立ち上がる。彼が拍手をしている中で、私も拍手の一つになりたかった。いつまでも拍手が終わらないでほしかった。でもあっという間に、指揮者やプリマへの花束贈呈タイムも終わり、幕は下りてしまった。
つまらない。
これから先はおじいさまが動けるくらいの時間になるまで、じっと座席に座って待っている時間だ。人でごったがえしている二階席出口なんて、杖をついてゆっくりとしか動けないおじいさまには荷が重すぎる。劇場スタッフに頼めば快く車いすを貸してくれると思うけれど、おじいさまの中では「車いすに乗るなんてピーがピーでピーな人のすること」なのだそうだ。二十一世紀の現代にそぐわない表現は私の責任で適宜検閲した。
面白みのない歌手どもだったな、から始まった愚痴を、私は右から左に受け流しながら頷いた。そうですね、そうですね、ええそうですね、まったくそうですわおじいさま。ええ。ええ。
変化があったのは、人の波が七割以上引いてしまった頃だ。
さてそろそろ立ち上がらなければ、と杖に力をこめ、おじいさまが階段の一歩目に足をかけ、私がその隣で介助を引き受けた時、私たちは気づいた。
誰かが私たちを待ち構えていた。
麗しい顔立ち、完全に整った金の髪、黒いネクタイ、ぴかぴかの革靴。
天使がいた。天使は微笑んだ。
「ごきげんよう、カーナボン卿」
「…………おお、これは、これは、クレアモント家の」
「ごぶさたしております。リチャードです」
「このようなところでお会いできるとは光栄ですな」
おじいさまは急に、社交界向けのハリのある声を出した。自分はまだまだ現役で、誰にも負けてなんていないのだと、しっかり主張する声だ。時々それがひどくかわいそうに聞こえる。
リチャード氏はただ、ただ、礼儀正しく、胸元に手を添えて一礼した。
「こちらこそ光栄でございます」
「はは。調子がいい。こちらは孫娘のケイティ。ケイティ、こちらリチャード氏だよ。ごあいさつなさい」
「…………お会いできて光栄です」
「素晴らしい夜をご一緒できたことを嬉しく存じます、ケイティさま」
そう言って彼は私の手を取り、作法に従い手の甲の上三センチくらいの場所に口づけをした。私がもし、今日のエレベーターホールで誰かにぶつかる前の私だったら、赤くなって卒倒していたかもしれない。それくらいの破壊力のある絵面ではあった。
だが今の私の関心は一つだ。
麗しい天使ことリチャード氏の背後に控える、あの東洋人の男性。
数歩後ろから、私たち三人を見守るように眺めている彼。
彼のことだけが知りたい。
私は無礼を承知で、リチャード氏に尋ねてみた。
「あの、後ろに立っていらっしゃる方はどなたですの?」
「ケイティ、召し使いのことを話題に出すのは無礼だ」
「こちらは私の無二の友人、セイギ・ナカタと申します。セイギ、ご挨拶を」
「こんにちは。セイギと申します。さきほどは大変失礼いたしました」
呼ばれるとすぐに彼はやってきた。そして私の前で、東洋人らしくきりりとしたお辞儀をした。その時私は気づいた。彼ら二人の英語が、双子のようにそっくりであることに。同じ学校を卒業したのだろうか? だとしたらセイギ・ナカタ氏はケンブリッジの卒業ということになる。格式としては申し分ない。おじいさまはきっと私の将来のことを考えてリチャード氏を紹介してくれたのだろうけれど、だったら相手はナカタ氏だって別にいいのでは――
今までは全く何の興味もなかった家と家との結婚について、にわかにターボをかけて考え始めた私の頭は、しかし、美の暴力によって蹂躙された。
リチャード氏は微笑んでいた。
私にでも、おじいさまにでもなく。
セイギ・ナカタに。
「セイギ、今夜の演目はいかがでしたか」
「とてもよかったです。プリマの高音域の伸びがとても素晴らしくて、ここに来た甲斐があったと思いました。指揮者の音楽的解釈も、古い指揮者にいちいち忖度していないところが大変いい。おもねらない若さを感じました。私は好きですね」
「話し出すと止まりませんね。あなたのオペラびいきにも困ったものです」
「ああ、申し訳ありません。大切なお客さまの前なのに」
ミケランジェロが、ラファエロが、ウィリアム・ブークローが、怒り狂って絵筆を膝に叩きつけてバキバキにしそうな光景だった。リチャード氏が微笑んで、セイギ・ナカタとおしゃべりをしている。ただそれだけのことだ。彼はとても嬉しそうに、まるで周囲の空間に花びらをまき散らすように微笑んでいる。
その圧倒的な美。
魔法使いが魔法陣を敷いたように。
笑顔の周りが、完全に彼の支配する領域になってしまう。
私は一歩、あとずさり、おじいさまは咳払いをした。リチャード氏は再び私たちに向き直り、礼儀正しく頷いた。
「お会いできて光栄でした。よろしければこの後、一緒に夜のお茶などいかがでしょうか」
「いえ、これにて失礼させていただきます。孫は早く寝る必要があるでしょうから。ケイティ、お別れを言いなさい」
「お会いできて光栄でした、リチャードさま、ナカタさま」
「またお会いできることを祈っております」
「今度は転ばないでね」
最後に一言、『怪人』は少し、言葉遣いを崩して私に話しかけた。そして二人は、昔のハリウッド映画に出てくる二人組のように、振り返りもせず、颯爽と歩き去っていった。
私たちは正真正銘、二階席の最後の客になっていた。
おじいさまははなをならした。
「長らく結婚しないことにどんな理由があるのかと思っていたが、やれやれ。いや、お前の耳に挟むようなことではなかったな。忘れなさい」
私は何も言わなかった。おじいさまはそれで私が「何も聞いていません」と意思表示したのだと思っただろう。ただ私はうちのめされていただけだ。
恋って一瞬で始まるけれど、一瞬で終わるのだなあと。
きれいな本物の宝石をもらったけれど、次の瞬間割れたような、そんな気持ちだった。
私はおじいさまの体を支えながら、とぼとぼと二階席の階段を歩いた。一階のホワイエへと続くエスカレーターにも、もうほとんど人がいない。入場時にはごったがえしていたカフェスペースも、今は店じまいでお片付けの真っ最中だ。無数のグラスの上にかざられた、プラスチックのぶどう、チーズ、ワインの瓶。
エスカレーターが一階に到着する前に、私は叫ぶように言った。
「おじいさま、私あのぶどうが欲しいです」
「ぶどう……?」
「カフェの天井に飾ってあるものです」
「……あれはセルロイドか、プラスチックのおもちゃだろう」
「あれがほしいです」
「やめなさい。お前はもう淑女なのだから」
「でもどうしても、あれがほしいです。私行ってきます」
「ケイティ!」
エスカレーターを降りたばかりのおじいさまを置いて、私はヒールの音を立てて走った。赤ちゃんみたいなふりふりの白いドレスが風を受けてはためく。驚いた顔をするバーテンダーに、私は真剣にオーダーした。
「上の飾り物のぶどう、売ってもらえませんか」
「……飾り物のぶどう?」
あなたの頭の上の更に上にかざってあるもののことよと、私は指さして告げた。そのあたりにたくさん並んでいる椅子を一脚持ってきて、上にあがって手を伸ばしたら、簡単に手が届くだろう。
バーテンダーはわけがわからないことを言われたというふうに肩をすくめた。でも私は食い下がらなかった。ほしい。どうしてもほしいのだ。
「この近くに、サンプル食品を売っているお店もあったと思いますけどね」
「私はこの劇場のものがほしいの」
「そろそろ締めなきゃならないんです。お嬢さん。申し訳ないですが」
「でもほしいのよ!」
「しかしねえ」
ぎゅっと、骨ばった手が私の肩を掴んだ。
振り向くとすぐ、おばけのがいこつのような顔立ちの紳士が立っていた。おじいさまの立ち姿はいびつで、タキシードがところどころ出っ張ったりへこんだりしている。
彼は私ではなく、バーテンダーを見ていた。
「ごきげんよう。よい夜だね。名前は何と言う」
「……ジャクソンですが」
「ジャクソン。君の上司は今もダイアゴナル氏かね? 彼にはカーナボン侯爵と言えば通じるだろう。火災からこの劇場が再建された時には随分投資を惜しまなかったものだが、時代のうつろいとは嘆かわしいものだ。私の孫娘に無礼な口をきくことは許さん。ぶどうだ。別段難しい注文ではなかろう」
「は……はあ」
「取ってやれ。すぐ」
「はい」
私はきつねにつままれたような気がした。彼とその仲間が、さっきまで紳士淑女の腰かけていたしゃれた椅子を持ってきて、ほこりのたくさん積もった飾り物のぶどうに手を伸ばす。不思議な光景だった。
五分後、私はぴかぴか光る緑色のプラスチックのぶどうを手にしたまま、黒いタクシーに乗っていた。本物の、プラスチックのぶどうだ。オペラハウスにあったものだ。
私はやっとの思いで言葉を絞り出した。
「おじいさま、あの…………ありがとう。本当にありがとうございます」
「ときおり馬鹿げたことができるのも、この馬鹿げた身分の特権だ」
「あはは。そんな……」
「だが覚えておけ、ケイティ。本当に自分のほしいものを、ありのままさらけ出してはならん。それは弱点を見せびらかすのと同じだ。女の身であればなおさらだ。お前はいろいろな苦労をするだろう。隙を見せるな」
「…………心得ました、おじいさま」
「よかろう」
おじいさまはそれだけ言うと、うとうとと眠り込み、お屋敷に到着するまでずっと眠っていた。
それから三か月後、おじいさまはロンドンの病院で息を引き取った。あれが私たちの最後のお出かけになったのだ。おじいさまは大好きなレコードを流しながら息を引き取ったというが、今わの際には「歌なんてボロックスだ」と言い放ったというから、まったく筋金入りの英国紳士ぶりだと思う。
私は部屋にあのぶどうを飾っている。オペラハウスで数々の人々を見守ってきた、歴史あるプラスチックのぶどうを。
私はちょっと考えを改めた。ほんとうに、大人になるということは、夢なんてどうでもいいというオールオアナッシングみたいな馬鹿げた気持ちにふんぎりをつけることなのだと思う。別に夢見ていたぶどうが本物じゃなくてもいいのだ。プラスチックだったとしても、手に入れた瞬間砕けるもろい宝石だったとしても、大事にしてあげることに何の問題があるだろう。誰かのそういう気持ちを大事にしてあげるのが、どれほど尊いことか。
誰かがそれを「馬鹿げている」と言ったら、私はおじいさまそっくりの顔をしてこう言ってやろうと思う。私を誰だと思っているの? カーナボン侯爵家の血を引く、ケイトリン・カーナボンなのよ? と。かなり馬鹿げた啖呵だ。でもちょっと言ってみたくもある。
私はそれきり、クレアモント家のリチャード氏には会っていない。セイギ・ナカタ氏にも会っていない。だから彼らがまだ仲良くやっているのか、それともネットフリックスのドラマみたいに即別れて知らん顔になっているのかもわからない。正直どっちでもいい。
それでもやっぱり、夢は見てしまう。
おつきあいでオペラハウスに顔を出すたびに、もしかしたら彼らが――どちらかというとナカタ氏が、存在するのではないかと。本当にいなくてもいい。というかいられたら少し困る。でもそう考えている瞬間、私はとても楽しい気持ちになれる。
思うに私は、そこそこ上手に大人になれたのだ。
(初出2022/5/14-Happy Birthday Seigi Nakata?)