飾り立てられた象が大通りをゆく。
ペラ・ヘラ。
俺が住むスリランカ、キャンディの名物ともいえる、仏教の祭典である。毎年夏。占星術的に縁起のよい日を選んで催行される、おしゃかさまの歯という、西洋風に言うなら聖遺物をまつるイベントだ。
美し容れ物に入った歯を、きらきらに飾り立てた象の背に載せて、街の中を練り歩く。
一年で一番、この山の街が賑やかになる日だ。
「いつからかなあ。俺、これ毎年観られるものだと思ってたよ」
「そうでしょうか。海外出張も多かったのでは?」
「まあ、それはそうだけど」
家、というかスリランカの社宅のまわりでペラ・ヘラが催行されているんだなあと思うと、その時イタリアにいようがシンガポールにいようが、俺の気持ちが象の歩く街にとんでいったものだった。お隣のヤーパーさんに電話をして、ジローとサブローの様子を尋ねたりすることもよくあったし。いわば魂が分裂しているようなものだ。キャンディの俺。海外出張中の俺。
でもこれからは、そうでもなくなるのだろうという予感がある。
「……横浜か。変な話だよな。俺、町田と銀座の次は、キャンディとコロンボに土地勘がある気がするよ」
「あなたにとってはキャンディとコロンボの方が、横浜よりも近く感じられる場所になったということですね」
「家の準備はほとんど終わってるから、もう、あとは飛び込むだけなんだけどな」
「飛び込み台で後ろを振り返っているのですか?」
「『地元の祭り』として眺める、最後のペラ・ヘラかもしれないなあって」
爆竹の音が聞こえてくる。時刻は夜だ。街を練り歩いた象たちが、歴史的な衣装を着た男性たちに先導されて、寺院の中に戻ってゆく。
キャンディの社宅の二階。
あまり褒められたことではないが、はしごをかけて屋根の上に出ると、人でごったがえした街と象の行列がよく見える。手にはジンジャービアこと、ノンアルコールジンジャービール。隣にはリチャード。間におつまみのナッツ。手元を照らすカンテラ。
夏の終わりの空気が肌にまとわりつき、すーっと流れ去ってゆく。
二十代も後半にさしかかると、過剰なノスタルジーを感じる機会も減った気がする。高校の卒業式で女の子たちが泣きまくっていた時、俺もつられてほろりと泣いたが――いや、けっこう泣いたかもしれない――今のメンタリティで同じ状況に立たされても、俺は泣けないかもしれない。人間というのは年を取るごとに、だんだん自分を環境に最適化させてゆくもので、俺のメンタルも恐らく、最適化の結果、そんなに泣かないようになってきたのだろう。
それでもやはり、寂しいものは寂しい。
「横浜にもこういうお祭りあるかなあ」
「あるでしょう。世界有数の港湾都市です。さすがに象は出てこないと思いますが」
「イギリスの祭りが恋しくなることってある?」
「…………それほど」
「そっか」
あまり深堀りしない方がいいトピックかもしれない。俺は行列の明かりを眺めながら、開いたナッツの袋に手を伸ばした。塩焼きの味がおいしい。ぱくぱく食べている間に最後の一つになった。指先が軽く触れる。
「あ、食べる?」
横を見るとリチャードが笑っている。カンテラの明かりで下から照らし出される顔は、一歩間違えるとお化け屋敷のうらめしや式に見えそうなものなのだが、この男にかかるとまるでアート写真の撮影会のように見えてくるから不思議だ。いや、こういうことを俺が感じた回数を考えれば、もう不思議でも何でもないのかもしれないが、やっぱり美しいものは美しい。
光の魔法を授けてくれる魔法使いのような、青いワイシャツにスラックス姿の男は、横目で俺の顔を見て笑っていた。
「世界のどこへ行くのであれ、今の私には二種類の祭りしかない」
「どんな?」
「一緒に観る相手がいるか、いないか」
ああ。そういう。
そういう。
そういう解釈で間違っていないよなと視線を送ると、他の何だと? と言いたげな小さな鼻の音が返ってくる。
「……あー、それは、ある」
非常にある。うん、ある。俺がそう頷き続けると、リチャードは噴き出した。
「それほど何度も頷きながら聞く話ですか」
「実際そうだろ。でも俺はさ、仮に一緒にいない時だっとしても『ああリチャードがいたらこう言うかもしれないな』って感じたり、考えたりすることはあるよ」
「まがいものです。本人に尋ねた方が早いでしょう」
「いない時だってあるだろ」
「電話すればよろしい」
「時差が激しい時とか」
「先日私が『鍋で米を炊かなければならない、助けてほしい』とあなたに電話をしたのは、あなたのタイムゾーンの深夜三時でした」
「あの時は慌てたよ。お前が鍋で米を炊こうとしてるところを想像したから、『できればやめてほしい、誰か他に人がいるところでやってほしい』って」
「私ではなく、当時のパーティのホストの女性がそうしたがっていたのです。せっかく買ったライスクッカーを壊してしまった、絶対に失敗できない、でも私は料理が下手だ、気絶しそうだと、ずっと一人でつぶやいていらしたので……」
「他人事じゃないよな……いや何でもない。それで結局あれは」
「大変上手に『ゴハン』が炊けたとお喜びでした。つけあわせの『オカズ』がアボカドとムール貝というトラディショナル・ジャパニーズ・フードだったことには、まあ目をつぶりましょう」
「その後ダイヤモンドのネックレスをお買い上げくださったわけだしな。俺も売り上げに貢献しちゃったかなー」
「いずれにせよ私は時差を問わずあなたに連絡をいれています。あなたも私に連絡すればよろしい」
「悪いけどそうさせてもらうと思う」
「思う、が余計です」
「そうさせていただきまーす!」
結構、とリチャードは返事をしてくれた。本当に嬉しそうな顔をしているので、俺は何だか切なくなってしまった。
最後とばかりに爆裂する花火の音を聞きながら、俺はわりあい、大きな声で切り出した。
「横浜の祭りをさ! 一緒に見られるかどうかわからないのが、ちょっとつらい!」
「あなたが被保護者と一緒に過ごす大切な時間です。私は遠くから眺めていますよ」
「俺はお前と一緒でも全然問題ないと思ってるんだけどな?」
「そうでしょうか。ただでさえあなたの周辺には様々な問題が発生することが考えられますし、私の姿は悪目立ちします」
「『悪』目立ちって言葉は間違ってると思うけどな」
「プラスの影響を及ぼすばかりの容貌ではないという話です」
「そんなの誰だって同じことだろ」
「私と何年一緒にいると思っているのです」
「そういう時のために俺がいると思ってほしかったんだよ」
リチャードはしゅんとしてしまったが、その後すぐいつもの美しい顔に戻った。
面倒くさい。
俺の理想としては、これから俺が会いに行く素敵な相手と、リチャードと、三人仲良く暮らしたいのだが、肝心のリチャードが及び腰になっているのである。
いろいろ配慮してくれているのはわかる。場所はイギリスでもマレーシアでもなく日本だ。外見だけで日本人日本人『外国人』と判断される取り合わせが遭遇するであろうトラブルもたくさんたくさん思い浮かぶ。
でもそれは俺が解決できることだ。そう思う。
伊達に年は取っていない。ただ涙もろさが緩和されただけではないのだ。
お前のこと守りたいと思っているだよと、力をこめて見つめると、リチャードは秋の空気のように柔らかな笑みを浮かべて、俺の思いを受け流してしまった。
「冷えてきました。そろそろ部屋に入りましょうか」
「リチャード」
「今日のディナーは結構です。昼間に商用で出歩いた際、ビリヤニをたくさんいただいてしまいましたので」
「冷蔵庫のプリンは?」
「食べます」
リチャードは屋根から立ち上がり、手早くナッツの空き袋をまるめると、はしごを降りて部屋の中に戻っていった。
プリンは食べると言う。その一言にほっとする。ひどい喧嘩をした時に「今日はプリンは食べない」と宣言され、俺は本気で落ち込んだことがある。逆にリチャードが慌ててしまい、いくつでも食べるから元気を出してくれと言われた。
仕事を終えた象たちが、象つかいに導かれて家へと帰ってゆく。
象は大きな群れを形成して生活する生きものだ。みんな家族のある身だろう。
お父さんおつかれさま、お母さんおつかれさまと、ねぎらってくれる子象たちの姿を想像し、少し癒され、同じだけ寂しくなる。俺が彼らや、彼らの子どもたちの行列をここから眺めることは、おそらくもうないだろう。しばらくない、か、もうない、か、自分でも微妙なところだと思う。
新しい一歩を踏み出す時だ。
だがその隣にリチャードの影がないかもしれないことが、俺は寂しい。
祭りの終わりはいつもしんみりしたものだ。俺はカンテラを手にはしごを降り、家に戻った。ジローとサブローの声が庭から聞こえてくる。リチャードが彼らに構ってやっているのだ。ごしゅじんあそんでくれてありがとうございますありがとうございますめずらしいですねとテンションを上げている二匹を、リチャードがどんな顔で抱いているのか興味があるが、今はいい。祭りを眺め終わったらと先延ばしにしていた雑用を、パソコンとにらめっこして片付ける時だ。
明日の朝飯、冷蔵庫の下の方の段に入ってるからなあと、大きな声で言ってから、俺は書斎に足を向けた。
祭りは終わった。仕事の時間だ。
祭りの日 a
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