「うかない顔してますね」
「……ジェフリーさん」
「中田くんはそんなにパーティが苦手でしたっけ?」
晩夏のフランス。
ロワール川沿いに建つ古城が、今日のレセプションの会場だった。
クラシック音楽とEDMをまぜた、どことなく上品なダンスミュージックが、宝石とアンティークの展示された一階ホールを満たしている。フランスに軸足を持つ大手ブランドの新コレクションお披露目パーティで、俺とリチャードは招待客枠だった。厳密にいうとリチャードだけが。一名同伴可能。
俺は秘書枠、ガードマン枠である。
だが、おおかたの招待客は、パートナーを伴っていた。
美貌の宝石商、英国伯爵家の血をひくリチャードは、引く手あまたの生きた宝石である。まあ何て素敵、まあエレガント、さまざまな言葉で存在を称賛され、それとなく探られる。
そちらの方は? と。
秘書ですとリチャードは紹介する。
ああそうなのね、と皆さんは微笑み、俺を眺める。
額面通り受け取ってくれる人の方が少なかったと思う。有名ブランドの例をひくまでもなく、この業界において仕事上のパートナーが恋人であることはそう珍しくないのだ。それが心底のステディな相手なのか、パートタイムの恋人なのかは差があるものの。
別枠で招待されていたジェフリーさんが合流し――来ること自体は前もってリチャード経由で知らされていた――いとこ同士の再会タイムを邪魔するのもなんなので、俺は単独行動をし、世界の最先端をゆくブランドの集めている石、デザインの傾向、経営戦略などをそれとなく探ろうとした。気分はロワールの渓流に糸をたれる釣り人である。だがこの場所では俺こそが魚だった。
「どこで出会ったの?」
「どのくらい付き合っているの?」
「彼はあなたのどういうところが好みなの?」
集中砲火だった。俺の助けになってくれる人はどこにもいなかったので、社交辞令の微笑みの盾は早々にハチの巣になってしまい、それからは虚実入り混じった身の上話でしのぐしかなかった。
はいそうなんです、俺は東京の大学に通っていたんですが、そこでジュエリーの勉強をしていて。
そうなんです、スリランカに勉強に行った時に彼に出会って、意気投合して。ははは。
今に至るってわけですよ、はははは。
パーソナルな情報を見ず知らずの人間に開示する必要はないと、リチャードはこうしたパーティの常連になる前、俺によくよく諭してくれた。情報化の時代、どんな経由でどこまで話が転がってゆくかなど誰にもわからない。自分の心を滅ぼすほどの盲目的な誠実さなど、社交の必須項目ではないのだと。
そんなわけで俺は楽しい作り話がちょっとずつ得意になっていた。俺は時々、アメリカに留学していた学生になったり、スイスの寄宿学校に通っていたことになったり――何しろ君の顔をスイスで見たよ一緒にスキーをしたよね、という謎の酔っ払いが出現したので――ともかくその場に合わせて、俺という人間の過去は姿を変えた。
そんなことで今更ダメージを受けるほどやわではない。ちょっと失礼と言って逃げなかったことにも意味がある。
それもこれも、全てリチャードがジェフリーと楽しく話す時間を稼ぐためだ。俺とリチャードは、そこそこ四六時中一緒にいるが、あの二人はそうでもない。
とはいえ限度があるので、俺はちょっとだけ場を抜け出して、ちょっと力のかけ方を間違えたらガラッと崩れそうな石造りの壁にもたれ、淡い藍色の闇に包まれた森の風景を見下ろしていた。この森林を抜けたところに川が流れているらしい。水のにおいがする。
そこにジェフリーさんがやってきた。
「おつかれ」
「……リチャードは?」
「のんびりしてますよ。二階でパーティの主催者と、この城の持ち主の方と話してます。百五十年くらい遡ると共通の先祖がいるので、歴史の話で盛り上がってるかもしれませんね」
「……おお、貴族……」
「呼びました? はいこれ」
彼が差し出したのは、青い包み紙に入ったチョコレート菓子だった。『天の川』という名前の、日本のコンビニでも買えるポケットサイズである。シャンパントリュフでもフランボワーズのボンボンでもない。
俺は回復アイテムにとびつく瀕死の戦士のような勢いで、極甘の菓子にとびつき、蛇のように飲み下した。おいしい。そしてリチャードの好きそうな味だ。ロイヤルミルクティー味の飴もキャラメルもない時には、こういう菓子でもあいつは食べる。困った時にこういうお菓子を差し出すのは俺の役割だ。
そこまで考えたところで。
俺はある可能性に思い至った。
ジェフリーさんはいつもの顔で笑っていた。
「昔はね。僕もそういうことをしてましたよ」
「……じゃあ、俺、二代目の甘味奉行ですね」
「かんみぶぎょうなんて日本語初めて聞きましたけど、どういう意味?」
「ええと、甘いものをあげる係、くらいの意味で……」
「飼育係みたいだな」
ジェフリーさんは笑い、いろいろな動物の鳴き声を簡単に真似をした後、また俺を見てウインクした。どきっとするほどの体力が残っていなかったことで、俺は自分が想像以上に疲労していることを知った。
「ありがとうね。守ってくれて」
「……いや、リチャードも、ジェフリーさんと話したいと思いましたし」
「僕のことも一緒に守ってくれてたでしょ?」
「いやあ……」
「『いやあ』じゃないって。久しぶりだよ、こんなにパパラッチがいない場所で楽しめたのは」
ジェフリーさんはいろいろあって、ここ何年か非常に注目の的になっている。お騒がせセレブ、などと呼ばれることもあるが、俺に言わせれば『セレブって何だよ同じ人間なんだよ』『勝手に騒いでおいて何をぬかす』である。事情については割愛するが、ともかく迷惑な話なのだ。
彼は自分の分のミルキーウェイを取り出し、もぐもぐと食べた。
「これね、キムが好きなんです。しょっちゅう食べてるわけじゃないですよ。ブロッコリーと鶏むね肉が大親友みたいなやつだし。でも、うんと頑張った時なんかには『ごほうびよ!』ってもぐもぐ食べてる。あー可愛い。僕にもわけてくれるので、部屋にはもうミルキーウェイが箱であります」
「そんなにいっぱいくれるんですか」
「大阪のマダムは『飴ちゃんを持っていきなさい』ってよく仰るとか。そういう感じかと。あ、ヒョウ柄が好きな所も似てる?」
「ははは……」
俺は力なく笑い、レオパード柄のフェイクファーコートを大喜びで着ていたキムさんの姿を思い出した。激安だったのよと笑っていて、ジェフリーさんは苦笑いしていた。別に激安ではないコートもキムさんなら簡単に手に入ってしまうのだろうが、そういうことをやすやすと許さないあたりに、俺はキムさんの矜持を感じる。あと愛も。
俺は溜息をつき、ジェフリーさんは含み笑いした。
「大丈夫? 一緒に逃げちゃう?」
「やめてくださいよ。リチャードが取り残されます」
どうしようもないと知りつつ、俺は口を開いた。
「……俺、どういうポジションにいればいいんだろうなって……ちょっと迷ってて」
「あー」
「いっそのこと『ヘイ! リチャードの今の恋人です! 悪い虫はお呼びじゃないぜ!』って、ミラーボールを浴びたギラギラのスパンコールの人みたいに主張すればいいのかもしれませんけど、それはそれで弊害がありそうだし、そもそもそういう間柄でもないし……」
「あー」
「どうするのが一番あいつにとっていいのか……」
「違うでしょ。君とリチャードにとっていいのか、って考えないと駄目です。あいつは喜びません。主語は『イル』じゃなくて『ヌ』」
主語。フランス語の話だ。『イル』とは『彼』、『ヌ』とは『私たち』を指す。要するに英語でいうヒーとウィーの違いだ。
『彼』ではなく『自分たち』。
リチャードのことだけではなく、俺のことも含めて考えろと、このお兄ちゃんは言ってくれている。
俺は溜息をついた。確かに。確かにその通りだ。
「駄目ですね……昔の癖がまだ抜けない。疲れると、俺自分のことを勘定に入れなくなっちゃって、結局自滅するんですよ。永久サポート機関中田正義を目指してるのに」
「永久サポートするかどうかはおくとして、君はもっと自分のことを考えてあげないと駄目。それで痛い目を見た僕が言うんだから信じてください。大切なことですよ」
「…………『ジェフリーお兄ちゃん』って呼んだら怒りますか?」
「まさか! 大歓迎だよ。一回につき三百ユーロね」
「有料プランじゃないですか!」
「サブスクにしとく?」
俺が笑ってどつくと、ジェフリーさんも俺の背中をばしばしと叩いてくれた。元気だしなよ、という景気づけであり、切り替えていこう、という叱咤激励でもある。
もう少し頑張れそうだ。
ジェフリーさんに見送られ、俺は再びパーティ会場に戻った。三十分ほど戦ったが、ジェフリーさんが聞えよがしに「愛してるよ」とか何とかスマホで会話しながら会場を通り抜けていき、会場の全員の注目をかっさらっていったので、長丁場のバトルはそこで終わった。やっぱり彼にはまだ勝てない。
ロワールの城から宿まで戻る車を運転しながら、俺は何の気なしに、助手席のリチャードに尋ねた。俺はノンアルコールで通しているが、リチャードは少し何か飲んだらしい。薄暗闇の中でも、頬がほんのりと薔薇色になっているのがわかる。
「ジェフリーさんと何か話せた?」
「ええまあ」
「よかった。久しぶりだったもんな」
「お互いの今後について話し合いました」
「……クレアモント家の保険会社のこととか?」
「それはヘンリーを交えなければどうにもならない話ですが」
身の振り方など、と。
リチャードは特に何の含みもない口調で告げた。身の振り方。いろいろな解釈の余地のある日本語である。俺は頭を絞る。ハンドルを切り、夜中にあるまじき速度で飛ばしてくるプジョーを大きく避け、またキープライト走行に戻る。ここは右側通行の国だ。
まあ、仕事の話、と解釈しておくのが無難かもしれない。
「身の振り方かあ。俺も秘書業がんばらないとな」
「ええ。私も宝石商としての仕事にいっそう奮励するという話をしておりました」
「絶対そんな話じゃなかっただろ」
「ではどのような話だと?」
車の中に沈黙が満ちる。
何秒か黙った後、俺は謝った。
「ごめん。立ち入りすぎた」
「正義、あなたは引き返すべきではない道でいつも引き返す」
「俺は『キスをする前に顔を引っ込める男』なんだよ。お前も知ってるだろ」
「今更どの口が言うのだか」
「……必要な時にはお前はちゃんと話してくれるだろ。そうじゃないタイミングの時に割り込みたくないって言ってるだけだ」
「かもしれません。ではまた、いずれ」
そう言ってリチャードは、少し眠りますと言った。助手席で眠っている時のリチャードが俺は好きだ。世界で一番美しいたからものを運んでいる馬車の運転手や、宝石箱そのものになったような気持ちになれる。いつまでもそうして眠っていてほしい。何が起こったとしても絶対に俺が守るから。
うまくやれなかったな、と思うことが多い夜には、そんなことを考えたくもなる。
結局宿に到着するまで、リチャードはずっと眠っていた。メールボックスと各種アプリとSNSを確認すると、また『おさわがせセレブ』さんの新しいニュースがアップされていて、今日俺が話したうちの誰かが、彼の情報を売ったことがわかる。嫌な気持ちになるが、ジェフリーさんのウインクを思い出し、俺は少し笑った。
誰かを守りたいとか。
誰かのためになりたいとか。
そういう気持ちをもつのはいいことだ。だがその時に自分の身をないがしろにするのはNGである。守られた人もいい気分にならない。俺は常々これを忘れてしまうので、本当に肝に銘じなければならない。
隣の部屋でシャワーの音が消えた。『もう寝る おやすみ おつかれ』というメッセージを飛ばして、俺は部屋のあかりを消す。スマホは充電器につないである。明日はまた別のパーティだ。大丈夫、まだ働ける。
チン、と音がして、スマホが光る。
リチャードからだ。
『あなたこそ おつかれさまでした』の一言。
俺はそっと、幸せなため息をついて、スマホの画面を人撫でし、枕に頭をうずめた。