世の中には二種類の人間がいる。品定めを『する』側と、『される』側である。
その極致がこの場所なのかもしれないと、十八歳のジェフリー・クレアモントは理解していた。
「まあ素敵なお召し物。次代をになう坊ちゃまがご立派で、お父さまもさぞかし鼻が高いでしょうね」
「ありがとうございます、メアリー夫人。ですが自分は次男ですので」
「本当にねえ。こんなことは言わない方がいいのかもしれませんけれど、お兄さまとあなたが逆でしたらよかったのに」
言わない方がいいかもと思ったなら言うなよ、と思いつつ、クレアモント伯爵家の次男は礼儀正しい笑みを浮かべ続けた。メアリー夫人は近隣の侯爵家の先代当主の夫人で、御年は八十に近い。何を言われても目くじらを立てるべきではなかった。
六月のイギリスを代表する風物詩、ロイヤル・アスコット。
アスコット競馬場と呼ばれるロンドン郊外の場所で開催されるのは、王族主催の華やかな競馬だった。その実態は『社交界』と呼ばれる場所で息をする人々が勢ぞろいする宴会、およびファッション比べである。ファッションウィークのようなショーがあるわけではないが、厳密なドレスコートがあり、男性は燕尾服に帽子、女性はドレスにハットが必須である。その場に現れる王族や伯爵家など『セレブ』の面々の着ているもの、男性のシルクハットあるいは山高帽、女性の華麗な被り物は、翌日のタブロイド誌の一面を飾る。
社交界とはその内側に属する人々のためではなく、外側のためにあるのかもしれないと、随分前からジェフリーは理解していた。
だがそれがわからない人間もいる。
「ジェフ」
聞きなれた声で名前を呼ばれた時、ジェフリーは一度は聞こえなかったふりをしたが、二度目には振り向かざるをえなかった。
伯爵家の長男、ヘンリー・クレアモントである。
内臓が悪いわけでもないのに、いつも少し顔色が悪く、どこか困ったような笑みを浮かべている気弱な青年は、乱れたタイと掛け違えたボタンのまま、走って弟を追って来たようだった。ヘンリーは車が競馬場に到着するギリギリまで、きつい服を着たがらなかったので、着用に他人の手を借りることができなかったのである。
ジェフリーは微笑みながら兄をエスコートし、人の少ない木陰のテーブルまで連れてゆくと、タイを直し、掛け違えているボタンを外し、下から順に止めた。ヘンリーはそれで初めて自分の服が不調法だったと気づいたようだった。
「ああ……すまない、ちゃんとできていたと思っていたのだけど」
「昨日も遅くまでピアノの練習をしてたんでしょ。無理しなくていいよ。それでどうしたの? ご挨拶をしている最中に何かあった?」
「それが、その、何と言ったらいいのか……気を悪くしないで聞いてほしいのだが」
「気を悪くなんてしないよ! たった二人の兄弟なのに!」
大仰な台詞が悪趣味なジョークのように響いたと、先に気づいたのはヘンリーの方だった。よく言えば素直な、ありのまま言えば社交界を生き抜くのには不向きな、思ったことがそのまま顔に出てしまいがちな兄は、ジェフリーを見て曖昧な笑みを浮かべていた。
脳裏に浮かんでいるのは、『もう一人』の顔であるようだった。
「…………そうだな。本当にそうだ」
「で、用事って何?」
「リチャードからではなく、私からなのだが」
だからこういう時にその名前を出す必要はないだろ、と思いながら、ジェフリーはにこにこと兄に対応した。
本来であれば何も収納すべきではない、ぴっちりとしたシルクの上着から出てきたのは、くしゃくしゃになった写真のようなものだった。ああ、ああ、と呻いてヘンリーは慌て、髪の皴を伸ばそうとしていたが、あまりうまくいかず、結局しわだらけのまま紙を差し出した。
「何?」
「……押し花を」
「押し花」
「作ってみたのだが……」
「作ったの? なんで?」
「今年のお前の誕生日に、私は一緒にいられないから」
ジェフリーは目を見開いた。
言われてみれば確かに、六月の終わりにはジェフリーの誕生日が待ち構えている。寄宿学校の友人たちとどんちゃん騒ぎをする日であり、実家から送られてくるプレゼントを開封する日でもあったが、おおかたの場合は直前のアスコット競馬の派手な輝きにかき消されてしまう、地味なイベントだった。園遊会、現代アートのコンペ開催、馬術競技会など、数々の大イベントを抱えるクレアモント家において、次男の誕生日の優先順位は、下から数えた方が早い程度のものである。
ジェフリーは心の底から呆れた。
「ああ……あのね、ヘンリー、今日はアスコットなんだよ。そんなもの持ってきてたの。いつ作ったのさ」
「昨日の夜、その、急ごしらえというわけではないんだ。私はこういったクラフトには疎いから、しばらく勉強して、一番よくできたものを……こういうことは言うべきではないな。すまない」
今日はあちこちの人間が言うべきではないことを言いするべきではないことをする日なのかもしれないと、前髪を息で吹き上げたい気持ちになりつつ、ジェフリーはさっとしわくちゃの押し花をヘンリーの手から取り上げた。そして適切にはしゃいだ。
「うわあ! これをくれるの? ありがとう。嬉しいよ。大事にする。ところで服も整ったから、挨拶周りを継続した方がいいと思うよ。さすがにもう全部終わったわけじゃないよね」
「ああ、まだ三分の一ほどで……」
「そうかあ! それは大変だけど頑張ってね。みんなヘンリーの顔が見たいんだよ。ヘンリーに挨拶してほしいんだ。ヘンリーと関係をつないで、今後の良好な関係を築きたいと思ってるんだよ。僕じゃなくてね。うん、服も完璧。かっこいい! それじゃいってらっしゃーい」
そう言ってジェフリーはヘンリーの背中を押し、社交界の中でも最も格式の高い領域、王族から高位の貴族の係累たちが集う場所へと押していった。青色のテントで覆われている、シャンパングラスの輝くエリアである。ヘンリーはまだ何か言いたげな顔をしていたが、ジェフリーはこれ以上何も聞きたくなかった。アスコットの場にそぐわない、温かな感情やこまやかな気遣いや不器用な兄弟愛に満ちた言葉は。それはつやつやと輝く燕尾服やキラキラに輝くハットの群れには不釣り合いで、まるで踏みつぶされるのを待っている野の花のようだった。傍にいるどころか見ているだけで気まずかった。
「がんばってね!」
ヘンリーを送り出した後、ジェフリーは屋敷で父親から言いつけられていた通りの『遊撃手』として、格式こそ一流とは言えないものの、ロンドンシティで大きな権力を持っている人々の間を回遊し、顔を売る作業を再開した。ジェフリーは十八歳になった。イギリスの定める成人年齢である。おおっぴらに酒を飲むこともできるし、その他のことも何でも一人でできる年齢である。とっくの昔に成人しているはずの兄にはできないことも、数多く。
「…………まったく、気まずいのは嫌いなんだよね」
ジェフリーはちらと、青いテントの方角を振り返った。数々の野蛮な帽子に影に隠れて、優しい兄の姿は見えなかった。
「あの時もらった花の名前を僕はまだ知らないんだよ」
「ふうん?」
「うっかりしてる間になくしちゃったんだ。人が多かったからね。競馬場で落としたのかもしれない。ヘンリーには適当に話を合わせて『大切にしてるよ!』とか言ってたけど、察しがいいからね。ああなくしたんだなって、すぐに気づいたと思う」
「あなたって本当に不器用な人ねえ」
「……こんな話をして感想が『あなたって不器用』?」
「大事にしたかったんでしょ。もし本当になくさなかったら、今でもあなたの机の引き出しのどこかに、その押し花はしまわれていたんじゃないの。でも不幸にもどこかにいってしまって、あなたはそれを後悔してる。もう十年も。これが不器用じゃなくて何なの?」
「『弟甲斐のない不人情』って言われるかと思ってたんだけど」
「それはあなたの自己評価。あと後悔。私はそんなこと言わないし、思わない」
「…………本当に、あれは何の花だったんだろう。六月の花だから、定番ならバラなんだけど、そんなに大きな花じゃなかった。むしろスミレみたいな小さな花だったんだよ。おまけに実家にはイギリスでも有数の植物園があってさ、候補を絞り込もうにも多すぎてとてもとても。アザレアか、ウィステリアか、今だったら少しは花の名前もわかるんだけど、あの時はそんなこと興味も関心もなかったからな……」
「何の花でもいいじゃない。まだあなたの心の中に咲いてるんだから」
「?」
「ものはね、一過性なのよ。本物の花は枯れるし、お皿は割れるでしょ。でもそれが手元にあった時の『いい気分』はずっと残るのよ。あなたがもし、手に持って一秒でその押し花のカードをなくしたんだとしても」
「五分は持ってたよ。一秒はありえない」
「もののたとえ。だとしても、あなたがそのカードを受け取った時に感じた思いはずっと消えずに、残ってる。そういうものだからこそ、お兄さんも『押し花』にしたんじゃないの? あなたがその時からずっと忙しい人だったことなんてわかりきっていたんでしょ。しみじみとお花を眺めるタイプじゃないことも」
「……まあ、兄はそういうことお構いなしに自分の趣味でプレゼントを選ぶタイプではあったよ」
「兄弟ってめんどうくさいのねえ」
「今更? うちの家系のめんどうくささは世界を巻き込むレベルだよ」
「はーい、それはそれ。これはこれ。何にしても、お兄さんがあなたに届けたかったのは『押し花をずっと大事にしてね』ってオーダーじゃなくて、『あなたの幸せを願っている』って気持ちでしょ。それははっきりあなたの心に届いてる。何の問題もないじゃない?」
「…………もう一杯おごるよ」
「あら、ラッキー。でも今回は遠慮させて。そのかわりにお願いしたいことがあるの」
「ジミー・チュウの新作? 鞄と靴どっちか忘れたからまだ買ってないけど、そのうち」
「お兄さんに電話したら?」
「………………」
「今日私に話したこと、お兄さんにもそのまま話したらいいんじゃないの。お兄さんは器用な人じゃないとしても、あなたよりは背骨の真っ直ぐな人じゃないかと思う。そういう人には正直に話すのが一番いいのよ。私の経験則ではそう。あくまで私の経験の話だけど」
「へえ。じゃあ僕みたいに背骨がねじまがったタイプには?」
「あなたがグルグル池の周りを回ってる時に、そっと隣を歩く。それだけ」
「ははは。じゃあ『本当のことを話せ』とは言わないんだ」
「そんなこと言われたって意味がないどころか、あなたを不愉快にさせるだけでしょ。意味があってもなくても、私はそんなことしたくない」
「もう一杯おごるよ。それで今日は帰る」
「オーケイ。ドライマティーニにする」
「電話は明日する」
「…………」
「それでいい?」
「……無理しなくても」
「今日そういう話をしたくなったのも、君にそういう助言をもらったのも、ある種のチャンスだと思うからねえ。そういう時には多少無理するのもいいものだよ。これは僕の経験則」
「……あなたって本当に、野暮なウインクが上手なのねえ」
「『野暮』は余計」
「はいはい。かっこいいわよ」
「本当にかっこいいつもりなんだけどなあ」
「知ってるわよ。でも私はあなたに騙されてあげる気がないの」
「やれやれ。いつもありがとね」
「どういたしまして、ろくでなしさん」
ああそれから、と呟いた後、同じ声は朗らかに告げた。
「ハッピーバースデー」