年末特番03 タローの思い出
「本当にその名前にするのですか」
「何度も言うけど、お前にもっといい候補があるなら、そっちにする」
「………………」
リチャードは黙ってしまった。
クウゥ、と犬が声をあげる。スリランカによくいる雑種の茶色い犬で、まだ若い。一歳にはなっていないと思う。名前はまだない。
今この瞬間には、まだ。
俺たちはスリランカの社宅で、この犬と仲良くやると決めたのだ。
名前をつけるのは俺に任せるとリチャードは言ってくれた。こいつを見つけてきたのが俺だったからだ。もしかしたら俺の中に、既にひそかにこいつを呼ぶときの名前があるのかもしれないと思ってくれたのかもしれない。多少は正しい推測だ。あるにはあった。でもただの愛称のようなものだったので、リチャードのセンスに合わないならば取り下げる。
果たしてその名前は何でしょう、とリチャードが言ったので、俺は胸を張って応えた。
ジロー。
俺の中で、こいつの名前はジローだ。
リチャードは最初ぽかんとしていた。そして頭の中の時事便覧のようなものをめくり、ジローの名を持つ有名人などを調べ、犬との類似を考えようとしたらしい。リチャードにしては可愛らしい凡ミスをしたものだ。正解にたどりつくまで十五秒ほどかかっていた。
「それは……私の一匹目の犬が、『タロー』であったことを受けて?」
「ご名答。でも、もしお前さえよければの話だから」
「…………悪いとは申し上げません。しかし」
俺たちの会話はループした。
もっといい名前があるならそっちにする。いえ特にあるとは申しませんが。じゃあジローでいいか? 本当にその名前にするのですか。以下冒頭に戻る。
俺は少し、名前候補をジローにしたことを後悔し始めていた。
リチャードは昔、タローという名前の犬を飼っていたことがある。イギリスの貴族として少年時代を過ごしていた時分のことで、ジェフリーさんから聞いた話だ。そしてリチャードはジローをうんと可愛がり、死んでしまった時には隠れて泣いていたという。
生き物を飼うというのは楽しい思い出を買うこととは違う。人間というのは大体のペット生物よりも長生きするので、彼ら彼女らの命を、それこそ初めから終わりまで引き受けることになる。責任は重大だ。ましてや犬は、カメや金魚とは違う、しっかりと手間のかかる生き物だ。
でもできると思う。
スリランカ人ではない俺たちがスリランカで犬を飼うということの意味がわからないわけではない。こいつを日本に、あるいは他の国に連れていこうとしたら、物凄く大変な検疫やら何やらの作業が必要になるだろう。最近好きでブログを読んでいるスポーツ選手が、自分の愛犬を新しいベースキャンプ国に連れて行こうとしたら物凄く大変だったとぼやいていた。これから十年、自分がずっとスリランカにいるとは思わない。どこかの時点で同じことが起こるだろう。赤道に近いスリランカで生まれた犬は、日本の冬には耐えられないかもしれない。
でも、それもできないことではない。
書類作業が必要なら、俺がすればいい。予防注射が必要なら、ちょっと可哀そうだが耐えてもらおう。次の住居が寒くてつらいなら、家に暖房をいれっぱなしにして、あたたかい体育館に連れて行って遊ぼう。
俺はこれ以上、この犬が野良としてフラフラしているのを見るのが辛かったのだ。
どうにかして一緒にいてやりたくて、その思いが堪えられなくなって、こういうことをしている。
だから別に、名前をジローにすることは、俺にとってそんなに大切なことではない。それどころかおまけのようなものだ。そのおまけ要素で、リチャードを何だか複雑な気分にさせるのでは割に合わない。申し訳ない。ごめんの一言である。
俺が大体そういうことを伝えようとすると、リチャードは俺に向かって手の平を見せた。
「わかっています」
「う」
「あなたがう言わんとしていることはわかる。名前はジローでなくてもいい、私がそこまで気にするのなら別の名前にしようと言ってくださるのでしょう」
「……うん、まあ、そうだな」
「わかりました。ジローにしましょう」
え、と俺は呻いた。
リチャードがうっすらと微笑んでいる。
いや別に、俺は、リチャードの心の繊細なところにドカッと腰を下ろすようなことをしたかったわけではない。無神経なことをしてしまったんじゃないか。本当にごめん。今度は言葉にして俺は伝えたが、リチャードは微笑み続けるだけだった。
そして告げた。
「一つお願いがあります。あなたと、こちらの彼に」
そう言って、リチャードは俺と犬を促した。気弱な仕草で俺に体を摺り寄せてくる彼は、まだ一才か、一才半くらいだろう。若い犬だが、黒い瞳が力強く見える。すらっとしていて体つきは可愛らしい、かつ格好いい。だがリチャードにはまだ、少し人見知りをする。
頼みとは何だろう?
リチャードは胸から自分の携帯端末を取り出し、かなり時間をかけて写真フォルダを繰ってから、俺に液晶を見せた。
犬が一匹、写っている。ボーダーコリーだ。
「こちらがタローです」
ふさふさの毛並みが立派な犬だった。ぴんと立った耳が、まるでお坊ちゃまをお守りするという気概に溢れた騎士のようにも見える。
左右に寝そべりタローを抱いているのは、リチャードとジェフリーさんだろう。二人とも顔立ちがあどけなくて、今よりもよく似ている。今と変わらずリチャードは天使のような美貌だ。
「これ、お前は何歳くらいの……?」
「九歳のはずです。タローは四歳。今考えれば彼の晩年でした」
「…………」
犬は長ければ十年以上生きることもある。だがコリーのようなやや大型の犬の場合は、六歳くらいからシニアになるはずだ。中年での死ということになるのだろうか。つらかっただろう。
リチャードは少し寂しそうな微笑みを浮かべたまま、キッチンに向かい、手早くお茶を準備して戻ってきた。犬用にはお茶ではなく、平たい金属皿に水をいれて。これは以前この社宅を使っていた人が、鳥か何かに餌をやる時に使っていたものだと思う。おあつらえ向きだ。
「頼みというのは、話を聞いていただくことです」
「……俺とこの子に? 何の話を?」
「タローの話です」
リチャードは庭に続く出窓を開け、ゆったりとした藤椅子に腰かけた。俺にはロッキングチェアを促す。お茶はテーブルに、金属皿は足元に。
俺は椅子に腰かけ、犬は俺の膝に飛び乗った。
リチャードはゆっくりと話してくれた。タローがクリスマスプレゼントの子犬であったこと。その時のガヴァネスであった智恵子さんの故郷にあわせて日本語の名前をつけたこと。それが家中の不評を買い、何でそんな名前にしたのかと怒られた際には、ジェフリーがかばってくれたこと。タローは血統書付きの由緒正しい犬であり、狩猟が得意なはずだったが、タローはうさぎを怖がったこと。リチャードはそれが可愛くて仕方がなかったこと。かけっこがうんと早くて、走り始めたら誰も追いつけなかったこと。他の貴族の家に飼われている、障害物走レースなどに駆り出されていたレトリーバーでさえ追いつけなかったこと。そういう時には得意そうにふんふん鼻を鳴らしていたこと。リチャードがひとり、誰にも言えずに寂しいと思っている時には、いつもタローがさりげなく傍にきて、むくむくの毛皮であたためてくれたこと。タローのざらざらした舌に舐められると、つらいことが溶けて消えてゆくような心地がしたこと。でもリチャードが九歳の時に、食道の病気になってしまったこと。
「その頃にはタローは、クレアモント屋敷のりっぱな住民の一人でした。家中の人間が手を尽くしてくれましたが。当時の動物医療の水準では、手の施しようのない病であったようです。タローは大きな犬でしたが、どんどん痩せてしまって、細くなっていって、私は大して信じてもいない神に祈りました。どうかタローを助けてください、かわりに私が死んでしまっても構いません、タローを助けてくださいと。ですが、神は私の願いを聞き届けてはくれませんでした」
「……そんな願いを聞き届けたら、タローが悲しむよ」
「それでも当時の私にとっては、家族以外のたった一人の理解者だったのです」
つらかったな、と俺は呟いた。膝から降りてうろうろしていた犬が、俺たちの空気の変化を読み取ってか近づいてきて、膝の上に鼻を乗せてくる。俺はその鼻づらを撫でた。
リチャードはしばらく、手の平で顔をおしつぶすような頬杖をついていたが、ぽつりと喋った。
体が砕けて消えてしまいそうでした、と。
十歳にもならない少年のリチャードを、俺はそっと抱きしめにいってやりたかった。これまでに聞いた話からして、リチャードは屋敷の中で天真爛漫に育ってきたわけではない。カトリーヌさんという美貌のお母さんと、アッシュクロフトさんという昆虫大好きお父さんの間に生まれたものの、両親のどちらにもあまり顧みられない生活を送っていた。なおかつリチャードはとても優秀な子で、その一番星のような素晴らしさは、クレアモント伯爵本人の長男ヘンリーさんとの関係を、若干気まずくさせるほどであったという。リチャードもヘンリーさんも、今の俺は友人同士のような関係だが、二人とも繊細な気遣いをするタイプである。大人が気遣いをしてくれなかった場合、どうなるのかは目に見えている。
リチャードは泣くに泣けなかったと思う。
おそらくリチャードには、おおっぴらに泣いていい場所がなかったのだ。
ジェフリーさんには幾らか甘えられたという。それはよかったと思う。でもジェフリーさんも当時は十代になったばかりの子どもだったはずだ。胸を貸してくれる大人ではない。
「……しんどかったな」
「ええ」
「タローも悔しかっただろうな。もっと生きていたかったと思う」
「毛があります」
「えっ」
そう言ってリチャードは、写真を表示させていた端末を胸にしまい、今度は財布を取り出した。二年前の誕生日に俺が贈った革の財布だ。
その札入れの片隅に、金色のパラフィン紙のようなものが入っていた。
そっと開くと、内側にまた透明な紙が入っていて。
その中にビニールで包まれた、数本の茶色い毛があった。
リチャードが微笑んでいる。
「今でも彼は私と一緒にいてくれるのです」
「…………」
「誰にも見せたことがありません。ジェフにもです。誰にも知られないように毛をそいで、すっと宝物にしていました」
「……やっぱり名前はジローじゃない方がいい気がしてきたな。だってタローは」
「いわゆる『永久欠番』であるからと? もちろんその通りです。ですが、逆に考えていただけば、仮に同じタローという名前の犬が現れたとしても、私にとってのタローとは全く別の存在です。同姓同名の人物のようなものです。ましてやジローは、タローではない」
それはそうだ。
でもやっぱりちょっと、無神経だったようにも思う。
リチャードは俺の内奥を察したように、素早く首を横に振った。金色の髪が揺れる。
そして手を伸ばし、薄茶色の犬の毛皮を撫でた。こっちでも可愛がってもらえるんですか、と言わんばかりに、関心を得た犬がリチャードに近づいてゆく。
ぴょんと膝に飛び乗る。
リチャードはその背中を撫で、グッボーイ、グッボーイと二度言ってやった後、黒い目をじっと見て、告げた。
「よろしくお願いしますね、ジロー」
「……本当にいいのか?」
「ええ」
今度は俺を見て、リチャードはまた笑ってくれた。
そういうことになった。
俺たちは二人と一匹の家族のようになった。いやもちろんわかっている。俺とリチャードは上司と部下である。スリランカの社宅で一緒に暮らしてはいるが家族ではない。でもそんなことを言うなら、人間と犬を『家族』というのがそもそも変な話だろう。血が繋がっているわけでもなければ同じ種族でもない。
でもそういう風にペットを呼称することに、俺たちは日々の中で慣れている。
家族という言葉、いや存在にも、そういう部分はあると思う。確かにある。
だからそれでいいと思う。
「ジロー! 一緒に走れるか! 俺も負けないぞ」
ジローがジローになってから一週間後。スリランカの事実上の首都コロンボの近く、ネゴンボというサーファー御用達のビーチに出かけた俺たちは、晴れ渡った浜辺を裸足で走った。犬の脚力に人間が勝てるわけがない。だが一緒に走ろうと誘うと、ジローは目を輝かせてぴょんぴょん飛び跳ね、俺と同じ方向に走った。全然追いつけない俺をからかうように駆け戻ってきて、また同じ方向に走りだす。
後ろの方からリチャードが歩いてくる。
「おーい! お前は一緒に走らないのか!」
俺が呼びかけると、リチャードは両手に持った瓶を差し上げた。ジンジャービアだ。ノンアルコール生姜ビール。シャウルさんに教えてもらって以来、俺のお気に入りになっているドリンク。
ジローと一緒に浜辺をぐるぐる駆け回った後、俺たちはリチャードのところに戻り、二人と一匹で祝杯をあげた。ジローにはジンジャービアではなく、準備しておいた犬用のミルクを差し入れする。ぴちゃぴちゃと音を立てて飲みまくる様子が愛らしい。喉が渇いていたのだ。
「いいところだなあ。また来ような」
「私もあなたもコロンボには始終来るでしょう。ここにはいつでも来られます」
「ジローも一緒にってことだよ」
「同じ事です」
リチャードが微笑んでいる。俺も笑っている。ジローは俺たちを完全に無視して食欲に身を任せている。穏やかな海の風を頬に感じながら、俺は小さく深呼吸した。
この風景を、どこかで。
きっとタローも見ている気がする。
幸せに笑っているリチャードの姿を、きっと。