年末特番04みのるくんのいない間に
「リチャード、俺……うまくやれてるかな」
みのるくんが学校に行き、珍しく俺とリチャードの二人が家に残った朝。
気づけば俺は、そんなことを尋ねていた。
二人暮らしになるはずだった生活が、三人暮らしになってから二週間。そこそこ慣れてきた頃合いではあると思う。ありがたいことにみのるくんはリチャードにシンパシーを感じてくれているらしく――ありがとう、美貌の超人の寝起きの悪さよ――変に気を遣いすぎるようなことも、今のところほとんどないように思う。
どちらかというと、彼が気を遣っているのは俺だ。
中田さんという呼び方はようやく『正義さん』に替わったが、それでもやはり、壁は感じる。壁というか、彼が階段の同じ段に乗ってこようとしないというか、俺をずっと見上げてくれているというか。
大丈夫なのか。
大丈夫なのか中田正義――と、俺は一日に何度も自問してしまう。
具体的に何が大丈夫で何が大丈夫でないのか、考えてもよくわからない。こういう問いの立て方はよくないと自分自身わかっている。だが考えてしまう。全部のことをうまくやりたいと。みのるくんにとっていいお兄ちゃん、いい保護者でありたいと思う。そのためにできることを全部、うまくやりたい。
要するに俺は焦っているのだ。
言葉の矢を放った後、一瞬でそこまで考えてしまい、俺がくたびれた顔で肩を竦めると、リチャードは微笑んでくれた。
「うまくやる必要があると、あなたは思っているのですね」
「ああ。何だか無暗に気がせくんだ。よくないよな、こういうの」
「よい、悪いの問題ではないように思います。あなたは頑張っていますよ、正義」
「頑張ることは誰にでもできるだろ。俺はそこに結果がついてきてほしいんだ」
本当に焦っているらしい。こんなどうしようもないことを口に出すなんて、中田正義史上かなり初めてのことだ。でも許してほしい。俺も自分の人生史上はじめてのことにトライしているのだ。
俺には弟ができた。
弟は中学生になったばかりだった。
そんなにいい環境で暮らしているわけではなかった。
両親の保護もあまり期待できない。
そういう中で、俺が彼のために果たせる役割は膨大で、でもそれをうまく務められる自信はなかった。俺はひとりっこで、二十代後半だが友人たち共々独身で、中学生の親戚がいるような年齢の知り合いもいない。これが子育てに近いものなのか、そうでないのかもわからない。
でもやれることをやるしかない。
自分がみのるくんの年齢だったころ、どれだけ大人の世界に失望していたか、どれだけ大人の世界に夢を見ていたか、今の俺だってちゃんと覚えているのだから。
何でこうじゃないんだ、こうであってほしいのに、というやるせない思いがあったことも、それが未だに自分の中にたくさん巣くっていることもわかっている。
大切な時期なのだ。
一生を左右するような時間なのだ。
俺はその、誰にも掘削されていないダイヤモンド鉱山のような時間を、預かる栄誉に浴してしまった。
投げ出せるものではない。他に誰もいない。
全部のことをうまくやりたい。そのためにできる努力があるならどれほどの犠牲を払っても構わないと俺は思う。でも何をどうすれば「うまく」やれるのかがわからないのだ。本人に質問して解決することはもちろん質問するが、何をどうするのが正解なのか、みのるくん自身わからないことだってあるだろう。中学生の時の俺だってわかっていなかったことが山ほどあったように。
責任は重大だ。
しかし押しつぶされているわけにはいかない。そんな暇はないのだ。人生の時間はどんどん前に転がってゆく。あの時正義さんは全然頼りにならなかったなあとか思われようものなら、一体自分が何のためにここにいるのかわからなくなる。
そこで俺は気づいた。
俺を静かに見つめているリチャードも、「お気づきになられましたか」と言わんばかりの顔をしている。
「これ……独り相撲だな?」
「そのようにも思います。杞憂という言葉が存在しますが、今のあなたはそれに近い状態に陥っているようにお見受けします」
「…………そんなに優しく言ってくれなくてもいいからな。もっとビシッと何やってるんだお前って言ってくれてもいいんだ」
「いいえ」
いいえ、とリチャードは静かに繰り返した。
俺が改めて見つめると、美貌の男は真剣な瞳をしていた。
「あなたがやろうとしていることは、私にはできないことです。それに説教をするような大それた真似など、私にはできない」
「…………そんなにちゃんとやれてるとは思えないけどな」
「『ちゃんと』『うまく』などの日本語は、使用法を誤ると非常に危険です。何がその言葉の示すところなのか、使用者本人にもわかっていないのに使えてしまう道具のようなものだからです。しかしこの場合に限って申し上げるなら、あなたはちゃんと、うまく、やっていますよ、中田正義」
「……………………ありがとう」
俺が俯きながら告げると、リチャードはそっと距離を詰め、俺の肩を抱いてくれた。腕を回して俺も抱き返す。右足を出す。照れ隠しのダンスだ。リチャードも右足を出してくれた。どこの何の踊りでもない、似非フォークダンスを俺たちは踊る。右足も左足も揃わない。
俺が笑って肩を離すと、リチャードも笑っていた。
ああ。
うまくやれなくていい、とは思えない。そんなことを思いでもしたら、中学生の時の自分がハーッとため息をついて、だから大人は無責任なんだ、知ってたけど、と生意気なことを言うだろう。だがそいつは俺自身でもある。期待を裏切りたくない。
でも、しっかり考えたい。
そいつは俺であって、俺が今、大事にしたいと思っているみのるくんではないのだと。
独り相撲をとるなとは言わないでやる。それは恐らく無理だ。どうしても昔の自分のことを考えてしまうから。でも考えすぎるのは無駄だ。もう終わったことをぐだぐだいじりまわせるような錯覚に溺れてもいいことはない。俺にも、みのるくんにも。
それに俺には、リチャードがいてくれる。
大丈夫かな、と尋ねれば、大丈夫ですよと微笑んでくれる相手が。
これに勝る安心はない。
俺は頑張れる。
よし、と気合を入れて、俺は壁からジャケットを手に取った。カナダのグースのダウンジャケットだ。
「そのコートも長くなりましたね」
「え? ……確かにそうかもしれないな。本当に丈夫だよ。感謝してる」
「大事に使ってくださるからでしょう。それにしてもあなたがご自分のコートを地面に敷いた時には驚愕しましたが」
「びっくりさせて悪かったよ。他に敷くものがなかったんだ」
「そういうことではなく」
俺は苦笑する。言おうとしてくれていることはわかっている。そういう優しさにびっくりしたよ、嬉しかったよと言ってくれているのだろう。でも本当に大したことをしたわけじゃないのだ。目の前でつるつる滑っている人がいたら、誰だって同じことをするのではないだろうか。
リチャードは穏やかな笑みを浮かべ、俺に告げた。
「できることなら、私もあなたが雪道に踏み出す時に、足元に必要なものを敷く人間であれたらと思っています」
「…………融雪剤とか?」
「まったく」
リチャードは苦笑し、俺の肩にコートを着せてくれた。ちょっと外に出て買い物をしてくる。夕飯はカレーだ。みのるくんが好きだと言ってくれたので、おいしいカレーを作ろうと思う。
俺は彼の笑顔が好きだ。
俺がしっかりした保護者役を務められているかどうかはわからない。自信がない。
でも俺はカレーが得意だ。
だからせめても、みのるくんにはおいしいカレーを食べてもらおうと思う。
寒い季節には、あったかいものが必要だ。心にも、体にも。