「桜を見ると、俺、日本人でよかったなあって思うんだよ。順序が逆かもしれないけど」
「左様ですか」
「きっと日本で生まれて、毎年三月か四月に花見をして、なんとなくそれがいい思い出として心に残ってるから、桜を見るたびいい気分になるんだろうな」
「では、今のあなたはいい気分というわけですね」
「うん。まあ桜だけが理由じゃないけど」
ピンク色のちょうちんでかざられた川沿いの街は、山手から少し歩いた、のんびりとした地区にある。毎年さくら祭りという、わりとそのまんまの名称のお祭りがおこなわれていて、ちょうちんのあかりに照らされた夜桜を眺めながら歩けるのだ。こういう催しを見るたび、俺は日本の治安の良好さをひしひしと感じる。時刻は夜の十時になろうとしているが、当たり前のように幼い子ども連れの親もいる。いいところだ。
ピンク色の桜の花が咲いている。
闇の中を流れる舟のように散る。
かすかな甘い匂いが、夜の貴婦人の香水のようにただよう。
俺はこの花が好きだ。
エトランジェでの仕事を終えたリチャードと合流し、横浜の街を歩く。俺にはこれから大仕事が待ち受けているが、もうそのことについてクヨクヨ考えるのはやめた。『大仕事』の主役は俺ではないし、強いて言うなら俺はその主役を盛り立て、支える、ガードレール兼きゃたつ兼クッションみたいな役割になろうとしているのだ。何が起きてもがっちり受け止める準備さえできていれば、それでいい。
「眉間の皴が、少し浅くなりましたね」
「えっ、ああ、そんなに怖い顔してたか」
「思いつめているように見えましたので」
「サンキュ。もっと怖くない顔になるようにする」
「あなたの顔は怖くない。どちらかというと緊張が伝わってくるだけです。ぱっとみて親しみ深いと思ってもらえる顔ですよ」
「だったらいいなあ。一応言っておくけど、お前の顔も全然怖くないぞ。あと今日もすごくきれいだ」
「それはどうも」
前を歩いていた女性の二人連れが、ぎょっとした顔で俺たちを振り返る。会話を聞かれていたのかもしれない。うわっ、という低いうめき声が聞こえ、次に二人がリチャードの顔を凝視するのがわかる。こういうリアクションも久しぶりだ。ヘイお嬢さん、人間はマネキンじゃないですよと、冗談めかして日本語で告げる方法を俺は知らない。
ありがたいかんばせを持つ上司の腰に腕を回し、こっちこっちさあこっちとエスコートし、二人の女性を追い抜き、遊歩道の先へと歩くと、リチャードは少し笑った。
「おそれいります、ガードマンさん。ですが気にするほどのことでもありません」
「俺は気にするけどな。日本語で平気か? それとも英語か、何か別の言葉にする?」
「日本語にしましょう。せっかく日本にいるのです」
「了解。関西弁と信州弁どっちがいい?」
「もうええわ」
「お後がよろしいようで」
俺たちは学生のようにふざけながら、夜桜の下を歩いた。
これもまた、祭りだ。
象のねりあるくペラ・ヘラとは違う、静かで穏やかな時間だが。
人々がこの場所を、空気を、時間を、大切に思っているのが伝わってくる。そして自分もその一部として、仲間にいれてもらえている喜びを覚える。
祭りというのは、民俗学か何かの言葉でいうところのハレの空間だという。
その場所では外と内の境目があいまいになる。内で暮らしているものも、外からやってきたものも、同じように祝祭を味わうのだ。
祭りは、たぶん、エトランジェに優しい。
そしてどこか、自分も他人に優しくしたいという気持ちにさせてくれる。
もちろん神輿をかついでわっしょいわっしょいしている時にもそんな気分になれるかどうかと考えると異論の余地が相当ありそうなので、これは今の気持ちと桜のおかげも多分に存在すると思うが、でもおおかたのところは、そんなものなのではないかと思う。
甘酒の屋台が出ている桜並木のおわり、老夫婦が立ち上がって去っていったばかりのベンチに、俺たちは入れ替わりに腰掛けた。見上げると九分咲きの桜が、幾重にも夜空にアーチを描いている。
来年も俺は、この祭りに来るだろうか。
来られるとしたら、誰と来るのだろう。
そもそも、そういう時間があるだろうか。
わからない。ないかもしれない。
「また皴が深くなりました」
「あー……駄目だな。ちょっと気を抜くといろいろ考えちゃうんだ」
「そういう時もあります。あまり気にせず、好きなだけ考えるのもいいでしょう。あなたはどうせ明るい方を目指して戻ってくる」
「だったらいいけどな」
あのう、という声を聴いたのはその時だった。
白いブラウスの女性二人が、俺たちの方を不安そうに見ている。さっきリチャードの顔を凝視していた二人組だ。
嫌な予感を覚えつつ、俺は作り笑いを浮かべ、リチャードと二人の前に立ちふさがった。
「こんばんは。どうかしましたか」
「あの…………さっき……」
「はい」
「…………失礼なことをしちゃったのを……謝りたくて……」
おや。
目を丸くする俺の後ろから、美貌の上司がそっと腰に腕を回し、下がっていろと俺を押しのけた。七色に輝くダイヤモンドよりもまばゆく、リチャードは微笑むことができる。俺の角度からその顔は見えなかったが、女性二人のリアクションを見ていると、どういう顔だったのか大体は想像がつく。芸能人を目の当たりにしたように、二人は目を輝かせていた。
「こんばんは。よい夜ですね」
「日本語……お上手ですね……!」
「綾、そういうこと言うのも失礼になるんだよ」
「あっ、ご、ごめんなさい。日本で暮らしていたら、それは日本語、上手ですよね。すみません」
「どうぞお気になさらず。それよりも、追いかけて謝ろうと思ってくださったことに感謝します。おふたりは誠実な方ですね」
綾と呼ばれた女性は、自分は小学校の先生だとリチャードに自己紹介した。隣にいるのは彼女の地元の友達。
「私、子どもにものを教えてるのに、いざ自分の立場になると、失礼なことをしてしまって、恥ずかしくて……『悪いことをしたと思ったら謝りましょう』って教えてるのに、自分がそういうことできないんじゃ、嘘つきになるので……」
「すみません。私たちの自己満足ってことはわかってます。お二人の時間を邪魔するつもりはなかったんです。綾、もう行こう」
「はい。本当にすみませんでした。ありがとう美月」
そう言って二人は去っていった。
リチャードはくるりと振り返り、俺の方を見た。そしてにっこりと笑った。
俺はぽかんとしていた。
「…………ちょっと離れてる間に……いい国になったな……?」
「そのように思います。もっとも、全ての場所が一様に変化しているとは思いませんが」
「いや……でも……いい子たちだったなあ……! ちょっと感動した……!」
「あれを『子』と呼べるような年齢ですか、あなたは」
「ああ、ええと、失礼をいたしました。善処いたします」
「そういう話でもないのですが……」
やれやれと言いながら、リチャードは再びベンチに腰を下ろした。俺も隣に座る。
万物は流転する。世界は変化する。留まらない。流れ続けてゆく。川に落ちた桜の花びらのように。
それがどこへ流れつくのかはわからない。
でも。
「……あんまり心配しないことにしようかな」
「それがよろしいかと」
「考えても仕方ないしさ、突発的に困ったことが起きるのと同じに、突発的にいいことが起こるかもしれないし」
「そうですね」
リチャードは澄ました顔で告げる。仕事終わりだというのに疲れた素振り一つ見せないこの男に、俺は本当に救われている。でも俺ももう、救われてばかりではない。しめるところはしめてこそ、アラサーの中田正義である。
「というわけで、今夜はつきあってくれよ」
「どちらへ?」
「いい店見つけておいたんだ。横浜のとっておきの夜グルメ」
「今から食べるのですか」
「あんまり量は出さないで、うまいものをちょっとだけ食べさせるってタイプの、健康志向の店らしい。さすがの都会だよな」
「そういったお店は完全予約制なのでは?」
「おっと、こんなところに予約完了メールの控えが」
「ジェフのようなことをするようになってきましたね……」
リチャードは苦笑しながら立ち上がった。俺も後に続く。道をゆく人が俺の上司の顔をみてあれこれ言っていると思った時には前に立ち、そうでない時には隣に。もういつの間にか自然にできるようになってしまった『中田しぐさ』のような動きだ。リチャードはそれを嫌がらない。そうでないと俺が落ち着かないこともわかっているのだろう。
「タクシーに乗ってく? 歩いても十五分くらいだけど」
「では、歩きましょうか」
「オーケー」
ぼんぼりの明かりが桜を照らす。
祭りの夜はもう少し続く。
終わってしまうのが惜しいほど、きれいな夜が。