年末特番01 ダウンジャケットの話
俺、中田正義がエトランジェに勤め始めて初めての冬。
銀座に雪が降った。
昨日に続いて、この冬二度目の雪だ。
店に入った時にはまだ降っていなかったが、三十パーセントの予想で夜からは雪だったので、俺もリチャードも傘を持っていた。だが想定外だったのは、前日の雪がとけて凍り付いて、路面がツルツルになっていたことだ。スケートリンクの上に雪が降ったところを想像してもらいたい。そんな感じだ。
俺はフォーマルめとはいえ運動靴をはいていた。最近セールで買ったダウンジャケットと同じ黒色である。裏はゴム。雪でもある程度は大丈夫だ。
だがリチャード氏は革靴である。
それはもちろん、難儀している。
エトランジェの出口である階段を降り切ったところで、リチャード氏はテナントの壁につかまったまま硬直していた。棒立ちになっているわけではなく、絶妙なバランスを保って立ち続けようと努力しているのだ。二本の足と、壁につかまっている手の力とで。
地面が激しくスリップする。
上の方にうっすらと雪が、その下の地面が凍っている、という最悪のコンディションの地面に、あろうことか革靴のリチャード氏は降り立ってしまったのである。
俺も似たような地面に立っているのでうまく助けに行けない。ダウンジャケットの腕をいかめしく組みながら、俺は後から出てきた上司を見つめていた。
「……なあ、大丈夫かリチャード」
「問題ありません」
「見るからに問題ありそうだぞ」
「そうでしょうか? ともかく、あなたは先にお帰りになってくだっ、うっ……うむ……」
一歩踏み出そうとし、途端にリチャード氏はすってんころりんしそうになった。そのまま足をプルプルさせながら階段でふんばる。
正直面白い。バランスを保とうとして姿勢を低くすると、重心が移動してしまったらしく下半身だけが前に滑る。俺はこらえきれなかった。
「正義?」
「ごめん、本当にごめん! あはははは! うはっ、うははははは……!」
はははは、わはははは、と笑う俺を、リチャード氏はきっと睨んだ。申し訳ない。でも面白いのだ。いつも完璧超人のように澄ましている成人男性が、雪に翻弄されてあわあわしている。
ごめん、ごめんとハンドサインしつつ、それでも笑いが止められない俺は、ひーひー呻きながらダウンジャケットを脱いだ。そのままリチャードの足元にひろげる。
「これ踏んでくれ。マットレスがわり。ひい、ひいい……ごめん。もうちょっと笑う。俺ツボに入ると長いんだよ……ほんとごめん……うっははは……」
それから俺はしばらく、あさっての方角を向いて笑い続けていた。リチャードを見つめたまま笑うよりよっぽどましだろう。
気づいた時には俺の笑いの発作は終わり、リチャードは無事に凍っていない地面に立ち、雪まみれになった俺のジャケットを持っていた。足跡もついている。文字通りの『立ち上がり』に、俺のジャケットはしっかり貢献したようだ。
功労賞のジャケットを受け取ろうと手を伸ばすと、リチャードは黒いごみ袋のようになった上着を持つ手を、すっとひっこめた。
そして俺の顔を見る。
「一年足らずの付き合いではありますが、あなたは興味深い人間です」
「…………笑ったのはマジでごめん。子どもでもないんだし、自分でも正直どうかと思うよ」
「そういう意味ではなく」
このダウン、とリチャードは視線を落とした。俺はジャケットの内側を地面側にして敷いたので、湿った氷と雪が内側についている。笑っている間、中途半端にノリの乾いた厚紙をぺりぺりはがすような音が聞こえたのは、俺の上着を地面からはがす音だったのだろう。
奪い取るようにジャケットを受け取り、内側をはたく。多少土と水がついてはいるが、何も泥道に広げたわけじゃない。これなら普通に着られるレベルだ。
袖を通そうとすると、リチャードは俺を留めた。
「あなたはそのジャケットをとこでお買い上げに?」
「……えっ、高田馬場の量販店だけど」
「承知しました。この後お時間はありますか。業務時間外ではありますが、少しだけ寄り道をさせます」
「菓子だったら次の土日までに買っておくけど?」
「お急ぎですか?」
そんなことはないけど、と俺が肩を竦めると、ではつきあいなさいとリチャードは告げた。雪の銀座をおぼつかない足取りで歩く。俺は赤ん坊のペンギンの行進を見守る親ペンギンになったような気持ちで、用心深くリチャード氏の背中を守った。倒れそうになったら支えなければ。
そして。
辿り着いたのは銀座二丁目の百貨店だった。やっぱりデパ地下が目的だったのか。
「生ケーキとか……?」
「紳士服売り場に向かいます」
「服」
――まさかとは思うが。いやそんなまさか。
しかし俺の「まさか」予想は、何と言うことか、当たってしまった。
「好きなジャケットをお選びなさい」
「……いや! これ! サンキュッパだからな!」
「さんきゅー……?」
三千九百八十円だと俺が補足すると、なるほどとリチャード氏は頷いた。大変面白い日本語を聞いたとでも言わんばかりである。こっちは困惑している。
連れてこられたのは、外国のブランドの高級アパレル売り場だった。アウトドア的なグッズも多く揃っていて、バックパックやアウトドアハットなども並んでいるが、主力商品は冬の定番ダウンジャケットだ。赤、白、ネイビー、いろいろな色、いろいろな形のジャケットがハンガーから釣り下がっている。しっかりした作りで、撥水化工とかグースの羽根だとかさまざまなポイントが巨大なタグに描かれている。
値段を確認するのも怖い代物だ。
当然のようにリチャードは、さあどうぞと俺を促す。いや、さあどうぞじゃないだろう。
「本当に買ってくれるって言うなら、高田馬場じゃなくてもいいから、どこかの量販店に寄ってくれ。そこで選ぶよ。これじゃ俺が地面に敷いた服と釣り合わない」
「正義、あなたはハリウッド黄金期と呼ばれる一九一〇年代のスターを知っていますか」
「知ってるわけないだろ……!」
「左様ですか。そのむかし、早川雪舟という日本人男性が、黄金期のハリウッドを魅了していたことも?」
「知らないよ。ああ、また蘊蓄が始まったぞ……」
リチャードは俺の嘆きを気にせず話を続ける。残念なことに俺はこの男のトークがとても好きで、腰を折る気にはなかなかなれない。
「雪舟は独特の魅力を持つ俳優でした。特にご婦人に人気があったことで有名です。彼が水たまりの前に差し掛かると、ファンの女性は彼の前に毛皮のコートを投げたという逸話が残っています。彼の足が泥水で汚れないように」
「毛皮を?! 水たまりに?!」
「はい」
さすがにヤバすぎる。そしてそれを今俺に話してくれるというのも若干ヤバい気がする。俺がやったのはただのダウンジャケットによる滑り防止マット作戦、およびリチャードが頭を打って倒れたりするのを防ごう作戦で、それ以上の意味はない。
若干、俺が引いた顔をしていると、リチャード氏は嘆息した。
「最後まで話を聞くように。過去、私は実際に、毛皮のコートを足元に投げ出されたことがあります」
「…………?」
「踏め、という意味です。下は泥の道でした」
「お、おかしいだろ。明らかにそれやった人はおかしいぞ」
「私もそのように思います。怖いとも思いました。ゆえに私はコートを迂回して歩き、足はドロドロになりましたが、それが正しかったと思ってもいます。あの時に感じたのは、純粋な恐怖でした」
想像する。泥道を歩いているところを。普通のことだ。ちょっと足が汚れるくらいなんてことはない。しかしそこにコートが投げ出される。踏んでいいよと。
正直それは怖い。関東在住男子大学生という、世の中怖い物なし選手権属性別部門があったら、かなり上の方に行きそうな属性の俺であっても肝が冷える。何なんだそれは。
どんな対価を求めての行動なんだ。
金では払えないようなものを要求されたらどうしよう。
俺がぞっとしていると、リチャード氏は軽く肩を竦めた。さっきの俺の真似をするように。
「しかし、今回のあなたにはそういう怖さを感じませんでした。あなたが笑っていたからでしょう。足元にコートを置いてくださったのは、笑いが止まらないという罪悪感もあったのでは? ともあれ私は救われました。恐らくあなたが思うよりも、一つぶん多く。これはそのお礼です。そもそも自分が踏んだものを恩人に着せるというのは、私の感覚ではありえない恩知らずです。こちらのコートはいかがですか? 北米のグースのダウンだそうです」
「高い高い高い高い。値札を見てくれ。言っただろ、俺のコートはサンキュッパだったんだよ」
「こちらもほぼ『サンキュッパ』では?」
「桁が違ってるって……!」
押問答を繰り返した末、リチャードは美しい笑みでゴリ押しして――俺はこいつの美貌にのまれると、ああ美しいな以外のことがあまり考えられなくなる。若干困る――俺に高級ダウンを受け取らせてしまった。ブランドの紙袋の中に、俺の『リアル』サンキュッパのダウンが畳まれて収納されている。おお、町田に暮らす母ひろみよ。俺は高級な服を着るようになってしまった。何なんだこの状況は。
「リチャード」
「何か?」
「俺、大したもの何も返せないよ」
本当に。
何も返せない。
こんなにもらっていい人間じゃないんだ、と。
お店の人を困惑させないよう、俺が表情だけで訴えかけると、リチャードもまた表情でお返しをしてくれた。麗しの微笑み。どことなく仮面を思わせる強さをまとった、硬質な微笑。
「最初にくださったのはあなたです。あなたが私に贈り物をくださった。これは私からあなたへのお返しとお思いなさい。長く着られるものを選んだつもりです。次に私が転びそうになっても、この服は投げ出さないように。多少、バランスを崩すことはあるかもしれませんが、私は一人で立つことができます」
一人で立つことができます。
俺はその言葉に、少しひんやりしたものを感じた。今日の雪のように。
自立した大人の人間は、もちろん一人で立つことができるだろう。敏腕宝石商、しかも国境を越えて身を立てているリチャード・ラナシンハ・ドヴルピアン氏であれば、他人の一本立ちを助けることさえできるだろう。言ってみれば当たり前の話だ。
それでも、何となく、俺はその言葉から零下の温度を感じた。
これ以上こっちには入ってくるなよというような。
親切にはしたけれど、それ以上の意味はないぞと。
俺はさわやかな笑顔に、ちょっと呆れたようなニュアンスをのせ、ははっと笑った。
「わかってるよ」
中田正義も既に二十を超えている。大人だ。だからこんな作り笑いもできる。毎回毎回コミュニケーションの中に真心パンチをこめる必要はない。そんなことをしていたら相手も自分も疲れてしまう。適度な軽さは処世の必須科目であり、自分と相手への思いやりでもある。
リチャードは薄く、微笑んだ。どこかほっとしたように。
「それでは、今日はここまでにしましょう。お疲れさまでした」
「本当にありがとな。これ大事にする。それから笑っちゃったこと、改めてごめん」
「お気になさらず。それでは」
そして俺たちは、寒風吹きすさぶ銀座の街で別れたのだった。
まるで最初から、互いの人生に踏み込んだことなどない、赤の他人同士のように。
「……正義、これは何でしょう」
「あー、クリスマスのパイ、的な?」
「調理手当をプラスアルファで支給します」
「いいって、いいって! 趣味みたいなものなんだよ! このパイは三分の一ずつフィリングが違って、ここはかぼちゃで、こっちは鶏肉のそぼろ、こっちは実は栗きんとんなんだ。正月までいける創意工夫」
「手当はサンキュッパにしましょう」
「だからいいって! お前のサンキュッパは怖いんだよ!」
「サンキュッパですので」
「壊れた機械みたいになってるぞ!」
そしてリチャードは、一度エトランジェの奥の部屋――店主しか入れない――に去り、茶封筒を持って戻ってきた。中身を改めると、なるほどサンキュッパが入っている。三万九千八百円である。まったくこの男は。
「原価換算で幾らかかったのか、メールで送ろうか? パイシートが特売で四百円だろ、かぼちゃは冷蔵庫の残り物で……」
「ノー。あなたはそこに『私的時間を活用した労働』という金銭換算困難なものを含めていない。受け取りなさい。これは私が受け取った、あなたからのいただきものに対する正当な対価です」
「……やっぱ俺、料理の腕褒められてる? プリンだけじゃなくて?」
「さて」
リチャードは適当に言葉を濁し、しかし優美な角度で顔を傾けて笑ってくれた。ああ、美しい。この美しさでどのくらい俺が報われているのか、この男はきっとわかっていないと思う。
それからしばらくの間、俺たちの間ではサンキュッパがはやった。多少の弊害もあった。そして俺はスーパーで三九八円の魚の切り身や、アパレル店で三九八〇円のセーターを見たりするたびに、噴き出しかけてしまうのである。でも同時に、心が少しあたたかくなるのも感じる。カナダの高級ダウンジャケットが暖めてくれるのは、察するに俺のフィジカル面だけではないらしい。