年末特番02 ホテル滞在
大型ホテルはある種の異空間だ。
施設の中だけで生活が完結してしまう。
寝る所はある。風呂にも入れる。食べ物を買いに行く必要もない。服は毎日洗濯してもらえる。もちろんお金はかかるのだが、今回の俺の場合、そのあたりの経費は全て丸抱えにしてもらっている。凄まじい金額になっているはずだが、今はそれは考えないことにしている。そこまで考えられるほど、メンタルが回復している気がしないからだ。
現在の俺は、いろいろあって療養中――と言えばいいのだろうか。
人生の一大事というとオーバーすぎるが、いやカウンセラーの先生には「そのくらいのことだったと思いますよ」と言われたが、ちょっと嫌な出来事があり、それで精神的にダメージを喰らっている状態なのである。しかしありがたいことに、ひろみや中田さんといった家族、そしてリチャードやその親族など、ありがたいメンバーのフルサポートを受け、俺は非常に快適な生活を送っている。快適すぎる。こんなに尽くしてもらって大丈夫なのかというくらいである。具体的に言うとホテルのすごく高い部屋に、宿泊費滞在費無料で逗留させてもらっている状態だ。いやちゃんと払いますと俺は言ったのだが、ジェフリーさんのスーパーお兄ちゃんクレジットカードパワーのため、そもそも支払いが発生しない状態らしい。世の中にはバミューダトライアングルだの水晶髑髏だのに匹敵する不思議があまた存在することを俺は実感した。ありがたすぎてちょっと困る。
ともかくゆっくりして、と。
ジェフリーさんは言ってくれた。中田のお父さんや、リチャードとも同じように。
誰も「早くよくなって」とは言わなかった。
急かすつもりなんてないのだからね、と、言外に伝えてくれるように。
「…………」
俺はいつものようにベッドに横になる。そして部屋のオーディオ装置の電源をいれる。ものすごく性能のいいステレオがついていて、最近躍進著しい音楽配信チャンネルが効き放題になっているため、何でもかんでも聞き放題である。
今日は少し元気があるので、あれにしよう、と俺は液晶端末でチャンネルを操作する。
ヨハン・シュトラウス二世の『こうもり』。
最近はオペラばかり聴いている。男子大学生がオペラ。異空間過ぎるだろと自分でも思うが、そもそも本当にここは異空間なので違和感はない。
楽しいオペレッタの調べに身を任せているうちに、俺はベッドでうとうとしていた。
次に目覚めたのは、ディンドンというドアベルの音が聞こえた時だった。反射的に体がびくりとする。外から何かがやってきたという状態を、体がかなり恐れているのだ。こういう時、やっぱりまだ回復し切っていないなと実感する。すぐにでも外に出て行きたいという焦燥感は大分なくなってきたのだが、それでもやはり、いつまでもここにいていいとは思わない。
扉を開けるとリチャードだった。ぴったりと整ったスーツ、一部の隙もない白いシャツ。美しい姿。穏やかな、それでいてどこにも無理の見えない微笑み。
「お邪魔いたします」
そう言って美貌の男は、右手の白い箱を少し持ち上げて見せた。ケーキ屋の箱だ。どこの店のものだろう。
「本日は初めて試すお店です。今日もお茶の時間につきあっていただけますか」
「もちろんだけど、このままだと俺、むくむく肥えるぞ」
「適切なタイミングでホテルのジムをご活用ください。無理に運動をしろという意味ではありませんが」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
前回の『お茶』から全く変化していない応接スペースのテーブルに、リチャードは手早くケーキを置き、ホテルのスタッフさんがきれいに洗ってくれた皿とフォークを並べた。俺はキッチンスペースで――もうこの部屋は機能的にいえば『家』である――お茶を入れる。鍋に紅茶の葉っぱを煮て牛乳を追加、砂糖を投入、ロイヤルミルクティー。
今日のケーキは甘さ控えめのコーヒークリームケーキだった。
何となく昭和の日本っぽさを感じる、バタークリームの優しい味だ。
「うん。おいしいな、これ」
「お口に合って何よりです」
「ロイヤルミルクティーにコーヒー味を合わせるのって、ちょっと意外だったけど、合っちゃうんだなあ」
「このお茶には無限の懐がありますので」
左様でございますかという感じである。軽く肩を竦めて笑って見せるが、今の俺はその顔を少しぎこちなく出力する。笑うことにも体力が必要なのだと、俺はこの年で初めて知ったかもしれない。思い起こせば音楽もつけっぱなしだ。こういうところの反応もにぶくなっている。
華やかなワルツの旋律にリチャードが微笑む。
「今日は『こうもり』ですか」
「うん。わりと元気な曲が多いよな。止めようか」
「いえ、このまま。ワルツがお好きですか」
「いや、これは好きとか嫌いとかじゃなくて……一つ面白いことがあってさ」
何でしょう、とリチャードが微笑む。俺も笑って話し続ける。今度の笑いはやや自然だと思う。
「俺、この曲を初めて聞いたの、小学校の運動会だったんだよ」
「運動会?」
俺は頷く。
どこの小学校でもそうかもしれないが、運動会の徒競走のBGMの定番は、何故か『天国と地獄』だ。チャンチャーン、チャチャチャチャというあれである。そして俺は、クラシック音楽などに毛の先ほども興味もなかった当時の俺は、全部の「それっぽい」BGMを、『天国と地獄』というものだと思っていた。作者のオッフェンバックもびっくりである。
だからこれが『こうもり』であることも、その作者がシュトラウスであることも、最近知ったばかりなのだ。
俺がそう告げると、リチャードは少しだけ深く口角を上げた。
「興味深いお話です。運動会のBGMにそういった音楽を使うというのも、なかなか異国的なセンスですね」
「よく考える本当にそうだよな。ああでも、これはぴったりかもしれないぞ」
新しく流れ始めた曲に、俺は目を細める。『こうもり』のメインテーマのような曲で、それまでにも何度か変奏が流れていた気がする。
「『シャンパンの歌』」
「え?」
「この曲のタイトルです」
そしてリチャードは、喜歌劇『こうもり』の内容を教えてくれようとしたが、腕時計を見てやめた。あまり時間がありませんので、というジェスチャーだ。だが俺はそれが本当ではないのを知っている。リチャードは誰かと話している最中に、失礼にも腕時計を見るようなことはしない。それがアルバイトの身分である俺であってもだ。多分今の俺に聞かせるには、話が少し長すぎると思ったのだろう。疲れさせてしまいたくないと気を使わせてしまった。ありがたい。元気が出たら自分で調べることにする。
「この曲の内容は、そうですね、ざっくり言うと『シャンパンを称えよう』というものです」
「シャンパンを」
「はい」
「称える」
「ええ」
つまり『酒飲み万歳』という意味なのだろうか? 俺がそう尋ねると、そうとも言えるでしょうねとリチャードは微笑んだ。音楽は進んでゆく。技巧的なアリアだが、内容が『酒飲み万歳』であると言われると、なんだかおかしみが湧いてくる。
そして思った。
「これ……あんまり小学校の運動会にはふさわしくないな?」
「そういう風にいうこともできるかもしれません」
この曲に合わせて、いたいけな少年少女がかけっこをするわけである。何だかなという感じだ。
俺が少しわざとらしく笑うと、リチャードは穏やかな表情のまま立ち上がった。使い終わった皿をとりあげる。部屋の外に置いておいて、ホテルの人に回収してもらうためだろう。
「さて、そろそろお暇いたします。明日はジェフが来る予定であるとかですが、面倒でしたらすぐに断るように。あの男の厚かましさは留まるところを知りません」
「ご忠告ありがたく受け取っておくよ」
リチャードは微笑み、去ってゆく。
俺はそれを椅子に座ったまま見送った。
どっと疲れた。
自分自身信じられない話なのだが、人と話すだけで疲労を感じる。いや立ち上がるだけで若干疲れる。自分がこういう状態なのだから仕方がないとわかってはいるのだが、いちいち新鮮に驚いてしまう。昔から体力にだけは自信がある人間だったせいもあるだろう。
音楽を消す気も起こらず、俺はそのまま目を閉じた。
短い夢を見た。
俺はリチャードと一緒に、へんなお城のような場所にいる。テーマパークなのか本当の異国の古城なのかわからない。大きなホールで、立食テーブルのようなものがあり、燭台があり、シャンデリアがある。そこにいる人たちはみんな時代がかったドレスやコート姿で、手に手にシャンパンを持っていて、乾杯乾杯とむやみやたらに言い交わしている。もくもくした白いかつらをかぶっている人が大半だ。どこからか音楽は聞こえるような聞こえないような気がするが、よくわからない。
俺はちょっと気後れしてしまった。シャンパンを持っていなかったのだ。
それもそのはず、俺は小学生だったからである。背はまだ低く、手も小さい。
どうしたらいいかな、と俺が隣を見る。見上げる位置にいるリチャードはシャンパンを持っていた。ああこういう時俺はだめだなと、謎の理由で俺は落ち込んだ。持っていなきゃいけないものを、持っていなきゃいけない時に持っていられない。こういうのはよくないところだから直さなきゃな等と考える。いや小学生なんだから無理だろうともう一人の俺が冷静にツッコミをいれるが、それでもやっぱり落ち込む。だって本当の俺は飲酒可能年齢なのだ。
するとリチャードは微笑み、そっと俺の肩に触れてくれた。
顔を上げると、シャンパンのグラスを差し出してくれる。
もらっていいのか? と俺が目を見開くと、リチャードは微笑んで頷いた。
でも俺は、少し立ち止まって考えた。
本当に受け取っていいのか? 今この状態の俺が?
そもそもリチャードだって、一つしか持っていないものを?
本当にそれでいいのか?
俺は少し考えた後、ちょっと待っててくれとリチャードに言い置いた。そして歴史的衣装の人々の波に飛び込む。立食テーブルまでたどり着ければいい。満員電車をかきわけているような気がする。つらい。着衣水泳のような気持ちだ。でもありがたいことに、徐々に視線が高くなってゆく。人波をかきわけるごとに、俺は成長しているのだ。
不思議な旅を経たような気持ちと共に、俺はテーブルに辿り着いていた。
白いテーブルクロス、花飾り、燭台、金色のリボン。
たくさんのシャンパングラス。
お客さんたちは歌い続けている。シャンパン万歳。シャンパン万歳。
俺はシャンパングラスを手に取った。細身のグラス、金色の液体、しゅわしゅわの小粒の泡。これをきっと、勝利の美酒というのだろう。
俺はちゃんと手に入れたのだ。俺が自分で手に入れなければならなかったものを。
壁際にリチャードの姿が見える。リチャードは特に歌ってはいないようで、俺の方だけを見ている。心配してくれているようだ。大丈夫だよと大人の俺は笑う。いろいろあったし、今もいろいろある最中ではあるけど、きっと大丈夫なんだ。
乾杯、と俺は大きく手を差し上げた。
その瞬間、夢は醒めた。
その日からだと思う。俺はわりあい楽しくオペラを聴くようになった。魂に永遠に焼き付く『ノルマ』のカスタ・ディーヴァに出会ったのもそのすぐ後だった。
あの時の夢は、思い返すとインフルエンザの時に見る悪夢のようなものだった。わけのわからない状況で自分を追い詰め、タスクを引き受け、苦しみの中それを達成してちょっといい気分になる。
しかし一つ不思議なことがある。俺はあの後、本当にあの謎のホールに行く機会を得たのだ。夢と現実を混同している可能性は多いにあり、記憶を上書きしてしまっただけかもしれないのだが、あの時俺が見たホールと、よく似たホールに足を踏み入れた。
実在の城ではない。テーマパークでもない。
某オペラハウスのバックステージツアーだ。
「こちらは実際に使われた『こうもり』の舞台セットです。この劇場では複数の演目がいれかわり立ち代わり演じられることがありますので、二つの演目のフルセットを立てたまま、カセットテープを差し替えるように、舞台を取り替えることができるのです」
俺より少し年上の劇場スタッフさんが、カセットを入れ替えるような仕草をして笑いをとった。言葉は流暢な英語である。そして俺たちは『こうもり』のセットの中にいれてもらった。
俺は不思議な既視感と共に、その中を歩き回った。
「シャンパンがあればいいのになあ」
「『シャンパンの歌』ね」
ラーララララー、と俺の隣の年配のご夫婦が口ずさむ。俺が残りの部分を歌うと、奥さんは嬉しそうな顔をした。
あの時大学生だった俺は、今はリチャードの秘書のようなことをしている。
人と会うだけで疲れるという、今考えると若干危険な水域を抜け、楽しく仕事をさせてもらっている。
ご夫婦と共に、他のバックステージツアー参加者のメンバーも、乾杯、乾杯という仕草をする。オペラハウスのツアーである。申し込む人間は曲りなりにもオペラ好きばかりだ。
俺は透明なシャンパングラスを掲げ、行きずりの旅人たちと乾杯した。でも何に?
とりあえずここは、人生に、ということにしておこう。