「桜を見ると、俺、日本人でよかったなあって思うんだよ。順序が逆かもしれないけど」 「左様ですか」 「きっと日本で生まれて、毎年三月か四月に花見をして、なんとなくそれがいい思い出として心に残ってるから、桜を見るたびいい気分になるんだろうな」 「では、今のあなたはいい気分というわけですね」 「うん。まあ桜だけが理由じゃないけど」 ピンク色のちょうちんでかざられた川沿いの街は、山手から少し歩いた、のんびりとした地区にある。毎年さくら祭りという、わりとそのまんまの名称のお祭りがおこなわれていて、ちょうちんのあかりに照らされた夜桜を眺めながら歩けるのだ。こういう催しを見るたび、俺は日本の治安の良好さをひしひしと感じる。時刻は夜の十時になろうとしているが、当たり前のように幼い子ども連れの親もいる。いいところだ。 ピンク色の桜の花が咲いている。 闇の中を流れる舟のように散る。 かすかな甘い匂いが、夜の貴
「二藤勝、なぜ君はSNSをしない」 「えっ?」 「そもそも登録すらしていないのか?」 ほらこれ、と、俺の高校時代の友人にして、現仕事仲間でもある鏡谷カイトは、ずいっとスマホを差し出してきた。 スマホアプリおんちを自認する俺でも知っている、大変ポピュラーなSNSの画像がそこにはあった。 注意喚起と書かれている。 【注意喚起!! このアカウントは本物の二藤勝ではありません。本物の二藤勝はSNSアカウントを持っていません。本人情報は事務所のウェブサイトを参照しましょう。なりすましにご注意ください!】 このアカウント、の後ろにずらずらと並べられたIDに、俺は目が泳いだ。いっぱいある。かなりある。 これは全部、俺になりすましている人のアカウントというものらしい。 「へえー……面白いこと考えるんだな」 「『面白いこと』とはご挨拶だな。ファンにとっては死活問題だ。君の本人アカウントだと思ってフォローした
「いいこと教えてやろうか。お前、雑用全部押し付けられてるぞ」 「そんなことはないよ、ワン。諸先輩は私のためを思ってこういったことを」 「押し付けられてんだよ。あいつらは今頃ネオンカラーのピンクのビールで乾杯してるぜ。賭けてもいい」 「ピンクのビールは飲んだことがないな……私の知っているビールというのは、どれも静脈血のような青黒い色をしていて」 「喩え方! 人間らしく適切な喩え方をしろ! 普通の人間は飲み物を血液には喩えねーの! OK? グロいだろ」 「オーケー……すまなかった。無粋なことをした……」 「わかりゃいいけどさ。ったく、ガラクタばっかりだぜ」 「まだまだ使えるものも多いよ」 海上都市キヴィタス自治州高層階。 天にも届く高さの機械仕掛けの街の片隅で、ひとりの人間とひとりのアンドロイドが作業にいそしんでいた。どちらも背中に巨大な金属の籠を背負い、筋力を十倍に増強するロボットアームを装
「いけ! そこだ! 殴れ! 殴りのめせーっ!」 「ガビー、それはサッカーの応援の言葉じゃないよ……」 「いいんだよ! これはサッカーじゃなくカルチョで、しかも『カルチョ・ストーリコ』だから! いけ! ぶん殴れ!」 「あー……痛そうに、あー、あー……」 常ならば観光客や路上駐車でごったがえす、フィレンツェ歴史地区、サンタクローチェ教会前。 その日だけは、四角く区切られ、土が敷き詰められ、四方を客席で埋められていた。 十メートルかける十メートルほどのスペースの中では、赤と白のユニフォームのチームが、ボールを奪って戦っている。スペースの端と端にゴールとされるゾーンがあり、そこまでボールを運んで行けば点数獲得である。 端的に言えばカルチョ――サッカーの試合だった。 だが、反則は、ほぼ、ない。 ボールを奪うために、敵対チームの相手を殴ってもいい。蹴ってもいい。 もっとも原始的な形と呼ばれるカルチョ、
飾り立てられた象が大通りをゆく。 ペラ・ヘラ。 俺が住むスリランカ、キャンディの名物ともいえる、仏教の祭典である。毎年夏。占星術的に縁起のよい日を選んで催行される、おしゃかさまの歯という、西洋風に言うなら聖遺物をまつるイベントだ。 美し容れ物に入った歯を、きらきらに飾り立てた象の背に載せて、街の中を練り歩く。 一年で一番、この山の街が賑やかになる日だ。 「いつからかなあ。俺、これ毎年観られるものだと思ってたよ」 「そうでしょうか。海外出張も多かったのでは?」 「まあ、それはそうだけど」 家、というかスリランカの社宅のまわりでペラ・ヘラが催行されているんだなあと思うと、その時イタリアにいようがシンガポールにいようが、俺の気持ちが象の歩く街にとんでいったものだった。お隣のヤーパーさんに電話をして、ジローとサブローの様子を尋ねたりすることもよくあったし。いわば魂が分裂しているようなものだ。キャン
子どもの時、ロンドンの劇場、ロイヤルオペラハウスにあるカフェテリアの上の飾り物が食べたかった。つやつやしたマスカットや、穴のあいた三角形のチーズ、麦わらのカバーにつつまれた胴体の丸いワインの瓶。絵本の中に出てくるごちそうそのままだったから。飾り物ではなく、本当に、食べるために置いてあるのだと思っていた。そしてそれは全部大人の――VIPと呼ばれるような人向けで、だから私には食べさせてもらえないんだと信じていた。そして私は真実、それがいつか食べられる日を夢見ていた。 本当に『大人』になって知ったのは、あれは全部飾り物で、本当に食べるためのものじゃないんだということだった。同時に私は、大人になるということの意味を知った。 夢を見られるのは子どもの間だけで。 夢に大した意味なんてないとわかるのが、大人なのだ。 窮屈なドレスに身を包んで、私はロイヤルオペラハウスのエレベーターに乗った。コヴェントガー
信仰に根差したものであれ、そうでないものであれ、『クリスマス』という文化が根差した地域において、十二月二十四日の夜は特別なものだ。俺の上司はそう言った。俺もそれはわかる。 ここ日本では大切な人たちと過ごす日だ。これもわかる。 わからないのはその先だ。 「ですから今日くらいは、あなたもご家族と共にお過ごしになっては?」 「……リチャード、俺なんか、悪いことしたかな」 「何故そのようなことを? 私は一般論として」 「せっかくクリスマス・イブなのに」 「あなたにもそれなりの」 「料理の下準備もかなり頑張った」 「上司としての福利厚生を」 「プレゼントもばっちり隠してあるし」 「隠していることを暴露してどうするのです。ご家族に顔を見せて差し上げては」 「今日のプリンの出来栄えは殿堂入りものだぞ」 「………………」 口をもにゃもにゃさせながらも、リチャードはプリンの話に食いついてこなかった。かなり、
『先日、日本へ、いきまシタ』 「ええっ」 エンリーケ・ワビサビこと、日本語の生徒にしてセッション相手の一言に、下村晴良は驚いた。二人の回線は無料動画通話アプリでつながっている。晴良の所在地はスペインで、エンリーケはイギリスだった。 「なんで日本に」 『所用、いえ、社用、ウム、ナニカ、そのようなモノです』 「所用か社用……」 でも一瞬の滞在だった、とエンリーケは苦笑いし、ひゅっと手を飛行機のように動かしておどけた。お手軽な日本語教室を始めた時に比べると、語学の上達はもとより、彼の表情が随分明るくなっていることに、晴良は気づいていた。 「一瞬でも初めての日本だったんだろ。どうだった?」 『…モウチョット滞在したかったデスネ』 「そりゃあそうだ! あー、日本か。俺も懐かしいよ。コンビニに入ったら何でもある空間って、こっちで考えると夢みたいだ
2021年11月5日 ポプラ文庫ピュアフル(ポプラ社)から 辻村七子の本が発売されました。 「僕たちの幕が上がる」 すばらしい挿画は、TCB先生です。 演劇にかける、ふたりの青年と、彼らを取り巻く舞台の人々の物語です。 デビューさせてもらった、集英社オレンジ文庫以外の場所でご本を出させていただくのはこれが初めてになります。 辻村にお声がけをくださった編集さん、「今年は無理です…(2019~2020年ごろの話)」と一度はお伝えしたものの、2021年になってもチャンスをくださったことに感謝します。 上の一行あらすじより、もう少し細かくこの物語の解説をすると、 このお話は、二藤勝(にふじ まさる)くんというアクション俳優と、鏡谷(かがみや)カイトくんという脚本演出家の二人に焦点をあてつつ、あるお芝居をつくりあげる過程を描いたもので、いわゆる『バックステー
『ハッピーバースデー・トゥー・ユー』 『ハッピー・バースデー・トゥー・ユー』 『ハッピー・バースデー・ディア・リチャード』 『ハッピー・バースデー・トゥー・ユー』 『おめでとう! 私の可愛いリチャード!』 電話口で、カトリーヌさんが歌っていた。 俺の上司は、頭が痛そうな顔でその電話を受けている。 カトリーヌさんというのは、世界のどこかで元気に暮らしているリチャードのお母さんのことである。俺と会った時、彼女は南フランスのヴィラで歓待してくれた。その後は確かオランダに移り住み、そのあとはイタリアに行って、今はどこにいるのか知らない。クロアチアだっただろうか。 その彼女が、一人息子のリチャードの電話をかけてきた。 世界共通、ハッピーバースデーのうたを歌うために。 『喜んでもらえたかしら?』 『愛して