「……目が合っちゃったんだよな」
そう言って俺、中田正義は、リチャード・ラナシンハ・ドヴルピアン氏に、しずしずと透明なビニールの包みを差し出した。袋の口には赤字に金糸で刺繍された、はなやかなリボンが巻かれている。
中身はぬいぐるみである。
ひとかかえはあるかという、淡いクリーム色のくまちゃんである。
ところで俺、中田正義はアラサーである。大学生であったことも、もはや懐かしい思い出に化けつつある。良識のなさも多少は緩和されてきたと思う。そういうのは日々の勉強だとも思う。まあそれはいい。
俺は既に、そういう人間であるはすなのに。
大事な人の誕生日に、いきなり趣味でもないものを買ってくるのはどうかと思う。
十二月二十四日。クリスマス・イブの日。
俺の大切なリチャードの誕生日でもある。
毎年プレゼントには頭を悩ませる。ロイヤルミルクティー好きのリチャードらしき茶器を選んだこともあれば、寒いシーズンだからと手袋やマフラーを選んだこともあった。手作りのケーキやプリンは、オプションとして毎年つけている。新鮮に喜んでもらえるのが嬉しい。いずれもリチャードの趣味に沿うことを是としてチョイスしているつもりだ。
だが。
今年の。
このくまちゃんは、ノーである。
俺はリチャード氏がぬいぐるみを愛好しているところを見たことがない。お客様の中にはステディのくまちゃんやうさちゃんのぬいぐるみを大事にしている方もいらっしゃるが、リチャードはそういった時にも特に目を輝かせるようなことはなく、慎み深く良識を持って、素敵ですねとかチャーミングですねとか、お客さまが喜ぶような言葉をかけるいつもの人間だった。
これはただ、俺が、自分の趣味で選んでしまったのである。
道を歩いていたら、クリスマス仕様に飾られた巨大なウィンドーの真ん中に、くまちゃんが――彼がいたのである。
首ににリボンをかけられるわけでもなく、明らかにお店の人の手作りの、金紙のかんむりをかぶって、でんと。
周囲はさまざまなクリスマスのおもちゃで囲まれていた。ぐるっとウィンドーの中のレールを走り回る、雪山のジオラマつきの赤い汽車。ピンクと青のチュチュを着た、ヘイゼルの瞳のビスクドールの姉妹。上の方には白いカイトと、イギリスの童話に出てくるような立派な帆船模型が、線で吊られて空を飛んでいる。壁際にもわっと寄せられた、それほど大きくもないツリーから下げられたスノーマン、サンタ、くるみ割り人形。足元にスノードーム。トルコ風のステンドグラス的つるしランプも、もしかしたら商品の一つなのかもしれない。
華やかなショーウィンドーの中で、彼だけが、俺の方を見ていた。
茫洋とした黒いボタンの瞳で。
目が合ったと便宜上言ってしまったが、正しくなかったかもしれない。彼はどこも見ていなかった。別に目のつけかたが手抜きに見えたとかそういうことではない。彼はきちんとしたぬいぐるみだった。構造からして手足もきちんと動きそうである。もくもくした生地の体も、抱きしめたらとてもあたたかそうで、柔らかそうだ。
でもどこも見ていなかった。
希望も何もない顔をしているように見えた。
もしかしたらこのくまは、うらぶれた感じの表情に作られてしまったのかもしれないなと、俺は足を止めて考えた。だが観察すればするほど、そんなことはないとわかる。彼はほのかな笑みを浮かべてさえいた。上、右、左と縫われた黒いとの口元は、端が少しだけ上がっている。愛想はいいのだ。ただ目が。
ぐんなりとしているように見えた。
他のおもちゃたちには見えていない、人々と自分とをへだてるウィンドーガラスが、彼にだけ見えているとでもいうように。
俺は目が離せなくなってしまった。赤い汽車が雪のジオラマの中をぐるぐる回る。俺の思考もぐるぐる回る。足元が寒くなってきた。このまま通り過ぎればいい。とはいえクリスマスディナーは全部準備して温蔵庫に入っているため、俺がこの後にすべきことは、仕事先から帰ってくるリチャードを待って、少し驚かせることくらいなのだが。
俺の横を家族連れが通り過ぎる。
お父さんと、十歳くらいの息子さんだろうか。
お父さんが言う。きれいなショーウィンドーだね。何か欲しい物はある?
男の子が言う。
「ぜんぜん! ゲーム機がいい!」
そうかあ、と笑いながら、お父さんと息子は通り過ぎていった。
俺と店を後に残して。
俺は二人家族の後ろ姿から、ウィンドーに視線を戻した。くまは表情を変えない。それはそうだ。ぬいぐるみなのだから。
だが俺はそれが、いやに切なくなってしまった。
そして今に至る。
俺はリチャードの前で深く頭を下げた。
「ごめん。これは完全に俺の趣味だ。お前へのプレゼントはちゃんと別にある。今年は手帳と万年筆のセットにしてみたんだけど、どうだろう。お前のスケジュール管理はスマート端末で完結してるから、趣味の品物みたいになるとは思うけど」
「正義」
はいなんでしょう、と俺は頭を下げた。リチャードが少し笑う。
「手帳と万年筆は後程受け取ります。ですが今は、私はこちらのくまがほしい」
「…………えっ」
「こちらをいただいてもよろしいですか」
「……いや、これは、俺がさっき、見捨てられなくて」
「お金と引き換えにひきとっていらしたのでしょう。あなたが可愛がりたいというのでしたら、私も一緒に可愛がりたいように思います。いけませんか」
「全然いけなくはないけどさ……!」
無理しなくていいんだぞという代わりに、俺はリチャードの前で多少、薄気味悪い笑みを作って見せた。リチャードはつんとする。
「可愛い子ではありませんか。しかし少々、寒々しいようにも見えます。ストールになりそうなものはないでしょうか」
「あ? ああ……昨日アフガニスタンのお客さんからもらった薄手の絨毯とか?」
「ではそれを」
リチャードの指示に従い、俺は三十センチかける六十センチくらいのミニ絨毯を持って帰ってきた。農耕をする人々が表面に織り込まれた赤紫色である。リチャードは彼の首にリボンを巻いていた。俺のプレゼントした、手帳と万年筆の入っていた、文房具店の包みにかかっていたものだろう。
シックなダークグリーンのリボンは、赤紫の絨毯ならぬストールによく合っていた。
「王様みたいになったな」
「では王冠をかぶせてあげましょうか」
「いや、いいよ! それはいいよ。ちょっとかわいそうだ」
「?」
困惑するリチャードに、俺はウィンドーの中で王冠をかぶせられていた彼の話をした。どこも見ていないようで、世界の全部を見通しているようにも見えた瞳。彼が纏っていた、ぼんやりとしたつらさのようなもの。
もごもごそんなことを言うと、リチャードは優しく、ねぎらうように微笑んでくれた。そしてくまの頭を撫でる。
「ここに微かに跡がついているのは、その王冠の跡だったのですね。店で『王冠をつけましょうか』と言われなかったのですか」
「言われたよ。でもいらないって言った」
「おやおや」
「……クリスマスに冠かぶってる人って、なんかちょっと、イバラの冠っぽいだろ」
「あなたもなかなかキリスト教圏の考え方に馴染んできましたね」
「おかげさまで」
デュッセルドルフ空港からすぐの場所で、俺たちは今年のクリスマスを過ごしている。完全に仕事の都合だ。二人のうちどちらかがいればいい仕事ではあったが、タイミングがタイミングなので、秘書中田正義もリチャードに同行させてもらっている。誕生日とクリスマスの両方を逃すなんて最悪だ。もちろんドイツのクリスマスの美しさを知らないわけでもない。
だがこの、くまは。
一抱えのぬいぐるみは想定外すぎる。
どうやって持って帰ろう、やっぱり手荷物かな、と乾いた笑いを浮かべる俺の前で、リチャードはくまの頭を撫でていた。ぼんやりした瞳のくまも、心なし安らいでいるように見える。
「名前をつけてあげましょう。何がよいでしょう、ヘススであるとか?」
「直球過ぎるだろ。あー……王冠、王冠を脱いだ人だから、エドワード? あっ今のなし」
「山田さん、あなたの記憶力のなさは特筆に値します」
「いやあバクスチャー先生ほどじゃ…………バ、バ繋がりで……バートランドとか?」
「ではバートランドに。ちなみに私の遠縁の親戚の名前でもあります」
「うおっ、そうだったんだな。会ったことある人か?」
「いいえ。戦前の方ですので。ですが写真は見たことがあります。どの写真も遠くを見ている顔ばかりでした」
俺はくまの顔を見た。
いつも遠くを見ていたというリチャードの遠縁の人と、共通点がないでもない顔つきである。俺の中ではそう見えるというだけだが。
俺はそっと、くま改めバートランドの耳を撫でた。
「……よろしくな」
「よろしくお願いします、助けてくださってありがとうございました、と言っているようです」
「……お前、ぬいぐるみのくまの言語にも通じてるんだな?」
「ご存じなかったのですか? 私は世界中の言語に興味を持っておりますので」
「他に何か言ってる?」
「あなたのことが大好き」
「…………」
「と言っているようですよ。何しろウィンドーの中から助け出してくれた人ですので」
「………………義理堅いくまなんだな、バートランド」
「そのようです」
俺はにっこり笑い、バートランドの耳をむにむにしながら告げた。
「俺もお前が大好きだよ、バートランド。これからよろしくな」
「はい、是非、と言っているようです。そしてこうも言っています、そろそろ冷蔵庫からプリンを出していただけないと、こちらの金髪の方がじれてしまいます」
「そういうことをバートランドに気遣わせるのは、家の先輩としてどうかと思うぞ」
「バートランド氏は大変察しの鋭いくまでいらっしゃるようです」
「さいで」
俺たちはそれからも数日ドイツに滞在し、日本に帰国したが、その間もその後も多少、子どもっぽい遊びがはやった。相手に言いたいことがある時に「とバートランドが言っている」と代弁させるのである。ウィンドーの中でうつろに虚空を見上げていたバートランドは、一転メッセンジャーにされてしまった。いいんだか悪いんだか、それはバートランド本人ならぬ本熊にしかわからない。
「リチャード! 弁当持ったかってバートランドが聞いてる!」
「持っています、とお伝えください」
こんな感じだ。
クリスマスは過ぎ正月も過ぎ、これからもカレンダーはどんどん進んでゆくだろう。そしてどこかでカレンダーは終わる。
だがその時間の中を、俺には一緒に過ごす相手がいる。
だからもう寂しくないのだ。
バートランドも俺も。