だからサンタはいないんだよと。
言えたら楽になったのだろうが。
それを言ってはいけないことくらい、小学生の俺にもわかっていた。
サンタはお父さんなんだよ、サンタは家族の人が演じているものなんだよと、帰りの会が終わった後で、わざわざ女の子に話しかけにいったお調子者の男子がいた。たぶんそいつには悪気はなくて、ただ自分が知ったばかりの「いいこと」をその子にも教えてあげたくて、あとは多分すこし、その子に自分を大人っぽく見せられたらいいとでも思っていたのだろうが、もくろみはあっけなく潰えたようだった。
女の子は泣き出してしまったのだ。
なんでそんなこと言うのと、泣きじゃくるその子に、だっていないんだよ、本当にいないんだよと、情報の信憑性を疑われた科学者のように、そいつは繰り返していた。そういう問題じゃないだろうと、子ども心に自分が思っていたのを覚えている。
ちなみに俺の家には、昔からサンタはいなかった。
ただクリスマス頃になると、母親のひろみが気を使って「何かほしいものがあるなら、価格次第で買っておいてもいいけれど」と、俺に不器用に尋ねかけてくれる。「いらない」「特にない」が俺のお決まりの返答だったが、それでも彼女が、参考書セットだの、はやりから遅れたおもちゃだのを買ってくれるあたりに、俺はひろみという生き物の難しさを知り始めていた。他の家ではそうじゃないこともわかっていたが、だからといってどうということもなかった。なかったと思う。大人になった今はあまり思い出せないだけかもしれないけれど。
話がずれてしまった。
ともかく女の子は泣きじゃくり、男子はちらちらと、偶然その光景を眺める羽目になってしまった俺を見てきた。俺が目をそらさなかったせいか、そいつはだっと近づいてきて、叶――その時の俺の苗字だ――なんとかしてくれよと言った。何とかって、具体的にどう。
サンタはいないんだって言ってくれよと。
そいつは俺にも加勢を頼んできた。
そんなことを言っても女の子が泣き止むとは思えない。
でもそいつは、そうすれば道が開けると思い込んでいるのだ。
俺は迷った。女の子は前の学年の時、一緒にとしょ係をしたことのある間柄で、アフリカの動物の本が好きなことも知っていた。去年のクリスマスにサンタさんに子犬をもらったから大事にしてるのと言っていたことも。
サンタはいない。それは大前提だ。
だが、それを誰かに言うことに、何の意味がある?
信じているものはまやかしだと言って、何かの得があるのか?
小学生の俺がそこまで明確に考えていたとは全く思えない。ただ気まずくて、逃げたくて、でも逃げられなくて、うーうー唸っていたと思う。俺たちのまわりにはギャラリーができてしまって、泣いている女の子は級友の女子たちに慰められ始めていた。その子たちはきっとまなじりを決して「わかってるでしょうね」という目で俺を睨む。巻き込まれ損だ。
隣では俺の友達が、なあ叶、叶、おれ嘘ついてないよなと、彼もまた涙ぐみながら加勢を求めている。
それで――
「それで、どうしたのです?」
「……どうしたんだったかな、確か…………何も言えなかったと思うんだけど」
「大変なクリスマスでしたね」
「いや、クリスマスじゃなかったよ。たしか学校は二二日までだったと思うから」
「ところでそちらのケーキは食べないのですか」
「食べます、食べます」
タルト生地の上にプリンをのせ、その上に生クリームとメレンゲ菓子で飾り付けした特製ケーキを、俺はそっと美貌の男の前から引いた。まさか丸のまま食べようとしていたわけじゃないよなと俺が目で探ると、そのようなことは全く考えておりませんと、容姿端麗な男はすまし顔をする。つまりある程度は考えていたらしい。食いしん坊の子どもか。
キッチンでケーキを切り分けて、一度に摂取するのに適切な分量を目の前に置くと、それでも俺の上司は満足してくれたようで、高速でぱちぱちとまばたきをしてから、エクセレントと呟いた。そいつはよかった。
だが彼は、ケーキに手をつけようとはせず、
「それで?」
「……ああ、さっきの続き? それで終わりだよ。先生が来る前に、流れ解散だった」
「いるもいないも答えることなく」
「うん」
「なるほど。ではあなたは、その後どんな気持ちでおうちまでお帰りになったのですか」
「……………………」
それは、いろいろ、考えた。
全てのもやもやをぶった切って、サンタはいないと言えたら、いくらかは楽になったことだろう。でも子どもながら胸が痛む結果になるであろうことは予想できた。
ひるがえってい、いや、いるよ、と言ったらどうなっただろう。あの女の子は少し救われたかもしれない。でも俺の苗字を覚えていてくれたあの男子を、名前の思い出せないあの子を、嘘つきだと弾劾することになる、そんなのはだめだ。
わかんないよ、と言えばよかったと思う。おれにはわかんないよと言って、もういいから帰ろうよとみんなに言えたら、一番理想的だったと思う。でもそれは大人の俺の感傷だ。そんなことはできなかった。
もやもやしたまま家に帰って、その日ひろみは夜勤だったので家でオイスターソース味の何かを作って食べて、テレビを見て寝た。それだけだった。
その年のクリスマスに何をしたのかは覚えていないから、多分いつも通りの、俺かひろみの手料理を食べて、勉強の役に立ちそうなプレゼントをひろみから手渡しされて、ひろみの愚痴を適当にテレビで聞き流す夜だったのだろう。ショートケーキを食べたかもしれない。それは覚えている。
日本よりもクリスマス行事を丁重に扱うキリスト教文化圏で生まれ育ち、ゴージャスな宴を何年も経験してきたであろう男は、そうですかと頷いた。同情されている感じはしない。そういう男ではない。ただ俺の昔話を、この男はいつも楽しそうに聞いてくれる。俺はそれをとてもありがたいと思っている。どちらかというと、俺の胸の奥のほうにまだ住んでいる、幼い頃の『正義』という生き物が、そのやりとりを通して成仏しているような気がする。いや俺はまだ死んでいないので、『成仏』という表現はどうかと思うが。
うかばれる。
なんだかそんな気がするのだ。
「サンタはさ…………いるんだよな。いるんだよ」
「私もそう思います」
人々の優しい心の中に。サンタクロースを信じている子どもを、そっと支えてあげたいと思う大人の心の中に。確かにこの世界には妖精も人魚もいないけれど、だからといってサンタクロースまでいないというのは早計だ。
幼いころの俺には、そんなことはわからなかった。
サンタはいない。
いないとわかっていた。思っていた、ではない。わかっていた。
いないから、俺自身がどうにかしなければならないこともわかっていた。
たとえば「サンタがこなくなるよ」という文言で窘められる子どもたちのように、親に迷惑をかけるとか、先生に呼び出されるとか、不注意で大ケガをするとか、そういうことにはできるだけならないようしなければならない。サンタはいないのだから。
小さいころの俺にとってサンタとは、子どもむけの絵物語で、「よい行動をする」ための、エサのようなものだと思っていたのだ。
優しさとか、そういうものではないと。
だってそれならどうして俺のところにサンタが来ないのだ。
ひろみは俺に優しくしてくれているのに、何故サンタが来ないのだ。
まわりの人間の優しさにサンタは関係ない。どちらかというと余暇とか個人の経済状況とか家庭環境とか、そういう要素に左右されるのがサンタだ。だからいないものはいないのだ。
人によって。
「ああ…………俺、将来の夢、物心ついたころには『公務員』って書いてたけど、ひょっとしたら『サンタ』って書きたかったのかもしれないな」
「サンタですか」
「無差別級のサンタな。目が合った子ども全員にプレゼントをくばる。最高すぎるだろ。今からでもそういうことやってもいいな」
「憚りながら、子どもたちの親の立場から考えてみると、それはいささか踏み込みすぎかと」
「あははは。まあそうだよな」
誰だってサンタになりたい。
大人はみんなそうだろう。
大切な相手に、特別な思い出をプレゼントする人間になれるなんて、夢のようだと思う。
それを横取りするなんてとんでもないことだ。
まあ、でも。
俺にも一人はいるわけなのだが。
サンタをさせてくれる相手が。
「そうだ、これは今年のサンタから預かってきたんだけど」
「おや、そのようなことがあったのですね」
「あったんだよ」
はいと言いながら、俺は懐に隠していたプレゼント包みを差し出した。ほっそりとした白い指が、するするとリボンをほどき紙包装を剥いてゆく。あらわれたのは鈍い銀色にひかるキーホルダーだった。実用性重視が売りのドイツのブランドだ。
「キーホルダー、ですね」
「最近、ちょこちょこ居住拠点が増えただろ。ちょうどいいかと思ってさ」
「と、サンタが仰せになったのですね」
「そうそう、そうなんだよ」
「それで?」
それで? と俺が問い返すと、美貌の持ち主は微かに首をかしげて、挑むような目をして見せた。十才の子どものようだ。
「サンタからの贈り物はたしかに承りました。とはいえ、このようなことを申し上げるのは非常に心苦しいのですが、あなたからの誕生日プレゼントを受け取っておりません」
「あーそうだっけ」
「そうです。今日は十二月二十四日ですので」
「お前の誕生日だよな」
「そうですとも」
「とりあえずそのケーキを食べたらどうかな。おいしくできてると思う」
「…………ではそうしましょう」
すました顔をしながら、麗しの宝石商はぱくぱくとケーキを食べた。ただしはじめのうちよりも、若干慎重な手つきで。ありがたい。
三口食べたところで、手が止まる。
フォークの先に何かが当たったようだった。
貴重な恐竜の骨をほりだす考古学者のような手つきで、美貌の男は『それ』を発掘した。
ケーキの中に入っていたのは――銀色の人形である。
「ガレット・デ・中田」
「……は?」
「いや、意味は『中田のお菓子』なんだけどさ。『ガレット・デ・ロワ』にあやかって」
「それはわかっています」
ガレット・デ・ロワはフランスの伝統菓子で、クリスマスではなく新年に食べるのが一般的なのだが、何かと忙しい新年にケーキを焼いている暇はないので――そんなことを言うならクリスマスだって仕事は忙しいのだが、この日に時間を捻出できなければ俺は憤死すると思う――ちょっと予定を前倒しにさせていただいた。
中に忍ばせたのは、プラチナの天使の人形だ。
金髪碧眼のひとみはアクアマリン。胸元に抱いているのはダイヤモンド。どれも小さいサイズなので、それほど価値のある品ではないのだが。
リチャードは素手で天使をとりあげ、キッチン流しで水洗いして戻ってくると、ことんとテーブルの上に置いた。
「かわいいだろう」
「……勘違いでなければ、こちらはエトランジェが懇意にしているフランスの職人の手によるものだと思われますが」
「やっぱり一発で見抜かれるか。あの人の仕事は独特だもんな」
「オーダーメイドを?」
「実はこっそり」
してやったりの顔で俺は笑った。俺の上司はやれやれという顔だが、口は笑っている。よかった。喜んでもらえたらしい。そして作戦も成功して何よりだ。きちんと目印はつけておいたのだが、ケーキの中で位置がずれていて「切り分けた分に人形が入っていませんでした」では泣けてしまう。
俺はソファから立ち上がり、目の前の相手に一礼し、にっこり笑った。毎年恒例の儀式のようなものだ。そしてはっきりと告げる。
誕生日おめでとう、リチャード。
幸せを運ぶ天使が、俺の大事な相手のところに、そりにのったたくさんのプレゼントのように、数えきれないほどの喜びを運んでくれることを、小さなサンタは心から祈っている。
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2020/12/24 書き下ろし
Happy Birthday and have a Happy Christmas!!