2022クリスマスSS / Noel

December 24,2022

十二月二十四日。クリスマス・イブ。人々の気分が浮き立つ日。

俺の大事な上司リチャード氏の誕生日でもある日。

何という運命のいたずらか、俺の上司は宿泊先のアパルトマンで体調を崩してしまった。それほど熱は出ないタイプの風邪のようだったが、倦怠感と吐き気がひどいらしく、白い顔をしてベッドでうなっている。心配だ。非常に心配である。だがそれ以上に、申し訳ないのだが少しおかしい。

「健康です。私はまったくもって健康です」

「絶対調子が悪いだろ。そのまま寝てろよ」

「今は多少物憂い気分であるため横になっていますが、気が晴れたらすぐにでも起きてあなたの料理をいただきたく思っています」

「無理するな。たまごのおかゆ作ってるから。あ、ポリッジの方がよかった?」

「正義、せっかくのイブなのです…………」

「関係ないよ。暦のために人間がいるわけじゃないだろ。人間のために暦があるんだ」

「それでも地球が回るのと同じように、クリスマスも年に一度です…………」

「つまり来年もあるってことだよな」

「あなたが何日も前から今日のために仕込んでいた料理が…………」

「何度も言うけど、お前のために料理があるわけで、料理のためにお前がいるわけじゃない」

「……何という醜態だ……」

こういう時、低くぼそっと呟くリチャードの声は、少しだけジェフリーさんに似ている。もしかしたら先代クレアモント伯爵か誰かの癖だったのかもしれない。幼い頃一緒に暮らしていた相手とは、思いもよらないところが似てくるものだ。それはさておき。

ままならない体を芋虫のようによじって、何とか起き上がろうとするリチャードをなだめ、ベッドに寝かせ直し、胸をぽんぽんと叩いてついでに枕も整え、俺はにっこり笑った。

「クリスマスのごちそうはな、もう全部冷蔵庫に入れた」

「………………」

「もうない。テーブルにはチキンもキャンドルもないから、起きても無駄だ」

「…………プリンもないのですか?」

「それは冷蔵庫にあるよ。平常運転」

「………………あなたは何をお召し上がりに?」

「そんなこと明らかに、今お前が気にするべきことじゃないだろ。たまごのおかゆを二人分作ってるから、俺も一緒にもらう予定でいるけど」

「せっかくのイブが……」

「逆に聞くけど、一人でごちそう食べておいしいって思えるか?」

「……あなたの性格を思えば、難しいでしょうね」

そのあたりはお互いさまである。いつだったかオフの日にアマルフィに遊びに行った時、俺がホテルで体調を崩してしまい、結局そのまま有名な海岸を観に行くこともなく、ホテルのルームサービスを全制覇するという地味なホリデーにしてしまったことを思い出す。まあ、それで相手に気を使わせては元も子もないのだけれど。

弱火でグツグツ煮ていたおかゆの様子を見にダイニングに戻り、お盆にお茶の器と土鍋――大体いつでも持ち歩いているのはこういう時にとても便利だからだ。お腹を壊してしまった時にも助かる、スープジャーみたいなものでもある――を載せて戻ってくると、リチャードは観念したらしく、起きる様子もなくぐったりしていた。室内気温が低すぎてのびているとかげのように伸びている。心配だ。しかしこういう時に俺が狼狽えても何もいいことはない。

「中田屋のたまご粥、おまち。口がさっぱりするお茶もいれたよ。ヴィンスさんが前にくれたやつ」

「薬膳茶ですね……」

ベッドサイドのテーブルの上にヘルシークリスマスディナーを置き、俺は食事の支度を整えた。万が一こぼしても大丈夫なようにベッドに薄いビニールのクロスを敷く。起き上がりやすいよう背中にクッションを置く。

リチャードは粥を木のスプーンにのせ、ふーふーしながら口に運んだ。おいしいですと笑ってくれる顔には微かに汗が浮いている。苦しそうだ。もう気を使わなくていいから、風邪に悪態でもつきながらまずそうに食べてくれたらいいのにと俺は思うが、この男にとって、そういうことは逆に難しいのだろうとも思う。

リッキーは体調を崩すとガードが上がります、とは、ジェフリーさんの言だ。

端から端まで完璧人間のようなリチャード氏とはいえ、三十余年も生きていれば風邪もひくし腹も壊す。

そういう時、彼はいつも、より完璧で、より感じのいい人間になるのが常だったそうだ。

面倒を見てくれる人には愛想よく接し、医者が痛む部分をグイグイ押してもうっすら微笑みを浮かべている。その時には僕の大事な弟に乱暴するなとジェフリーさんが割って入ったそうだが。

弱みを見せない。

控えめそうで、それでいて付け入る隙を見せない笑みは、リチャードの身を護る堅固な要塞なのだ。

弱っている時に優しく『させる』機会を与えると、相手につけいられてしまうからと。

しばらく寮生活をして、久々にイギリスに帰ってきた時にはもう、そういう傾向があったというから、リチャードのスイスの寄宿学校での生活は、本人が俺に語ってくれたほど「大きな問題はなかった」わけでもなかったのだろう。

ゆっくり時間をかけてお粥を完食したリチャードは、日本人のように手を合わせた。

「ごちそうさまでした」

「今日は何とか食べられてよかったなあ。オレンジジュースも飲むか? ああ、無理しない方がいいかな。そうだ、デザートにすりおろしたりんごの蜂蜜あえとかどう?」

「私は大丈夫です。それより、いかがでしょう。あなたはしばらく外に遊びに行っては?」

「…………ん?」

「ひとりで過ごすには不適切な季節ですが、イルミネーションが美しいでしょう。多少気が晴れるのでは?」

はて。奇妙な言葉が聞こえた気がした。俺はからっぽになったミニ鍋を片付けつつ、おどけながら首を傾げた。

「外に行けって? わざわざイルミネーションを見に? イルミネーションよりきれいな人間と一緒にあったかい部屋にいるのに?」

「それはそれです」

「どれがどれだかわからないって」

「正義、あなたは私のお守役や使用人ではないのですから……」

「一人になりたいって言うなら俺は喜んで外す。そういう時もあるのはわかってる。でも、それ以外の気遣いとか心配りだったら、嫌だな。ここにいたい。俺はお守でも使用人でもないから、お前の言うことをきく義理もないし」

「………………本当に口が達者になってしまった」

「おかげさまで」

もう何度、俺はこの口が達者で律儀で不器用でとことん優しい上司の誕生日を祝わせてもらっただろう。ありがたいことに片手の指では数えきれなくなってしまった。

まだふうふう言っているものの、多少は元気の色が見えてきたリチャードは、しばらく優雅に苦笑いしていたが、思い出したように俺の顔を見た。

「クリスマスソング」

「……え?」

「何でもいいので歌ってください。せめてイブらしい思い出になるでしょう」

「もう十分思い出になってるよ。お前が寝込んで、たまご粥で」

「それはもうよろしい。正義、私が聴きたいのです」

耳鳴りは大丈夫か、と俺がジェスチャーで示すと、リチャードは何を言われているかわからないとばかりに肩をすくめた。オーケー。大丈夫らしい。

「じゃ、何を歌おうかな。今聞きたい言語とかある? このジュークボックス、それなりにいろんな円盤が入ってるからさ」

「では、せっかくですので日本語で」

「了解」

それから中田正義は三曲、ひかえめな音量で聖なる夜の歌を届けた。もみのき飾ろう。主は来ませり。雪よふれ。最後のはシナトラだが、もうクリスマスの定番ソングなのでいいだろう。うきうきする曲調だし。

最後はちょっとしたふりつきで披露すると、リチャードは拍手してくれた。そして汗をぬぐい、微笑んだ。

「ありがとうございます。大変思い出深いイブになったように思います。あなたの歌はいい。元気が出ます」

「お前の元気が出るっていうなら一晩だって歌うよ」

「ただの近所迷惑です。そろそろ休みますので、あなたもごゆっくり」

「うーい」

俺たちは最後にちらっと眼差しを交わし、笑った。

「誕生日おめでとう、リチャード。お前がいてくれると、俺の人生本当に楽しいよ」

「今後もそうあれることを祈っていますよ、正義。今日はご迷惑をおかけしましたね。おやすみなさい」

「おやすみ」

俺は寝室の扉を閉めた。

防熱ガラスのむこうには、しんしんと雪が降っている。がらんとしたテーブルがものさびしい。団らんのために作られた家具が、せっかくの活躍の機会を奪われてしょんぼりしているようにも見える。でもまあ仕方ない。長く生きていればこういうことだってある。

長く生きていれば。

長く一緒に過ごしていれば。

苦しんでいるリチャードには申し訳ないが、俺は何だか不思議な充足感を覚えながら、とりあえず冷蔵庫に突っ込んだ状態のごちそうを、一度テーブルに取り出して再整理することにした。ごちそうよ、お前を絶対に無駄にはしない、絶対にしないからな、と、あちこちのマルシェでいろいろなご店主と仲良くなったことを思い出しながら、俺はひとり作業に励んだ。

 

 

翌朝、クリスマス当日。

リチャードは新品のおもちゃのようにぴかぴかの元気はつらつマンになり、てきぱきと動き、朝一番のシャワーでしゃっきりして俺の前に現れた。二十一世紀のクリスマスにも主がお生まれになったかどうかはわからないが、新生リチャード氏は俺の前で元気にしている。救世主が降誕するよりその方が俺は嬉しい。

「正義。出かけましょう。静かな朝の町の散歩をし、その後はショッピングに」

「大丈夫か……? そもそもショッピングって、日本じゃないんだから、クリスマスに開いてる店なんてないだろ……」

「ではウィンドウショッピングを。体はもう何ともありません。あなたの粥とヴィンスのお茶が効いたようです」

「医者から処方された薬ってわけじゃないんだぞ、そこまでは……」

「イブをやり直すことはできませんが、ホリデーは続いています。楽しみましょう」

「今日は家でゆっくりしたいんだけどな……」

「雪遊びを好む子犬のような誰かには似つかわしくないお言葉ですね。私は出かけたいのです」

こういう時のリチャードに逆らってもいいことはない。さすがあのカトリーヌさんの息子という感じで、川の流れの如く俺を流れに巻き込んでゆく。逆らうのは無駄だ。

それじゃあお任せしようかなと、俺がおてあげポーズをするると、リチャードはにこにこ笑って俺を伴い、コートと手袋とマフラーを巻き、アパルトマンの外に連れ出した。

冷たい空気を肺に吸い込む。

雪のにおいがする。

音がない。

朝の街の空気が俺は好きだ。リチャードのきらきらしたオーラに似ている気がする。自分が少し清浄な生き物になれたような気がするから。

少し遅れて、テディベアのような温かいコートをまとったリチャードが出てきた。俺のクリスマスプレゼントである。とにかくあたたかいやつをくださいと、パリのデパートでありったけの語彙を駆使して買ってきたものだ。リチャードが風邪をひく前に準備していたものだったが、今年のチョイスは大当たりだったと言っていいだろう。ちなみにリチャードのプレゼントしてくれた手袋は、現在俺の手にぴったりはまっている。

「では手始めに、どこに行きましょう」

「そこまでは考えてくれないのか」

「極論を言えば歩くだけでいいのです。昨日動けなかったぶん、鈍った体をほぐしたいだけですので」

「やりすぎ注意だぞ。どこかであったかいショコラでも買えたらいいんだけどな」

「焼き栗くらいは売っているでしょう」

うっすらと積もった雪が靴底で音をたてる。しゃく、しゃく、しゃく。橋を渡るとセーヌ川とエッフェル塔の姿が見える。今日はあのパリの象徴みたいなタワーもクリスマス休暇だから、遊びに行っても無駄足になる。タクシーも少ない。みんな家で過ごしているのだ。こういう時俺は日本の正月を思い出す。文化の差異があっても、やはりどこの国の人にも、大切な人と過ごす特別な時間が必要なのだろう。

どこに行くかは特に考えず、俺達は並んで石畳を歩き始めた。