2026年ジェフ誕/ミニ小説

June 28,2026

憂いなき日

 

「正直に言うとドイツ語はそんなに得意じゃない」

「安心して。私の知ってるドイツ語は『ハーゲンダッツ』と、あとはレストランの名前だけだから」

「キム、申し訳ないけどハーゲンダッツはルーベン・マッタスの造語だよ」

「誰?」

ユダヤ系アメリカ人で戦後に商売を興して、とジェフリーが語り始めると、ヨアキムは何度か頷き言葉を打ち切らせた。大体わかった、という風である。

まるい外周を持つ噴水の縁を、白いハイヒールをはいたヨアキムが歩いている。噴水の下を歩くジェフリーは、ヨアキムの手に自分の手を添えていた。噴水池には周囲を照らすオレンジ色の電灯と、ささやかな星の光がうつりこむ。

夜。

ロココの庭は、広い宮殿の一角であった。

他に人はいない。

「前から気になってたんだけど、あなたはどうして自分の誕生日なのに、他人を労ったり、祝ったりしてくれるの?」

「自分の誕生日が大して嬉しく思えないからじゃないかな?」

「もう少し詳しく」

「大して嬉しく思えないけど、嬉しく思いたくはあるんだよ。だからそれが、『大した日』に思えるように、好きな人たちの笑顔が見たくなる。でも大体、みんな変な顔をするか、君と同じ質問をするけどね」

「あなたって聖人ねえ、ジェッフィ」

「トンスラは剃らないよ。誇り高い英国人としてはプロテスタンティズムの資本論を……」

「はいはい、そうね。そうね。可愛いわね。あらっ、先に進むのをちょっと待って。よろけちゃったから」

「飛び降りる時は池側じゃなくて僕の側にするんだよ。おっこちたらSPが走ってきて、デートの雰囲気が台無しだからね」

「あなたを潰したら、それもそれでSPが走ってくるんじゃないかしら」

「甘く見ないで。誕生日の男として、ちゃんと受け止めてあげます」

「まあ格好いい。でも意味が全然わからない」

ヨアキムは笑いながら池の縁にしゃがみ、ひやひやするジェフリーの前で、縁に腰かけ脚をおろした。

背広姿のジェフリーは、その姿を見て苦笑した。ライトグリーンのロングドレスの裾を、ヨアキムがてきぱきと整えて、皺が寄ったり水に濡れたりしないよう整えている。

「そのドレス、どう? 気に入らなかった?」

「好き。私は好きじゃないものは着ない。あのバカみたいに高いイタリアブランドの、去年の春夏オートクチュールでしょ。サイズもぴったり。さすがよね」

「そのわりにはご機嫌が微妙じゃない?」

「『まあジェッフィったらお金持ち! いつも高いプレゼントをくれるあなたが大好き!』って、手を組み合わせてつけまつげをバチバチさせて言ってほしいの? 本当に? じゃあそれをやるから、三つ数えてね。さーん、にーい」

「ごめん」

カウントダウンは止まり、噴水の音だけが残った。

ちろちろという水の音が、広い宮殿の庭に吸い込まれて消えてゆく。

ヨアキムは脚をぶらぶらさせた後、小さくため息をついた。

「謝れとは言ってない。ただ、わざわざ素敵なバースデーケーキを振舞ってくれなくても、あなたの誕生日が私は嬉しいの。それをわかってほしいだけ」

「僕だって嬉しいよ。君がいてくれるおかげでね。誕生日でもわざと嬉しそうな顔しなくていいところがサイコー」

「それは『嬉しい』って言うか、『楽』じゃないかしら?」

「このタイトな背広の着心地は最悪だけど、君のドレスとの相性はすごくいいから、着ているのが『嬉しい』よ。相性がいい感じがする」

「あーら残念、私はわがままだから、着ていると嬉しくて着心地がらくらくな服が一番好きなのよ。このドレスもホテルに帰ったらすぐ脱いじゃうつもり」

「ディナーもあるのに? この貸し切り宮殿から出たらパパラッチに写真を撮られるんだし、どうせならバチバチに決めて撮られようよ。SNSにアップする場合の画像フィルターの指定とかしておこうか?」

「タブロイド紙を思い出のアルバム代わりにするのはどうかと思うって言ったでしょ。ヨアキムさんは三百六十度いつでもどの角度から見ても美しいから、スウェットの上下姿で撮られても平気なの」

「かっこいいねえ、惚れ直しちゃう。でもロレンツ・アドロン・エスツィンマーにはスウェットだと入れないから、ディナーには何か別の格好にしてね」

「そうそれよ、あなたが教えてくれたレストランの名前。ハーゲンダッツが駄目なら、それが私の知ってるもう一つのドイツ語」

「もう一回言える?」

「……ロレンツ…………アド…………アドロ…………?」

「続きも」

「………………ハーゲンダッツ」

ジェフリーが笑い始めると、ヨアキムはその頭をべしべしと平手で叩いた。それでも笑い止まないので、今度は噴水の水をかけはじめた。ジェフリーが慌てる。

「まだ水は冷たいんだから触っちゃだめだよ! 風邪をひくから」

「もっとかけてあげる。前に一緒に見た『甘い生活』って映画みたいに」

「あれはイタリアだからいいんだよ! ドイツの噴水でぬれてもみんな白い目で見るだけじゃないかな、うわうわうわ、だからもうやめてって」

「全くどうしてこんなにいい人が、自分の存在価値に悩むようなことがあるのかしらね。わけがわからないわ。全然反省しない悪人だっているのに。ねえ、こういうの日本語では『水も滴るいい男』って言うんじゃなかったっけ?」

「確かにそういう表現はあるけど、これ以上の水遊びは危険なので強制的に回収します!」

「え?」

よっこらしょと声をあげ、ジェフリーはヨアキムの脚と腰に腕を回すと、プロセルピナを略奪するプルートーのような姿勢で抱き上げた。そのままよたよたと歩き、噴水から離れ、SPたちが隠れて待つ駐車場の方向へと向かう。ヨアキムはドレス姿で目をぱちぱちさせた。

「ジェッフィ、あなた……筋トレをがんばったのねえ……」

「他に言うべきことない? 何かもっと他に。『まあジェッフィ! プリンスチャーミングみたいよ!』とか。ううっ、もっとベンチプレス頑張ればよかった」

ジェフリーの首に腕を回したヨアキムは、頭を一撫でした後、そっと囁いた。

「お誕生日おめでとう。大好きよ」

「…………それは反則」

顔を赤らめるジェフリーに、ヨアキムは声をあげて笑った。

「じゃあ、あと十回くらい言ってあげる」

「いいからタクシーに行くよ。パパラッチにどういうポーズとる?」

「フォーメーションBからのフォーメーションG、最後にダブルピースは?」

「楽しくなりそう」

「でもそろそろ下ろして。このままだと駐車場に着く前にあなたを潰しちゃう」

「ありがとう。正直限界だった」

夜の宮殿の庭を、腰をかばいながら歩くジェフリーの手を握り、ヨアキムはハイヒールですたすたと歩いて行った。