『ハッピーバースデー・トゥー・ユー』 『ハッピー・バースデー・トゥー・ユー』 『ハッピー・バースデー・ディア・リチャード』 『ハッピー・バースデー・トゥー・ユー』 『おめでとう! 私の可愛いリチャード!』 電話口で、カトリーヌさんが歌っていた。 俺の上司は、頭が痛そうな顔でその電話を受けている。 カトリーヌさんというのは、世界のどこかで元気に暮らしているリチャードのお母さんのことである。俺と会った時、彼女は南フランスのヴィラで歓待してくれた。その後は確かオランダに移り住み、そのあとはイタリアに行って、今はどこにいるのか知らない。クロアチアだっただろうか。 その彼女が、一人息子のリチャードの電話をかけてきた。 世界共通、ハッピーバースデーのうたを歌うために。 『喜んでもらえたかしら?』 『愛して
「知ってるか、こういうのを昔の世界では『ゴミ屋敷』って言ったんだぜ」 「ゴミ屋敷…………いや、この屋敷の構築物は従来の建造物と同じ、リサイクル素材でできたアスファルトとセラミックで」 「あーあーそういうことじゃねーよでももうそれでいいよ」 海にそびえる白亜の塔、キヴィタス自治州。 富裕層しか暮らすことのできないその最上階近くで、一人の人間と、一体のアンドロイドが立ち尽くしていた。 目の前に広がる屋敷は、たまねぎのようにたわんだ屋根を幾つも擁する、おとぎ話の宮殿のような建造物だったが、その周辺。 全てを。 半透明のポリ袋が埋め尽くしていた。 廃棄物である。 中身は全て、布類であった。 服である。 「過去のこの屋敷の持ち主、アンドリューズ・ワイエムは著名なデザイナーだったそうだ。天候管理部門にも物言いが可能な権力者で、この屋敷のまわりには雨を降らせないようにという言いつけも厳守させたという。逝
※この小説は、集英社オレンジ文庫から発売されている『忘れじのK 半吸血鬼は闇を食む』のネタバレを含みます。まだ読んでいない方は、可能であれば読了後の閲覧をおすすめいたします※ ・ ・ 「ガビー、甘いものが好きなの?」 「どうして」 「だって……」 こういうものを作ってくれたわけだし、と。 テーブルの上を促すかっぱに、ガブリエーレは苦笑いした。 九月に誕生日を迎えた、幸薄いダンピールに、ガブリエーレはスーパーで購入できるありあわせの材料で、コーヒーとマスカルポーネのクリームの重ねもの――ティラミスを作成したところだった。 言いよどんでから、ガブリエーレは答えた。 「甘いものは、そうだな、食べるのが好きだ。ブドウ糖はテスト勉強の相棒だからな。だが作るのは……そうだな…………これが初めて、だな」 「すごく上手だよ。身近に料理が上手な人がいた
俺の名前は中田正義。二十代の日本人男性だ。 俺には毎年、気持ちがもやもやする日がある。 気が重い、とまでは言わないものの、もやもやする日が。 ひろみ――俺の母の誕生日だ。 毎年花を送っている。海外での生活が長くなってからは、電話をかけるようにも心掛けている。ひろみ、おめでとう。元気か? 元気で過ごしてくれよ。俺は元気だよ。じゃあ。 それで終わる。 我ながら嫌になるが、これはただのルーティンだ。 ただ、そういうことをやっているだけである。 一般的な一人息子というのは、母親の誕生日をどんな風に祝っているものなのだろう。 こんなことを考えてしまうのは、俺がいわゆる、『一般的な一人息子』ではない自覚があるからだ。しかしそれを言うなら、ひろみだって『一般的な母親』ではないと思う。いい、悪いの話ではない。彼女はシングルマザーだし、過酷なDVサバイバーであるし、俺を大学まで通わせてくれたあ
【注意 この小説には「宝石商リチャード氏の謎鑑定」10巻以降のネタバレが含まれます。可能であれば該当巻、あるいは11巻までご通読の上、お目通しください】 「あっつ。あっつい。あつすぎ。日本の夏は過ごしやすいなんて言ったやつは大嘘つきよ」 「誰もそんなこと言ってないよ」 よく冷房の効いたホテルの一室で、男はたてがみのように、ポニーテールにした長いアッシュグレイの髪の男をゆさぶった。それを見ている男が、苦笑して飲み物を持ってくる。冷えたペットボトルのお茶を、ホテルの据え付けのグラスに移しかえたものだった。 手に持たされたグラスで、強制的に乾杯させられ、長い髪の男は芝居がかったため息をついた。 「別に疲れたって意味じゃないからね。
「――日付が変わったね。あなたのお誕生日だよ。おめでとう!」 「ありがとう」 「おめでとーう!」 「ありがとね」 「テンションひっくい。何でもしてほしいことしてあげるよ」 「別にいいよ。そういう関係でもないし」 「どういう関係のこと言ってるの? 友達の誕生日を祝うのは当たり前のことだよ」 「………………」 「ちょっと」 「………………」 「ちょっとー? ハロー?」 「……いや、君と僕は、友達だったんだなあって」 「私の中では、一度会ったら『お知り合い』、二度会ったら『知人』、三度会ったら『お友達』なの。よって私たちはお友達。もう十回くらいは会ってるでしょ? そういう意味」 「ああ、そういうヨアキムコードがあったんだ」 「あったの。さ、何してほしい?」 「いいよ、別に何もしなくて」 「踊ってあげるけど」 「いい。特にないんだ。してほしいこと」 「…………ふーん。ま、いいよ。わかってはいたし。
「正義!」 「リチャード! やったな!」 「やりました」 「やったな!」 「ええ、やりましたとも」 俺たちは満面の笑みを浮かべ、ハイタッチをした。高校生の運動部のごとくさわやかな手の平の音が、パーンと部屋の中に響き渡る。そして粉が飛び散る。 ホットケーキの試行回数は、実に十四回を超えていた。 その十四回のうちわけを説明する気はない。名誉の問題である。いろいろあった。とりあえずいろいろあったことだけわかってもらえればいい。粉が散り、牛乳が飛び、砂糖が舞い、火災報知器が発動した。 そして十五回目。 見事に俺の上司、リチャード・ラナシンハ・ドヴルピアン氏は、ホットケーキを焼き上げることに成功したのである。直径十五センチほどの、満月のようなまあるいケーキ。あまり膨らまなかったが、もちもちしておいしそうだ。 実の所リチャードが、苦手な料理に挑むのはこれが初めてではなかった。 だが最初から、俺の助力を
「……バレンタインに、好きな子からチョコもらったんだけど、どうすればいいかわからない」 爆弾。 たとえるならば、そんな言葉だった。 エトランジェのうららかな午後、ご来店なさった春田さまご夫妻は、ひとりの男の子をともなっていた。名前は祐也。中学二年生の男子で、俺の感覚だとおよそ宝石に興味のある年頃とは思えないのだが、物静かで思慮深そうな文系男子という雰囲気だった。 そしてご夫妻曰く、今日は祐也がエトランジェに行きたいって言ったのよね、とのことだった。 俺とリチャードは密かに視線を交わした。十四才の男の子が、両親に秘密で宝飾品をオーダーするとは思えない。何か話があってのことだろう。俺か。リチャードか。どっちだ。まあリチャードだろうが。 久しぶりに入荷した緑色のガーネットや、元気なオレンジ色のオレゴンサンストーンなどをお買い上げになった後、ご夫妻は気を利かせたのか「ちょっとそこの喫茶店でケーキを
September 24,2020
昔の人曰く、『年をとると本当の友達がわかってくる』という。 そんなのわかりたくもない、というのが下村晴良の実感だった。 それはつまりこういうことだろうと、彼は思っていた。若い時代には比較的多くの出会いがあるものの、歳月にもまれ、世間にもまれ、個々人の事情にもまれてもなお、互いに連絡を取り合える相手はごく少数である、と。 そんなのはただの一般論にすぎず、余計なお世話だと言い返したくもなるものだった。 日本を出て、スペインの片田舎に出てきて、連絡を取り合える『友達』など一握りである。 走っても走っても走り続けるようなレッスンに追われる日々は充実していたし、同じ学び舎で音楽に燃える学友たちの存在は熱かったが、少し気が抜けると、孤独感が襲ってくる。 まるで世界にひとりきりで、しゃかりきになっているような気がした。 「だからさ、エンリーケには本当に感謝してるんだよ」 『それはさておき、もう少し英語が
俺は中田正義。どこにでもいる平凡なラーメン屋『なかたや』の店主だ。とある田舎町の某所に店を構えている。なかたやのラーメンはだしが決め手で、何と言ってもおすすめはしょうゆ。最近はとんこつも人気だ。右隣にはイングリッシュ・パブ『ジェフ&ハリー』、左隣にはスリランカ料理店『ランプの魔神』があるので、会社の昼休みの時間帯には混雑するが、顔ぶれの八割は常連さんだ。 常連さんたちは、いつも俺のラーメンをおいしいと言って食べてくれる。 それはとても嬉しい。 でも、できることなら、ひさしぶりに新しいお客さんに出会いたい。 ぬるまゆの中でたゆたう俺を、厳しく窘めてくれるような人でもいい。 わがままかもしれないが、そんな風に思っていた時。 まさにその時だった。 なかたやの赤い暖簾を、俺の見知らぬ人影がくぐってきたのは。 「いらっしゃい!」 「お邪魔いたします」 しゅっとしたシルエットの男性だ