世の中には二種類の人間がいる。品定めを『する』側と、『される』側である。 その極致がこの場所なのかもしれないと、十八歳のジェフリー・クレアモントは理解していた。 「まあ素敵なお召し物。次代をになう坊ちゃまがご立派で、お父さまもさぞかし鼻が高いでしょうね」 「ありがとうございます、メアリー夫人。ですが自分は次男ですので」 「本当にねえ。こんなことは言わない方がいいのかもしれませんけれど、お兄さまとあなたが逆でしたらよかったのに」 言わない方がいいかもと思ったなら言うなよ、と思いつつ、クレアモント伯爵家の次男は礼儀正しい笑みを浮かべ続けた。メアリー夫人は近隣の侯爵家の先代当主の夫人で、御年は八十に近い。何を言われても目くじらを立てるべきではなかった。 六月のイギリスを代表する風物詩、ロイヤル・アスコット。 アスコット競馬場と呼ばれるロンドン郊外の場所で開催されるのは、王族主催の華やかな競馬だっ
花の中で眠っていた。 目が覚めた時まず、えっどうした、と思った。頭の上で花が咲いているのだ。赤とオレンジのあいだくらいの淡い色合いの花。コクリコだろう。ベッドやソファでうたたねした時とはまるで視界が違う。花の上には空が広がっている。明らかに屋外だ。 そして。 「おはようございます」 リチャード。 空と、花と、リチャード。 何だかポエティックだなあと思いながら、わけのわからないまま目を擦り、上半身を起こすと、頭の上から葉っぱが落ちた。 庭園と池。太鼓橋。ああ。 「ヘンリーさんの新しい家……だっけ」 「その通りです」 「コンセプトが印象派で、ええと、ここは」 「ジヴェルニー」 「ってことは、フランス」 「ウィ」 その通りです、とリチャードが答える。徐々に状況理解が現実に追い付いてきた。 俺とリチャードは一週間前からヨーロッパ大陸に来ている。ミュンヘンでのミネラルショーに参加するためだ。ミュンヘ
「うーん…………」 スリランカ、キャンディ市某所の社宅。 二階のクローゼットを前に、俺、中田正義はうなりごえをあげていた。 高校生や大学生の頃には想像だにしなかった悩みに直面したのである。 服がもう、収納に入りきらない。 捨てないと入らない。 バラエティ番組か何かで『服を買いすぎてしまう女性』というものを初めて見た時に、世の中にそんな悩みがあるのかと感動すらした俺が、二十代半ばの今、その悩みを我が事として引き受けている。これもある意味感動的ではあるが、どっちかというと現実逃避だろう。 捨てなければ。 服を捨てなければならない。 まずはクローゼットの現状を認識しよう。スーツはいい。新しいものを買った時には古いものをご近所さんに差し上げているので、それなりに回転している。私服もいい。着まわしているポロシャツやTシャツは量販店のものなので、古くなったら雑巾にしている。 問題はこれだ。 「正義、ど
「うかない顔してますね」 「……ジェフリーさん」 「中田くんはそんなにパーティが苦手でしたっけ?」 晩夏のフランス。 ロワール川沿いに建つ古城が、今日のレセプションの会場だった。 クラシック音楽とEDMをまぜた、どことなく上品なダンスミュージックが、宝石とアンティークの展示された一階ホールを満たしている。フランスに軸足を持つ大手ブランドの新コレクションお披露目パーティで、俺とリチャードは招待客枠だった。厳密にいうとリチャードだけが。一名同伴可能。 俺は秘書枠、ガードマン枠である。 だが、おおかたの招待客は、パートナーを伴っていた。 美貌の宝石商、英国伯爵家の血をひくリチャードは、引く手あまたの生きた宝石である。まあ何て素敵、まあエレガント、さまざまな言葉で存在を称賛され、それとなく探られる。 そちらの方は? と。 秘書ですとリチャードは紹介する。 ああそうなのね、と皆さんは微笑み、俺を眺め
十二月二十四日。クリスマス・イブ。人々の気分が浮き立つ日。 俺の大事な上司リチャード氏の誕生日でもある日。 何という運命のいたずらか、俺の上司は宿泊先のアパルトマンで体調を崩してしまった。それほど熱は出ないタイプの風邪のようだったが、倦怠感と吐き気がひどいらしく、白い顔をしてベッドでうなっている。心配だ。非常に心配である。だがそれ以上に、申し訳ないのだが少しおかしい。 「健康です。私はまったくもって健康です」 「絶対調子が悪いだろ。そのまま寝てろよ」 「今は多少物憂い気分であるため横になっていますが、気が晴れたらすぐにでも起きてあなたの料理をいただきたく思っています」 「無理するな。たまごのおかゆ作ってるから。あ、ポリッジの方がよかった?」 「正義、せっかくのイブなのです…………」 「関係ないよ。暦のために人間がいるわけじゃないだろ。人間のために暦があるんだ」 「それでも地球が回るのと同じ
「家の中でクリスマスマーケットするのってどんな気分?」 「ン。多少、ふしぎ」 「そりゃそうだね!」 茶髪の日本人は、見渡す限りの庭園と、そこここに広がるクリスマスの出店を眺め、あーっと叫び、のびをした。広大な敷地と喧騒のせいで、特に誰も振り向かなかった。 二人の背後には、巨大というにもあまりある、英国貴族のカントリーハウスが控えている。地図帳で言うところのクレアモント・ハウスだった。 「広いなー。スペインの農園にお邪魔して、『広い家』には慣れたつもりだったけど、やっぱこの広さは異次元だ」 「長年にわたる、支配と、搾取と、暴力の、結果」 「エンリーケ、やっぱ日本語の語彙に偏りがあるよ……」 私は英国人なのでと、茶色いカシミアのコートのイギリス人は英語でふざけた。 ツリーのかざりやスコーン、ミンスパイ、ホットワイン、園芸用品など、手に手に収穫を持って出店をめぐる観光客たちは、庭園と邸宅の持ち主
「桜を見ると、俺、日本人でよかったなあって思うんだよ。順序が逆かもしれないけど」 「左様ですか」 「きっと日本で生まれて、毎年三月か四月に花見をして、なんとなくそれがいい思い出として心に残ってるから、桜を見るたびいい気分になるんだろうな」 「では、今のあなたはいい気分というわけですね」 「うん。まあ桜だけが理由じゃないけど」 ピンク色のちょうちんでかざられた川沿いの街は、山手から少し歩いた、のんびりとした地区にある。毎年さくら祭りという、わりとそのまんまの名称のお祭りがおこなわれていて、ちょうちんのあかりに照らされた夜桜を眺めながら歩けるのだ。こういう催しを見るたび、俺は日本の治安の良好さをひしひしと感じる。時刻は夜の十時になろうとしているが、当たり前のように幼い子ども連れの親もいる。いいところだ。 ピンク色の桜の花が咲いている。 闇の中を流れる舟のように散る。 かすかな甘い匂いが、夜の貴
「二藤勝、なぜ君はSNSをしない」 「えっ?」 「そもそも登録すらしていないのか?」 ほらこれ、と、俺の高校時代の友人にして、現仕事仲間でもある鏡谷カイトは、ずいっとスマホを差し出してきた。 スマホアプリおんちを自認する俺でも知っている、大変ポピュラーなSNSの画像がそこにはあった。 注意喚起と書かれている。 【注意喚起!! このアカウントは本物の二藤勝ではありません。本物の二藤勝はSNSアカウントを持っていません。本人情報は事務所のウェブサイトを参照しましょう。なりすましにご注意ください!】 このアカウント、の後ろにずらずらと並べられたIDに、俺は目が泳いだ。いっぱいある。かなりある。 これは全部、俺になりすましている人のアカウントというものらしい。 「へえー……面白いこと考えるんだな」 「『面白いこと』とはご挨拶だな。ファンにとっては死活問題だ。君の本人アカウントだと思ってフォローした
「いいこと教えてやろうか。お前、雑用全部押し付けられてるぞ」 「そんなことはないよ、ワン。諸先輩は私のためを思ってこういったことを」 「押し付けられてんだよ。あいつらは今頃ネオンカラーのピンクのビールで乾杯してるぜ。賭けてもいい」 「ピンクのビールは飲んだことがないな……私の知っているビールというのは、どれも静脈血のような青黒い色をしていて」 「喩え方! 人間らしく適切な喩え方をしろ! 普通の人間は飲み物を血液には喩えねーの! OK? グロいだろ」 「オーケー……すまなかった。無粋なことをした……」 「わかりゃいいけどさ。ったく、ガラクタばっかりだぜ」 「まだまだ使えるものも多いよ」 海上都市キヴィタス自治州高層階。 天にも届く高さの機械仕掛けの街の片隅で、ひとりの人間とひとりのアンドロイドが作業にいそしんでいた。どちらも背中に巨大な金属の籠を背負い、筋力を十倍に増強するロボットアームを装
「いけ! そこだ! 殴れ! 殴りのめせーっ!」 「ガビー、それはサッカーの応援の言葉じゃないよ……」 「いいんだよ! これはサッカーじゃなくカルチョで、しかも『カルチョ・ストーリコ』だから! いけ! ぶん殴れ!」 「あー……痛そうに、あー、あー……」 常ならば観光客や路上駐車でごったがえす、フィレンツェ歴史地区、サンタクローチェ教会前。 その日だけは、四角く区切られ、土が敷き詰められ、四方を客席で埋められていた。 十メートルかける十メートルほどのスペースの中では、赤と白のユニフォームのチームが、ボールを奪って戦っている。スペースの端と端にゴールとされるゾーンがあり、そこまでボールを運んで行けば点数獲得である。 端的に言えばカルチョ――サッカーの試合だった。 だが、反則は、ほぼ、ない。 ボールを奪うために、敵対チームの相手を殴ってもいい。蹴ってもいい。 もっとも原始的な形と呼ばれるカルチョ、
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